第二話 偏愛 三
三
「ちょっと頭を冷やして来る」と凪ちゃんがどこかに行ってしまったので、私は手持ち無沙汰になった。
横山先輩との約束の15時まではまだ時間がある。適当にキャンパスを回ることにした。
図書館でちょっと居眠りをしてみたり。
なんとなしに音楽棟を覗いてみたり。
美術棟でペンキのフタが固くて苦戦している学生がいたので、代わりに蓋を開けてあげたり。
教授の一人が溝に鍵を落として困っていたので、フタを持ち上げてあげたり。
ラグビー部がラグビーボールを木の枝に引っかけてしまって騒いでいたのでちょちょいと登って取ってあげたり。
そんなこんなで楽しく過ごして、そろそろゼミ室にいこうかなと、社会科の棟にむかった。
エントランスから校舎に入った瞬間、入り口の角に潜んでいた誰かが、死角から片足をぬっと突き出してきた。
避ける間もなく、足を引っかけられる。
が、相手の力が弱かったのか、私の歩みは止まらなかった。逆に私の両足で相手の足を挟んでしまう形になってしまい、だれかさんは悲鳴を上げて私の背後に転がった。
「いたい! なんなのよその馬鹿力!」
「え? あ、ごめんなさい! ・・・・・・って、沙也香?」
私があわてて振り返ると、花山沙也香が床に倒れ込み、自ら突き出した足をさすっていた。ちょっと涙目になっている。相当、痛かったのだろう。
「・・・・・・なにしてるの?」
純粋な疑問を投げかけたつもりが、ちょっと煽ってる感じになってしまった。沙也香は私をキッと睨み付け、壁に寄りかかるようにして立ち上がった。
「こっちの台詞よ。あんた、横山さんのとこに行くつもりでしょ」
私は黙った。図星だし。
「知ってるわよ。女子の間で噂になってるから。あんた、最近毎日のようにゼミ室に入り浸ってるらしいじゃない。前まであんなに興味なさそうにしてたくせに、大した変わり身ね」
「あんた」か。
つい数週間前までは笑顔で「ひとみ」と呼んでくれていたのに。もう友人ではなくなったことを呼び方一つで実感してしまう。
いや、もともと友達ではなかったのか。
「・・・・・・私の勝手でしょ」
沙也香の横山先輩への気持ちは知っている。でも、それはそれ。これはこれだ。私の恋路にどうこう言う権利は沙也香にはないはずだ。
沙也香が笑った。心から侮蔑の念を表す、そんな嘲笑だった。
「あんた。自分が横山さんと釣り合うなんて、本気で思ってるの?」
ズキリと微かな胸の痛みを感じながら、「どういう意味よ」と聞き返す。
沙也香はまた鼻で笑って自慢げに語り出した。
「横山さんはね。バイトでファッションモデルやってるような人なのよ。あんたとは大違い。それに、横山さんはあの見た目だけでモテてるわけじゃないの。田尾寺先生のゼミは見かけによらずすごく厳しくて有名なのに、そこで何年も他のゼミ生を引っ張ってる。それどころか、まだ院生なのにそこらの研究者にも負けない論文を出してるのよ。ああ見えて高校の頃は空手で全国大会まで出てる。高校の頃から勉強もすごくて、何度も全国模試で・・・・・・」
ぺらぺらと横山先輩の魅力を次々と並べ始めた沙也香。こうして見るとちょっとストーカーぽくって若干引く。でも、中学の頃から恋い焦がれていたというのは嘘ではないのだろう。
顔を上気させながら横山語りをする沙也香の全身を改めて見る。
小まめに手入れされているだろう柔らかそうな髪。完璧なメイク。今時の流行をきっちり押さえているのだろうファッション。高そうだけど主張しすぎていないバッグや小物。
きっと、横山先輩に振り向いてほしくて何年も努力してきたのだろう。
私は、ちらっと横にある窓ガラスに映った自分の姿を見てみた。特に手入れもしていない適当な茶髪のショートカットに、化粧っ気のない顔。安物のパーカーに色あせたジーンズ。
「この前なんかファッション雑誌の企画で・・・・・・って聞いてる?」
私は床を見つめて唇を噛んでいた。
私は、沙也香に何一つ勝ってない。
頭もそんなに良くないし、真面目でもない。面白いことは言えないし、聞き上手でもない。運動神経はいいと思うけど、クラブ活動一つまともに続けられないような人間だ。
