第一話 呪物 一
第一話 呪物
一
「ひとみ、あんた、呪われてるよ」
幼なじみの三田凪は、読んでいる本をぺらりとめくるとそう言った。まるで、服を裏返しに着ていることを友人に指摘するような、そんな日常的なトーンだった。だから、私、本町ひとみもスマホを見ながらかるーく答えた。
「あ、そうなんだあ。それは困るなー」
数秒の沈黙が流れた。私たちが並んで座って乗っているバスが、小さく揺れてバス停に止まる。扉が開いて、私たちと同じ大学に向かうであろう学生が大勢乗ってきた。急に混み合ったバスが発車する。
「うん? ちょっと待って。凪ちゃん。今なんて言った?」
スマホから目を離して、凪ちゃんを見る。彼女も本から目を上げて、黒縁の丸眼鏡を通して私を見る。
「いや、だから、呪われてるよって。それよか、ひとみ、髪切った?」
「あ、うん。高校入ってすぐかな。運動部入った時に思い切ってショートにしたの」
「ふうん」
黒髪ロングの凪ちゃんはまた本に目を落とす。分厚い本のタイトルは「西洋悪魔大全」。
「いやいやそうじゃなくて。呪いってどういうこと?」
凪ちゃんはため息をついて本を閉じた。
「呪いは、 人または霊が、物理的手段によらずに精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や 社会全般に対して災厄や不幸をもたらそうとする行為のことよ」
いや、そんなチャットGTPみたいな返答されても。
「だから、なんで私が・・・・・・」
私が言いかけたところでバスが再び止まった。大学に着いたのだ。
他の学生とともに、凪ちゃんもさっさと降りていく。
「ちょっ! 凪ちゃん?」
「なんかやばくなったら電話して」
凪ちゃんはそう言うと手を後ろ手にひらひらさせながら他の学生に紛れて行ってしまった。相変わらず背、低いなあ。
でもさ凪ちゃん、3年ぶりに会った幼なじみへの第一声が、「呪われてる」は、ないんじゃない?
大学の校舎に始業のチャイムが鳴り響く。私はそれを聞きながら全力で階段を駆け上った。あと数秒でチャイムが鳴り終わってしまう。2階に着いた。目的の教室はフロアの一番奥。見ると、講座の手伝いに来ている院生が今まさに扉を閉めようと手をかけたところだった。なんて気が早い奴だ。
ランニングシューズの靴底を発火させるぐらいの覚悟で全力ダッシュする。着ているパーカーのフードがパタパタと音を立てる。あと、5秒、4秒、3秒・・・・・・おいまだ2秒あるぞなんで扉を閉める!
ゆっくりと目前で閉まっていく扉に、私は背負っていたエナメルバッグを放り投げた。ぐにゅりと音を立てて扉の間に鞄が挟まる。
驚いた院生が扉を再度開いた。ぽろりとエナメルバッグが落下する。そのバッグを抱きしめるようにキャッチして私はスライディングで教室に滑り込んだ。よおっしゃあ。まにあったああ!
しかし、私は自身の勢いを止めることが出来なかった。教室の磨き上げられた床のなめらかさと相まって、今まさに始まりの挨拶をしようとしている教授の足下まで滑って行ってしまった。教壇に私のランニングシューズの足裏がぶつかる形で動きが止まる。見上げると、教授と目が合う。
「あ、ええと・・・・・・ おはようございます田尾寺先生・・・・・・」
田尾寺先生は立派な白いあごひげを指で撫でながら、ふくよかなお顔の目をさらに細めた。
「うん。遅刻ね」
私は周りの嘲笑に包まれながら、立ち上がった。肩を落として席を探す。しかし、田尾寺先生の授業は人気なので、ほぼ満席だ。
「ひとみ! こっち!」
教室の手前で手が上がる。ウェーブのかかった茶髪。沙也香だ。おお友よ。
早足で向かうと、この大学で唯一の友人の花山沙也香がとなりの席をキープしてくれていた。沙也香がお洒落なブランドバッグをどけてくれた席に座り、一息をつく。
「遅刻、何回目?」
