*** 125 4大国の階級構成 ***
西の大陸も状況はほぼ同様だが、こちらには原始農業の萌芽が見られる。
この東大陸と西大陸は現状特に問題は無く、氷河期や海面上昇などの自然災害が無ければあと数十万年ほどで青銅器時代もしくは中世初期に至ると推測されるため、このまま観測を続けながら放置をすることが望ましいと考えられる。
(そうか、この東と西の大陸って、今は旧石器時代から新石器時代への過渡期ぐらいにいるんだな。
地球だって旧石器時代は50万年ぐらい続いてたっていうから、これは放置でいいんだろう。
となると問題は中央大陸か……)
一方で中央大陸は現状大きな問題を抱えている。
この大陸は平坦地が多い上に河川も多く、2000年ほど前から農業が行われており、そのために大陸全土で2500万人の人口を擁している。
だが、農業は食料増産を通じて人口を増やしはしたが、同時に土地の所有意識と土地や水源を巡る闘争、王や軍の発生、身分制と奴隷制の形成など、ヒト族文明にありがちな諸悪の根源も生み出していた。
当初はこうして発生した小国群が群雄割拠している状態だったが、その中でも比較的大きなクニが、偶然の機会に銅の生産方法を手に入れた。
推測するに、大規模な山火事が発生し、ほとんどの樹が燃えた後も酸素不足によって炭化した樹がさらに燻り続けた。
それがようやく鎮火した後に、一部地上に露出していた銅鉱石から溶け出した銅が固まっているのが発見されたらしい。
その後しばらくはその土地の岩石を火にくべて固い金属を取り出す試みが続けられたが、多くの試行錯誤の末に炭の生産方法が発見され、同時に鞴も発明されたために、銅の精錬が始まったとみられる。
この青銅を使った斧により樹木の伐採が容易になって、青銅生産は軌道に乗った。
もちろん斧だけでなく、銅剣や青銅の穂先を持つ槍など武器にも加工されるようになったのである。
それまでの石斧や棍棒に比べて圧倒的に強力な青銅製の武器開発により、この国は瞬く間に周囲の国々を併呑して大国になっていった。
(あー、なんかまるで日本の歴史を見ているみたいだわー。
5世紀に大和地方の豪族が青銅器を造り始めて、その青銅製の武器で周囲のクニグニを侵略して行ったんだもんな。
ついでに『自分たちは神の子孫なのだから逆らう者は皆殺しだ!』とか言って暴力による支配を正当化してたし。
なんで神が戦争を仕掛けて殺しまくるんだとかいう疑問には、どんな古文書も一切触れてないしな。
国津神が天津神の神威を畏れたり戦闘の後に降伏していったとかいうけどさ。
大国主命なんか降伏した後に黄泉の国の王になったとか言われてるけど、要は殺されちゃったわけだ。
まさかそいつらも、自分たちが神一族であるっていうプロパガンダがその後1500年も続くとは思ってなかっただろうけど)
その過程で、多くのクニグニの長一族は殺され、民は全て奴隷として銅鉱山や農村に送り込まれた。
こうした侵略戦争が始まった時点ではこの国の人口は僅かに2万人でしかなかったが、それからも推定で100万人近い人々を殺戮しながらこの国は領土を広げていった。
だがこの大国はその版図を広げ過ぎた。
国の端から端まで馬を乗り継いでも1か月以上もかかるような国は、当時の文明水準では所詮存続しえなかったのである。
殺戮と支配は出来ても統治は出来ないというヒト族初期文明の典型的なパターンであった。
あるとき、中央集権化を目論んだ王太子が国王を暗殺し、東西南北に領地を持つ王弟や王子に領地の返上を命じた。
そのため連合軍を形成した4人の王弟王子たちにより、逆に攻め滅ぼされてしまったのである。
それ以降、この大国は4つの国に分裂することとなり、元の王国のあった地は4か国の緩衝地帯として残されることになった。
だが、祖国の再統一と支配を目論む王族らにより、その地域では小競合いが絶えなくなり、そのため各国は緩衝地帯周辺に辺境伯爵領を置いて他国の警戒に当たらせている。