私は、ふさわしくない。
「いい! あんたなんて、どうせ捨て猫みたいに同情してもらってるだけよ。横山さんが優しいからって調子に乗って。恥ずかしいと思わないの? 横山さんの貴重な時間をあんたのせいで無駄にいいたたたたい! いたい! いたい!」
急に沙也香の声が悲鳴に変わり、驚いて顔を上げる。
沙也香がつま先立ちになっていた。まるで透明な巨人に髪をわしづかみにされたかのように、沙也香の柔らかなロングヘアが空中に引っ張られていた。
「あらあら。誰かと思えば」
沙也香の背後の入り口から、黒づくめの小柄な少女が現れた。丸眼鏡の奥で邪悪な笑みを浮かべている。
「沙也香ちゃんじゃない。今日も元気そうね」
沙也香は見えない力で上方に引っ張られているらしく、つま先立ちで手を振り回している。後ろを振り向けないようだが、声で相手が誰かわかったのだろう。顔が恐怖で引きつった。
「み、三田凪! あんたいたの!?」
「さっき来たのよ。ひとみが暗い顔してるから、誰と話してるのかと思えば」
ぎりりと不気味な音がして、上方に浮いていた沙也香の髪が今度は凪ちゃんの方向に伸びた。沙也香はつま先立ちのまま背後に引っ張られ、おへそを天井に向けるようなあり得ない角度になる。沙也香が悲鳴を上げる。
そんな背筋をのばしたブリッジのような体勢でばたばたと暴れる沙也香の耳元に、凪がささやく。
「どうやらお仕置きがたりなかったようね」
「ひいい」と再度悲鳴を上げた沙也香は、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいい!」と泣き出し始めてしまった。
「凪ちゃん! やめて!」
私が叫ぶと同時に、すっと、沙也香を引っ張っていた力が消失したらしい。バタリと沙也香が背中から床に倒れる。
一瞬だが、見えた。
入り口からの日の光で出来た凪ちゃんの足元の陰が、ぐわりと奇妙に歪み、また元の形に戻るのが。
床の上で体を丸め、恐怖と痛みにすすり泣く沙也香を、凪ちゃんは恐ろしく冷たい目で見下ろして、低い声でつぶやいた。
「失せろ。雌狐」
沙也香はびくりと体を震わせると、床に落としたバッグをひっつかみ、一目散に入り口から飛び出して行った。脱兎のごとくとはこのことだろう。
「な、凪ちゃん今の・・・・・・」
「別にたいしたことじゃないわ。ちょっと脅かしただけ」
ちょっとであんなことは起こらないだろうと思ったが、何だが突っ込んで聞くのも怖かったので、「そ、そうなんだ・・・・・・」で済ませてしまった。知らぬが仏。
「それはそうと」
凪ちゃんはいつぞやのように人差し指を立てた。
「ひとみにかけられた呪いに関して仮説を立ててきたわ」
「の、のろい? まだそんなこと言ってるの凪ちゃん!」
凪ちゃんは「お前こそなに言ってんだ」とでも言いたげな目で私を見てきた。
「横山がひとみにかけてる黒魔術のことよ。多分幻惑の一種でしょうね」
「・・・・・・! 横山先輩がそんなことするわけないじゃない!」
「いい? 調べたところ、横山の研究の専門は西洋民俗学よ。中世ヨーロッパでは邪悪な媚薬や幻惑魔術がそれこそ腐るほど存在したの。横山は院生の枠を超えて突っ込んだ研究をしているらしいし、そのうちの一つを知って、使っているとしても不思議じゃないわ」
「そ、そんなのこじつけだよ」
凪ちゃんがそういうことに詳しいのは知ってる。そして信じがたいけど実際に存在していることも前回のことでわかった。でも、日常生活の全部が全部、そういうことじゃないはずだ。
「凪ちゃんがそういうことが好きなのはわかるし、もう絶対に否定もしないって決めたけど。でも、なんでもかんでも結びつけるのは良くないと思う。まるで陰謀論にとりつかれた人みたいだよ」
凪ちゃんはため息をついた。
「なんでもかんでも結びつけてるわけじゃないわ。ただ、今回はあまりに不自然でしょう?」
「不自然? 何がよ」
不自然なことなんてなにもない。私は先輩に偶然、悩みを聞いてもらって。その先輩の優しさを好きになっただけだ。
凪ちゃんはやれやれとでも言いたげに言い放った。
