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第二話 偏愛 七


 七

 


 横山が目を覚ました時、初めに感じたのは固いフローリングの感触だった。それも顔に感じた。どうやら床に顔を押し付けて倒れているらしい。冷たい床が腫れあがった頬に心地よい。

 そこで、気を失った経緯を思い出した横山は、慌てて起き上がろうとした。

 ひとみ! ひとみはどこだ?

 しかし、そこで自分の手足が縛られていることに気が付く。ほとんど身動きが取れず、その場で芋虫のようにもがくことしかできない。見える範囲で周りをうかがうと、明かりのついていない部屋の床に自分が倒れていることが分かった。暗くてよく見えないが、見知らぬ部屋のようだっだ。

「あら。お目覚めかしら」

 頭上から楽し気な声が降りかかる。

 必死の思いで亀のように首を挙げて前方を見る。

 三田凪が部屋の中央で回転いすに座り、足を組んでいる。横山のことを、ペットのカメを見るかのごとく愉快そうに見下ろしていた。

「ここはどこだ!」と叫ぼうとしたが、思うように声が出なかった。かすれたうめき声になる。喉にもダメージがあるのかもしれない。

「はじめは、ひとみの話から、てっきり媚薬だとばかり思っていたの。まあ、それも間違いないんでしょうね。あんたの部屋を調べてみたらこれがあったもの」

 凪は小瓶を取り出した。少し濁った液体が入っている。

「これ、香りからしてコリアンダーで作ったんでしょ。比較的、手に入りやすい原料だし。しかもスパイス系の紅茶に混ぜるとは考えたわね。詳しくない相手だったらそう気が付かないわ。それに出来も悪くない。黒魔術に耐性があるひとみじゃなければ、多分、一杯で落ちちゃってたでしょうね」

 凪は小瓶をそばにある机に置いた。

「でも、まさか、『愛の呪文』まで使ってくるとは思わなかったわ。確かに、媚薬よりもお手軽な『愛の呪文』は17~18世紀に大流行したけれど、そのほとんどがまがい物だったから、私も失念していたわ。正しい文言を知っていても、魔術の才能がある程度ないと効果ないし。でも、あなたはあったみたいね」

 そういうと、凪はにやりと笑った。

「あと、本当にこれは驚いたわ。」

 そう言って、凪は何かのリモコンを引き寄せ、ボタンを押した。

 外国語の音楽が流れだす。横山がゼミ室と自分の持ち家で、BGMのように流していた曲だ。

「一見、単なるフランス語のバラードかと思いきや、よく聞くと、これ、あなたの声ね」

 凪は何がおもしろいのかクスクスと笑い出した。

「なかなか美声じゃない。気に入ったわ。特に私が評価するのはサビのところ。かっこいいサビかと思いきや、『愛の呪文』の原文を何度も繰り返してる。名曲だわ。」

 凪は曲をかけたまま、ゆっくりと立ち上がった。人差し指を立て、床に倒れる横山の周りを回り始める。

「つまり、ひとみは、高純度の媚薬が混ぜられた紅茶を数週間にわたって飲まされ続けた。しかも、『愛の呪文』を混ぜ込まれた歌声を延々と聞かされながら。まさに呪いのサブリミナル効果ね。そんじょそこらの呪いじゃびくともしないひとみがあそこまで骨抜きになったのも納得よ。あと一歩だったわね。すごいわ。誇っていいわよ」

 上機嫌で自分の周りを回り続ける凪を目で追いながら、横山はなんとか声を絞り出す。

「ひ、ひどみは?」

 凪は歩みを止めずに答えた。

「そうよね。気になるわよね。私がどうやって洗脳状態のひとみを正気に戻したか」

 ちがう。ひとみがどこにいるか知りたいんだ!

 横山の心の叫びは通じず、凪は嬉しそうに解説を続けた。

「はじめはセオリー通り、解毒剤を調合しようと思った。でも、媚薬の種類が分からない。スパイスの香りから、植物性とまでは絞れたけど、ユーカリなのかシクラメンなんかカノコソウなのか。それに流石にないだろうけど、『愛の蝋人形』なんかだった場合はどうしようもない。そこで私、思いついたのよ」

 そこまで言って、凪は横山の顔の前でしゃがみこんだ。得意げな表情で横山の顔を覗き込む。

「愛に対抗するには愛しかないって」

 ……意味が分からない。

「いい? 人は本来、心から恋をできる相手は一人しかいないの。心の愛のリソースには限界があるもの。だから全く同時に、二人を相手に心から恋をするのは、理論的に不可能」