「多分、これで6回目ぐらい。遅刻3回で1回欠席扱いだから、2回欠席かな?」
「とぶよ。単位」
沙也香は肘をついてあきれ顔でこちらを見る。
「まだ一回生の前期よ。先が思いやられる」
沙也香はこの大学に入学してからの唯一の友達だ。
もともと人付き合いが苦手な私は、高校時代は見事にぼっちだった。その悲しき高校時代を払拭しようと、私は大学デビューをもくろんだ。もともとベリーショートだった髪型をボブぐらいまで伸ばし、勇気を出して茶色に染めた。個人的にはなかなかイケてると思ったのだが、大学の人間関係はそう簡単ではなかった。というか、そう言う問題ではなかった。
色々割愛するが、結局の所、入学から一ヶ月たった頃には完全に学科でぼっちだった。
そんな時、見かねた沙也香が声をかけてくれ、今に至る。
「バス通学にしたんだっけ」
「うん。自転車壊れちゃって」
「だったら、もう一本早いバスにすれば良いのに」
「毎朝そう思うんだけどね。なんか最近起きられなくて」
「夜更かし?」
「いやー。早く寝てるつもりなんだけどなあ」
「何時?」
「9時半」
「早っ。小学生じゃん」
遅刻常習犯な私と違い、沙也香は優等生だ。いつも早めに教室に来て、手前の壁際の席をキープしてくれている。出来ればもっと後ろの方の席の方が不真面目な私には嬉しいのだが、それを口に出すほど身の程知らずではない。
その時、ガチャリと入り口の扉が開いて、一人の学生が入ってきた。小柄で黒髪ロングヘア。ハリーポッターのような丸眼鏡。上は黒のセーターに下は黒のロングスカート。三田凪ちゃんだ。
「出た。魔女のミタさん」
沙也香が小声でささやく。
まあ、仕方ない。そんな呼び名がつくのも。毎日黒ずくめで悪魔やら魔術やらの本を常に持ち歩き、誰とも口を利かなければそりゃあ浮くよ。中二病と言われないだけまだましだ。
「ひとみ、幼なじみなんでしょ」
「中学までね。高校が離れてからは会ってなかった」
今朝、バスで偶然居合わせて、一方的に「呪われてる」って言われたけど。
それを沙也香に言おうか迷っていると、凪ちゃんが田尾寺先生の前に立った。
「・・・・・・どうしたの。三田さん。席に着きなさい」
「先生。もしかして私、遅刻扱いになっていますか」
え、何が始まったの。田尾寺先生も目を丸くする。
「うん。遅刻だねえ。授業が始まってから教室に入ってきたからねえ」
「確かにそうです。でも、仕方なかったんです」
「え、なに? またお母さんが入院した? 前回はそれを理由にしてたよね」
「いえ、無事退院しました。田尾寺先生のご寛大なご配慮をいただき、出席扱いにしていただいたことを母も大変喜んでおりました。その節はありがとうございました」
「うん。で、今回は?」
そこで、凪ちゃんは大仰に額に手を当ててため息をついた。
「実は犬が・・・・・・」
「犬?」
おいおい。まさか飼い犬が死んでしまったんですみたいな話で乗り切ろうとするつもりか? 田尾寺先生は犬好きで有名だが、流石に苦しいだろ。
「犬が、首だけ出して埋められていまして。大学の敷地内に。きっと心ない学生のいたずらでしょう」
「え、うそ。かわいそう」
いや、絶対うそだろ。行きしなにそんなの見なかったぞ。
「そうなんです。かわいそうなんです。他の学生は見て見ぬ振りをして通り過ぎていくのです。私も田尾寺先生の貴重な授業に間に合わないかもしれないが故に迷いました。でも、私は犬の助けを求める瞳を見ていると・・・・・・」
「助けてあげたの?」
「はい。救出しました」
田尾寺先生の顔がぱっと華やいだ。
「わんちゃん、怪我はなかった?」
「はい。元気に尻尾を振って、何度も私に頭を下げながら去って行きました」
「良いことをしたね」
「はい」
「じゃあ、出席にしとくね」
「ありがとうございます」
田尾寺先生! 嘘ですよ! 絶対嘘ですよ!
