*** 231 辺境貴族家当主たちの苦悩 ***
軍監閣下は入り口の前で護衛と共に腰を抜かして馬の背にしがみついていた。
その股間の下の鞍は少々濡れているようだ。
「お前ぇは軍監だな」
閣下がコクコクと頷いている。
「帰ぇって男爵に伝えろ。
お前たち弱小貴族の弱兵は全て捕虜として捕らえた。
もちろんその武器もすべて俺の戦利品だ。
兵を返して欲しければ、3日以内に1人当たり金貨1枚(≒100万円相当)、計120枚を持って男爵が直接詫びを入れに来い。
さもなければ男爵家は全ての兵を失うだろう。
いいか、しっかり伝えろよ」
軍監閣下とその護衛たちの馬も消失したために、軍監たちは転がるように走って帰って行った。
そのとき軍監閣下の護衛の1人は考えていた。
(これは国軍情報部本部への直接報告案件だな……
やれやれ、せっかく出自を偽装し、8年も努力してようやく軍監の護衛になれるまで出世したのに、また1からやり直しか……)
「マリアーヌ、こいつらの武器と金属鎧を転移させておいてくれ。
もちろん弓矢もな」
『はい。
ところであの軍監の護衛の1人は国軍情報部員ですが、どのように処置致しましょうか』
「まだ何もしなくていい。
ただし、マーカーをつけてその動きは辿ってくれ」
『畏まりました』
こうした貴族軍たちはたまたま戦士村連合国の入り口付近で鉢合わせすることもあった。
だが彼らはまったく連携行動を取らなかったのである。
そもそも彼らは他の領も出兵していることを知らなかったし、連携行動の訓練もしたことは無い上に、領主が違えばそれは競合する軍だったからであった。
その日タケルは頑張った。
子爵家6、男爵家12の18貴族軍の兵2600をことごとく戦闘不能にし、大量の武器を鹵獲したのである。
馬まで36頭手に入れていた。
「いやー、今日はよく働いたなぁ♪
満足満足♪」
『……お疲れ様でした……』
18の貴族家にそれぞれの軍監たちが帰り着き、当主閣下に報告を行った。
「懲罰遠征の成果はどうだったか。
賤民村では碌な戦利品も無いだろうが、どの程度の財を手に入れたのだ」
「そ、それが……」
「な、なんだと! わ、我が領軍が全滅しただとぉっ!
そ、それは真かぁぁぁ―――っ!」
「はい……
残念ながら……」
ご当主閣下方のやや寂しい脳髄に去来した思いは、まず領兵全員が武器を売り飛ばして逃亡したというものだった。(←如何に麾下の兵を信用していないかという事を如実に示している)
だがよくよく考えればその場合にはこの軍監がわざわざ帰還することはないだろう。
同様に武具装備を売り払って逃亡しているはずである。
ご当主さま方は、念のため従士に領兵宿舎の調査を命じられた。
だが領兵の家族たちは普段通りの生活を続けていて誰も逃亡していなかったのだ。
「そ、それで賤民軍は何人いたのだ……
1000人か、それとも2000人か……」
「いえ、1人でした……」
「な、なんだと!」
再びご当主閣下方の脳に蘇ったのは『賤民は毎日魔物と戦っているので強い』という噂だった。
「ま、まさかそれほどまでの強者がいるとは……」
「はい、矢は刺さらず、槍も刺さらず、目にも止まらぬ速さで駆け回り、我が軍の兵の腕の骨と胸の骨を次々に砕いていきました……」
「だ、だがそ奴にも多少の傷は負わせたのだろう!」
「いえ、まったくの無傷でございます」
「ま、待て!
それほどまでの強者がいながら、なぜお前は無事帰って来られたのだっ!」
「奴はわたしが軍監だということを見抜いていました。
それで閣下への伝言を伝えられたのです」
「ど、どどど、どのような伝言なのだ!」
「まずは兵すべてを捕虜とする一方で、兵たちの武器は彼らの鹵獲品となることです」
「な! あれだけの武器を揃えるのにいったいいくらかかったと思っているのだぁっ!」
(『戦を仕掛けて大敗したのだから当然では?』と軍監は思ったのだが、何も言わなかった)
「また、捕虜の返還に関しては、兵1人につき金貨1枚、合計120枚を持って3日以内にご当主様さまご本人が謝罪に行くことが条件でございました」
「ひいぃぃぃ―――っ!」
「もし3日以内に謝罪と賠償が無い場合には、兵をことごとく殺害するとのことです」
(因みにタケルは『殺害する』とは言っていない。
単に『いなくなる』と言っただけである)
「し、知らんぞっ! わしは知らんっ!
だいたいそのような大敗北を喫したのは領兵たちの責任であろうっ!