 そういうと、凪はどこからともなく小さな藁人形を取り出した。横山の顔の前で、藁人形の腕を片方ずつ両手の指でつまんで引っ張る。

「そこで、私もひとみに愛の呪いをかけることにしたの。私を好きで好きでたまらなくする最高級の呪い。すると、ひとみの心はどうなると思う? 本来一人しか愛せない構造なのに、ひとみの心はあなたの術と私の術で同時に別方向に引っ張られることになるでしょ」

 凪が両の指先に力を込める。藁人形が両側に引っ張られてミリミリと音をたてる。

「そうなれば、ひとみの心は『このままではちぎれてしまう!』と、自己防衛本能で恋愛心を全てリセットする。そりゃあそうよね。どんな恋も愛も、自己愛には敵わないもの」

 そういいながら、凪はふっと両手を離し、藁人形をぽとりと床に落とした。

 この女もひとみに幻惑をかけたというのか。

だが、いつのタイミングにどうやって……

 そこで横山は思い出した。ひとみが床に取り落とした水のペットボトル。

「そう! ひとみに渡したあの水。あれはもちろんただの水じゃないわ。私が研究に研究を重ねて作った最高レベルの愛の妙薬。すごいでしょう。あの透明度。あれを作り上げるためにマンドゴラをいくつ無駄にしたか」

 凪はすっと立ち上がった。

「かわいいわよね。ひとみは。注射針の穴を売店のシールで隠しただけなのに、すんなり新品だって信じるんだもん」

 横山は立ち上がった凪をぽかんと見つめた。

俺より、こいつのほうがやばいんじゃないか。

 ひとみが身を守らなければいけないのは、俺からではなく、この女からなんじゃないのか?

 横山の表情を見て何を思ったのか、凪はポンと手を叩いた。

「そうか。ひとみがどこにいるのか知りたいのね。ひとみならママが下宿先に送っていったわ。ほら」

 そう言って、凪は机を指さした。横山が体を伸ばして、机上を見ると、暗闇の中、ノートパソコンが開いて、画面が不気味に光っていた。黒字の地図マップの中心に、赤いマークが点滅している。

 これは…… GPS?

「ひとみのエナメルバックの底に仕込んでるの。だからあなたの家もすぐわかったわ」

 横山は驚愕した。こいつ、幼馴染にGPSを仕込んでいるのか。

「もちろん、盗聴器も仕込んでるわ。録音の回収式だから、ここ数週間の分はさっきチェックしたの。だから、対応が遅れた。反省ね。もっとこまめに確認しないと。やっぱり受信型のほうがいいのかしら」

 こと投げもなく言い放つ凪に横山はだんだん恐怖を覚え始めた。こいつ、狂ってるんじゃないのか。

「そうそう。録音の中であなた、いいこと言ってたじゃない。ひとみは『特別だ』って。そのとおりよ。まったくの同感」

 そうだ。そうだった。

 横山はひとみと対峙した時の恐怖を思い出した。

 なんなんだ。あのバカ力とスピードは。

 横山は高校時代に空手で全国大会に出たレベルの実力者だ。屈強なアスリートと何度も対戦した経験がある。しかし、ひとみはそんな次元ではなかった。

 横山の心の疑問に答えるかのように凪は言った。

「ひとみの体は特別性なの。あの子には生まれた時から呪いがかけられている。それこそDNAレベルの。あんたの魔術がお遊びに見えるレベルの呪いよ」

「……の、呪い?」

「そう。ひとみは生まれつき、人間離れした身体能力とありえないほどの強靭な肉体が与えられているの。病気にもかからない。魔術も効きにくい。仮に怪我をしてもすぐに回復する。そういう特注品の肉体。でも、その代償として、一定以上に自分に関わったすべての人間に、無意識下で嫌われ、避けられる呪いを患ってる」

 凪は回転いすに再びゆっくりと腰を沈めた。

「まあ、ひとみ自身はそのことを知らないから、自分はちょっと頑丈で、単に人づきあいが下手なだけだと思ってる節があるけど」

凪は眼を落して優しい表情で微笑んだ。

「あの子、天然なのよ」

 理解できずに頭が混乱している横山を、凪は、今度は笑みを消し、冷たく見下ろした。

「でも、時々いるのよね。あのひとみのオーラに惹かれて群がるあんたみたいな虫けらたちが」

 凪は横山をにらみつける。

「あなたみたいな初めから邪な感情をもって近づいてくる者に対しては、ひとみの患った呪いは発動しない。つまり、呪いは、ひとみに善意をもってくれるようなあらゆる人間を遠ざけ、悪意のある存在だけを引き付ける。」

 凪は背もたれに頭を乗せ、目をつむり、ため息をつく。

「誰よりも強靭な肉体というスペシャルギフト。その恩恵と同時に、ありとあらゆる悪意をその一身に集め続けるという試練でバランスをとっている。そういう呪い」

 凪は上をむいたまま、乾いた笑い声をあげた。

「まあ、その分、私としてはわかりやすいわ。ひとみに自分から近づいてくるようなやつは、基本的に悪意を持っているか、ゆがんだ欲望をもっている。私はそいつらを片っ端からつぶしていくだけ」