凪ちゃんは踵を返し、田尾寺先生の死角で小さくガッツポーズをしながら教室の後方に向かい、空いてる席にすっと座った。田尾寺先生は「朝からいい話をきいた」とでもいう風にニコニコ顔だったが、学生は全員ドン引きだった。
「・・・・・・ひとみの幼なじみ、やっぱヤバいやつだね」
私は頷きながら、やはり今朝のことは沙也香には黙っておこうと決めた。
「ひとみ、相変わらずよく食べるね」
「え、そう?」
学食でエビフライにかぶりつきながら目を上げると、沙也香のあきれ顔があった。沙也香はお手製のかわいらしい小さなお弁当箱を持っている。対して私の前にあるのは、この学食の定番メニュー。日替わりフライ定食(ライス大盛り無料)である。無論、大盛りにしてもらった。
「それ、ラグビー部とかが頼むやつだよ」
「なんか最近、やけにお腹すいちゃってさ」
「成長期かよ」
「かもしんない」
そう言いつつも、すでに私は170センチに届こうかという身丈である。正直これ以上の身長はいらないなあと思っていると、「さやかー!」と学食の奥から沙也香を呼ぶ声がした。見ると、明らかにちゃらちゃらきらきらした集団が沙也香に手を振っている。
「ごめん。ちょっと行ってくる」
「はいはい」
沙也香が笑顔を作って、集団に歩みよっていく。沙也香は私と違って。学内の人気者だ。いろんなサークルに顔を出しているし、先輩方にも顔が売れている。そりゃあ、あんなに美人でお洒落で社交性がある子、周りがほっとかないでしょうよ。沙也香がなんで私なんかに構ってくれるのかが不思議だった。
「お、それ全部一人で食べるの?」
食事を再開しようとした矢先に話しかけられた。見ると、細身の男性がにっこりと立っていた。
「お腹すいたんだね。朝からすごい走りだったし」
そう言われて思い出す。この人、いつも田尾寺先生の助手をしてる院生の人だ。名前は確か・・・・・・
「横山だよ。ここ、座っていい?」
「あ、どうぞ・・・・・・」
横山が隣に座り、またにっこりと微笑んだ。
「今朝はごめんね。扉、目前で閉めようとしちゃって。まさか走り込んでくるとは思わなかったから」
「いえ。こちらこそ危ない真似してごめんなさい」
横山が拳で口を押さえるように笑った。黒髪に隠れていたピアスがキラリと光る。
「そうだね。ちょっと今日のは危なかったね。もっと早く来れば良いのに」
「すみません」といいながら、チラリと沙也香の方に目をやる。まだ楽しそうに談笑している。気まずいよ。沙也香、早くもどってきてくれー。
視線に気づいたのか、横山も沙也香の方に目をやる。
「沙也香ちゃんなんて、毎朝30分前には講義室にいるよ。しかも、その時間に前回の授業の質問とかも熱心にするんだ。俺も感心しちゃうよ」
流石は沙也香だ。学生の鏡だな。
「ひとみちゃんもその時間に来て、一緒に予習とかしようよ」
冗談ではない。勉強なんて大学受験でもうこりごりだ。当分は必要最低限しか絶対しないと決めている。
「あ、ええと、最近、朝に弱くて・・・・・・」
「そうなんだ。よく授業中も居眠りしてるもんね。まあ、それは体質もあるし」
横山はぎしりと背もたれにもたれたが、唐突に「そうだ!」とスマホを取り出した。
「寝坊したら俺に連絡しなよ。扉を閉めるタイミングぐらいだったら、ちょっとぐらい融通利かせてあげれるからさ」
「え、いいんですか。そんなの」
「もちろん。だからライン交換しよう」
私がいそいそとスマホを取り出そうとしたとき、
「横山先輩!」
と眉をひそめた沙也香が帰ってきた。
「私の友達にちょっかい出さないでください」
「ちぇ、もうすこしでひとみちゃんの連絡先ゲットできたのに」
横山はへらへらと笑いながら立ち上がると、私に「またねひとみちゃん」と手をふりながら去っていた。それを見届けた沙也香がため息をついて席に座る。
「ひとみ、気を付けなさいよ。横山先輩、遊び人で有名なんだから」
それを聞いて私はあわててスマホをポケットに戻した。言われてみれば、ナチュラルに下の名前で呼ばれていたのに、人なつっこい笑顔のせいで、全く警戒できなかった。
大学、こわ。
「ああいう一見無害な人ほど、裏側は真っ黒だったりするんだから。気を付けなきゃダメよ」
「はあい」と返事をしながら冷めかけているフライにかぶりつく。つくづく、私は人付き合いが苦手だなあと改めて思ったところで、
急に呼吸ができなくなった。
「・・・・・・!!」
喉に何かつまった! 焦った私は拳で胸をどんどんと殴りつける。だが、一向に空気が肺に入ってこない。頭に血が上るのがわかった。
「ひとみ? どうしの? ひとみ!」
私は立ち上がろうとして床の自分のバッグに足を取られて転倒した。周りの机や椅子を巻き込みながら派手に食堂の床に倒れ込む。それでも気道は開かない。苦しい。思わず喉をかきむしる。
「ひとみ!」
沙也香が私の顔をのぞき込んで叫んでいる。
遠巻きに眺めている人だかり。スマホを構えている馬鹿までいた。
目の前がぼやけて、黒く染まっていく。
やばい。死ぬ。
薄れゆく視界の中で、人だかりの中から凪ちゃんが飛び出して来たのが見えた。手に棒状の何かを持っている。そう。あれは、吸引力の変わらないただ一つの・・・・・・・
掃除機!?
口が無理矢理こじ開けられ、太いパイプが口に突っ込まれるのを感じた次の瞬間、地獄のような轟音が私の鼓膜を突き抜けた。
ヴィイイイイイイイイン!!
私は絶叫した。