わ、わしは知らんっ!」
「そうですか……」
兵1名に付き金貨1枚(100万円相当)といえば、男爵家で金貨120枚、子爵家で200枚になる。
これは田舎の貧乏貴族家にとってはその蓄えの全てに匹敵していた。
男爵家当主にしても、子爵家当主にしても、到底負担を考えられる金額ではなかったのだ。
だが、それよりもなによりも、敵は貴族家当主自ら金貨を持って来いというのである。
戦場に出たことなど無いチキン当主たちにとって、これほど恐ろしいことは無かったのであった。
貴族家当主たちにとっての苦悩は続く。
「そ、そうだ、他の貴族家は軍を派遣したのか!」
「わかりませぬ」
「!!!!!」
もちろん軍監にそんなことがわかるわけはない。
「ただ、我らが帰還する際に、2家ほどの領軍とすれ違いました」
「そ、その2家の戦の首尾はどうだったのだ」
「それも分かりませぬ」
「な、何故お前は見届けなかったのだ!」
「自軍が戦を始める際に、友軍でもない者がその内容を観察しようとした場合、普通は間諜として殺害されるからです。
そうなれば勝敗の結果を知ることも出来ず、こうして帰還してご報告することも出来なくなりますので」
「ぬぐぐぐぐぐ……
じ、従士長!
他領を廻って奴らの戦の首尾を調査して参れっ!」
「よろしいのですか?」
「な、なに……」
「今この邸を守っているのは我ら従士6人だけです。
それが他領に調査に赴けば、ご当主さまやご家族さまをお守りすることが出来ませぬ」
「!!!!」
「それにそのようなことを尋ねても教えてもらえるとは思えませんし、さらにそのようなことを尋ねれば我が領軍が敗北したことを宣言しているのも同じなのですよ」
「!!!!!!」
そう、この貴族家当主の懸念は、賤民共に敗北したのが自分の領兵だけであり、他領の軍は賤民共に勝利して多数の戦利品を持ち帰っているのではないかということだったのである。
万が一にも負けたのが自領だけであり、出兵した他領が大勝していたとしたら。
自分は笑い者になるだけでなく、激怒した寄親の伯爵閣下や侯爵閣下により改易されてしまうかもしれないのである。
そうなれば自動的に平民落ちとなってしまうのだ。
この領の領主には侯爵家や伯爵家の3男以下の子息が喜んで就くことだろう。
そのために、侯爵閣下も伯爵閣下も我らの落ち度を虎視眈々と狙っているのだから。
従士長が進言した。
「それでご当主さま、如何いたしましょうか」
「い、如何とはどういうことだ!」
「仮に隣国が我が国に軍を進行させ、その上で我が軍に敗北して兵の全てを失ったとします。
その後我が軍は如何に行動するかということですな」
「ど、どどど、どのように行動するというのだ!」
「その隣国にはもはや軍はいません。
ですので逆侵攻して隣国の略奪を始めることと思いまする」
「当然だ!」
「その際に我が国への侵攻を命じた隣国の王族貴族は、家族共々ことごとく殺害してその地を我が国の領土とすることでしょう。
なにしろこのヴェノム王国は同様にして領土を広げ、この平原の支配者になったのですから」
「お、お前は先程から何を当たり前のことばかり申しておるのだ!」
「お分かりになりませんか?
独立を宣言した戦士村連合国は、今にもこの領に侵攻してくるやもしれぬのですぞ」
「!!!!!」
「その際に、彼らの最優先攻撃目標はご当主さまのお命でありましょう」
「あひぃぃぃ―――っ!」
「ですが今現在この邸には我ら従士6名しかおりませぬ。
これでは数千数万の賤民兵が押し寄せて来たとなれば、到底ご当主さまとそのご家族をお守りすることは出来ませぬ」
「ぎゃひぃぃぃ―――っ!」
「そこでご当主さまの御判断をお伺いしたく思いました。
領とともにこの地で滅びるのか、それとも寄り親の伯爵閣下や侯爵閣下に庇護を求めるのか……」
「そ、そんなもの、まずは伯爵閣下に情勢の報告に行くことに決まっておるだろう!
た、直ちに出立するぞ!
その方ら従士は全員わしの護衛とするっ!」
「は……」
こうしてご当主さまは、僅かな手勢を引き連れ、とりあえず持てるだけの金貨銀貨を手に家族も放置して伯爵領に逃げ出して行かれたのであった。
このことは、その場に控えていた侍従や侍女などを通じて、すぐに邸内外に広まって行った。
もちろん第1夫人を初めとする御夫人方と子息たちもすぐに僅かな貯えを手に逃げ出した。
その逃亡先はほとんどが伯爵領にある夫人の実家などである。
この国では、競合関係にある子爵家や男爵家同士での婚姻政策はほとんど取られておらず、子爵男爵家の当主は、第1夫人として伯爵家の女子や近しい縁者、第2夫人以下も伯爵家の遠縁の者を娶っていたからである。
当主たちは伯爵領で妻子たちとかち合い、さぞや気まずい思いをすることになるだろう。
この当主一族の行動を見た侍従侍女たちも考えた。
この貴族邸は今や当主さまやそのご家族が逃げ出すほどの危機を迎えているのだ。
このままここに留まれば、数千数万の賤民軍が押し寄せて自分たちは殺されてしまうだろう。
貴族家の使用人たちは逃げ出した。
それも逃亡先での生活のために貴族家の家財道具まで持ち出して。
中には寝台まで持ち出した者もいたそうだ。
さらにこの動きを見ていた領兵の家族たちも逃げ出した。
おかげで領主邸は無人となり、家具も何もかも無くなったそうである。
領兵と領主の性根が腐っていたということは、侍従侍女や領兵の家族の性根もまた腐っていたのであった……