 横山はゼミ室で聞いたひとみの話を思い出した。


『こんな私に目をかけてくれる先輩がいて』

「その先輩がある日、事故か何かで大けがしちゃって」


 横山は眼を見開いた。

「ま、まさか、陸上部の……」

 横山のつぶやきに、凪は懐かしそうに手を叩いた。

「ああ。いたいた。中学の先輩でしょ。ひとみの才能に嫉妬して、親切にするふりして嘘を教えたり、孤立するように仕向けたりしてたわね。それぐらいならまだ許してやったのに、不良のOBと画策してひとみの足を折ろうと計画してたから、先に不良もろとも当分歩けないようにしてやったわ」

 こともなげに言った凪に、横山はぞっとした。

 そんなことを、この女は何年も何年も水面下で行ってきたというのか。

「足を折ろうとするものは、同じく足を折られる覚悟をしておかないと。バランスって大事でしょ」

 そこまで言って、凪は「よっ」と勢いをつけて椅子から立ち上がった。

「じゃあ、あなたのバランスをとる前に、どちらがひとみを愛しているのか、勝負しましょうか」

「……はあ?」

 困惑する横山に凪は不敵に笑った。

「あなたの部屋の壁、素敵だったわね。凪の写真が何枚も。あれだけ集めるの大変だったでしょ。でも残念」

 ひとみはおもむろに部屋の端に歩いていき、パチリとスイッチを押した。部屋の電灯がつき、白いまぶしさに横山は眼を細めた。

 部屋の全貌が明らかになる。部屋の四方の壁には大きな棚が並べてあった。謎の植物の瓶、大きな古書、不気味な人形、動物の骨、奇妙な仮面。棚はそんなもので埋め尽くされていた。だが、横山が驚愕したのは呪具の数々ではなかった。そんなものではなかった。

 天井だった。

「私の勝ちよ」

 八畳はあろうかという部屋の天井は、一人の少女の写真で、隙間なく埋め尽くされていた。

 大学生のひとみ。高校生のひとみ。中学生のひとみ。小学生のひとみ。幼児の頃の写真まで。


 凪の自室の天井は、本町ひとみで埋め尽くされていた。


「どう! すごいでしょ! がんばってここまで集めたんだから!」

 言葉を失う横山をしり目に、凪は顔を上気させて写真を指さした。

「私の一押しはこれよ。八歳のひとみ。恥ずかしそうにピースをしているのがたまらないでしょう! 中学のジャージ姿のひとみもいいわね。冬なのに暑そうに腕まくりをしてるのがポイントよ。それからあの私服の……」

 凪は秘密のコレクションを人に見せつけれるのがうれしくてたまらないのだろう。写真をひとつひとつ指さしながらぴょんぴょん飛び上がっている。

 それを見ながら、横山は背中をサアーと冷たい汗が伝うのを感じた。

 横山も似たようなことをしていた。ひとみの盗撮写真を壁に貼りながら、「我ながら、俺の愛は狂人的だな」と自虐的にほくそ笑んでいた。しかし、自分がひとみに執着したのは、せいぜい数か月のことだった。だが、この女は子供のころから、それこそ十年以上にわたって本町ひとみに執着してきたのだ。


「愛」の、格が違う。

 

 あらかたのコレクション自慢が終わったのだろう。凪は飛び跳ねるのを止め、ふうっと息を吐いた。

「でもね。私はひとみに、精神操作だけはしなかった。愛の妙薬もたくさん調べて実際に何種類も作ったけれど、それでも、なんとか自分を押しとどめて、その一線だけは超えないようにしてきたの。それが幼馴染としての、私の考えるバランスだったの」

 眼鏡の奥の瞳がぎろりと横山をにらみつけた。

「その一線を、私が必死の思いで守ってきたボーダーラインを、あんたは軽々と踏み越えてきた。あの程度の『愛』で。許されることじゃないわ」

 そのこの世ならざる眼力に、横山は「ひっ」と声を上げた。

 殺される。

「バランスの話をしましょう。ひとみの『愛』をもてあそんだ、あなたはどうバランスをとるべきなのか」

 凪の目が異様な雰囲気に輝き始めた。微笑みながらゆっくりと横山に近づいてくる。

「……来るな」

 横山は縛られた体のまま、芋虫のように必死に後ずさった。

 凪の両手にはいつの間にか横山には理解のできない道具が握られていた。小瓶や人形も指に挟んでいる。

「来るなあああ!」

 凪はにんまりと不気味に笑った。


「やっぱり、『愛』には『愛』、かしら」

 


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