「考えてみなさいよ。大学一のモテ男が、なんでひとみの相手なんかするのよ」
時間が止まったかと思った。
沙也香に言われても、しっかり傷ついた。だけど、でも、幼なじみの凪ちゃんに言われると、本当に心がえぐられた。
やっぱり端から見たらそう見えるんだ。
凪ちゃんもそう思ってるんだ。私じゃ、釣り合わないって。
「聞くところによると、横山は相当な人気らしいじゃない。性格もいいって評判よ。そんな引く手あまたの男が、男ウケ抜群な沙也香を尻目に、ひとみにが惚れ込むはずないじゃない。不自然よ。絶対に裏があるわ。絶対、邪な企みがある。だからゼミ室にはもう行っちゃダメ」
「・・・・・・うるさい」
いつの間にか、私はまた床を睨み付けていた。両手を痛いほど握りしめているのがわかった。
「いい? 多分、愛の妙薬よ。おそらくは植物性の媚薬。惚れ薬ってやつね。ひとみが毎回、飲まされてる紅茶におそらくなにかが・・・・・・」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!」
気が付いたら私は床を睨み付けたまま叫んでいた。凪ちゃんがびくりと動きを止める。
「・・・・・・ひとみ?」
ぼろぼろと涙が床に落ちていく。
いいじゃないか。釣り合わなくたって。
いいじゃないか。身の程に合っていなくったって。
いいじゃないか。こんな私でも、恋ぐらいしたって。
絞り出した自分の声が震える。
「な、凪ちゃんは、私の、は、はじめての恋愛を、邪魔したいんだ」
凪ちゃんが焦った声を出す。
「ち、違うわ。私はただ、ひとみが心配で」
「嘘! すぐ呪いだとか魔術だとか言って! 私の大学生活をそんなにめちゃくちゃにしたいの?」
私は感情に任せて叫びながらも言った側から後悔していた。
違う。前回、凪ちゃんは呪い殺されそうな私を助けてくれた。それが事実だ。とっても感謝してる。あれからも凪ちゃんは何かと悪魔やら霊やらの話をことあるごとにしてきたけど、私もそれなりに楽しくおしゃべりしてた。
でも、今回だけは。
今回だけは呪いとか邪悪とか言ってほしくなかった。
「わかった。わかったわ。ごめん、ひとみ。傷つけるつもりはなかったの」
凪ちゃんがしゅんとした。小柄な体がより小さくなった気がする。
いや、謝るのは自分の方だ。前もそうだったじゃないか。これが凪ちゃんの心配の仕方なんだ。
「私こそごめん」と言おうとした矢先、凪ちゃんが肩にかけた黒いバックから、ミネラルウォーターを取り出した。買ったばかりなのだろう。大学の購買の購入済シールが貼ってある。
「でも、これだけは持って行って」
「え、なに?」
「ただの水よ。妙薬への対象法は簡単。飲まなければいいの。紅茶を飲んじゃダメ。紅茶をどう勧められても適当に断って。もし喉が渇いたらこっちを飲んで・・・・・・」
私は一瞬で怒りが沸騰するのがわかった。なんにもわかってない。
私は思わず、そのペットボトルを手で振り払った。ペットボトルが床に転がる。
「ちょ! ひとみ!」
「もうたくさん!」
私は叫んだ。視界が涙で揺らぐ。
「呪いだとか、薬だとか! みんながみんな、沙也香や凪ちゃんみたいに黒魔術みたいな異常なことしてる人たちじゃないの!」
そう言い放った瞬間、凪ちゃんの表情が変わった。短く息を吸い込み、黙る。
私は自分の失言に気が付いた。
「あ・・・・・・ ちが」
でももう遅かった。凪ちゃんは私を睨み付けた。
「なに? ひとみにとって、私は沙也香と同類ってこと?」
ちがう。ちがうよ凪ちゃん。
「もういいわ。好きにしなさい!」
凪ちゃんは顔を泣き出す寸前のように歪ませるとくるりと背を向け、大股で歩いて行ってしまった。
声をかけなければ。謝らなければ。
でも、凪ちゃんが校舎を出て行くまで、私はなにも言えなかった。
ゆっくりと、床に転がったペットボトルを拾い上げ、エナメルバッグに入れる。
もうやだ。なんでこうなるの。
私はとぼとぼと廊下を歩き、ゼミ室に向かう。
横山先輩に会いたかった。話を聞いてほしかった。優しい言葉をかけてほしかった。
ゼミ室の扉をノックする。
「どうぞ」
横山先輩の、心地よい声が響いた。