尚、元々同じ国だけあってこの4カ国の政治体制はほとんど変わらず、各国の中央には王族、その周辺に建国に際して功のあった旧豪族家の長たちを多数の貴族に列して国内を分割統治させている。
この4カ国を特徴付けるのは、なんといってもその階級構成であろう。
例えば現在人口200万人口を擁する東王国の例を見てみると、王族は僅かに80人しかおらず、100家以上ある貴族家全体でも8000人強しかいない。
この王族とは、時の王から見て6親等以内のみを言い、王の交代に伴って7親等以上になった者たちは上級平民と呼ばれるようになってその多くが近衛軍や国軍などに所属している。
貴族家も同様で、当主から見て6親等以内の者は貴族家を名乗ることを許されて庇護も受けられるが、7親等以上の者は平民となって各地方軍の将校になるか農村に派遣されて村長となっている。
これは昔、代を重ねるごとに際限なく増えていく王家貴族家縁者たちの扶養負担が大きくなり過ぎたために作られた制度だと思われる。
また、王や貴族家当主への反乱による強制交代の抑止力にもなっていた。
もちろん当主への反乱蜂起には5親等や6親等の者たちが激しく抵抗するからである。
この元王侯貴族家出身の平民以外は全て奴隷であり、200万人ほどの人口を持つ東王国の階級構成は、0.25%の王侯貴族、3%の上級平民と平民の他は全て農業奴隷(農奴)であるという極めて歪な形となっている。
その農奴に支給される麦は1人当り僅かに2斗(=0.2石、約30キログラム)。
通常麦だけで民が暮らすためには最低でも年間1石の麦が必要とされているために、農奴たちの多くは森に入って木の実や野菜の原種などを採取して食料としている。
そのため農奴のほとんどは常に飢餓状態であって、成人男子の平均身長も140センチ以下となってしまっていた。
昔、この様子を伝え聞いた貴族家当主が、農奴は草や木の実だけでも生きていけると思い込んで麦の支給を撤廃したために、農奴たちの多くが餓死または逃散してしまい、貴族領の収穫がゼロになってしまったことがあった。
そのために王家への上納も出来ず、また逃散した農奴たちが盗賊となって周辺領地を荒らしまわったため、この貴族家は全員が処刑されて領地は王家の直轄領とされている。
そうした事情もあって、農奴への下賜麦は生きていくのにぎりぎりの1人当り年2斗との制度が出来上がったらしい。
それも多くが元貴族家の者である村長たちに搾取されている上に、周辺の森の恵みも採り尽くしつつあって農奴たちは限界まで来ていた。
また、貴族家当主から見て6親等や5親等の者たちが貴族家に残るためには、顕著な武功を挙げて新たな貴族家に叙爵されるか、王国から離れた地にあるムラやクニを侵略し、その地で新たにクニを起こして元の貴族家や王家に臣従するしか道は無い。
こうして、単に貴族を名乗りたいがためだけの者たちによる侵略が横行することになった。
その矛先は当初塩を得るために海に向かって進んで行ったと見られる。
すなわち東王国はさらに東へ、南王国はさらに南へと戦禍を広げていき、現在では4大国とも海に至るまでの地域を征服して属国としており、その属国群の人口合計はそれぞれ本国の半数に当たる100万人に達していた。
その領土欲、貴族欲はさらにその周辺地域へと移っている。
(なんかこれもちょっと前までの日本に似てるなぁ。
昭和初期には農家の2男3男を集めて『満蒙開拓団』とか組織して中国北東部なんかに侵攻していってたし。
まあ開拓団の連中は自分たちが実質的な侵略者だとは現地に行ってから気づいたんだろうけど。
いや、気づいてなかった者も多かったかな。
すべては神であらせられる天皇陛下の宸襟を安んじるために、五族共和(=五族支配)の王道楽土を築き上げるためだって洗脳されてたからな。
第2次大戦末期のソ連侵攻によって、満州地方の日本人たちは逃げ帰るか収容所に入れられて大変な辛酸を味わったってよく喧伝されてるけどさ。
当時のソ連の所業はともかく、満州にいた日本人なんか全員が侵略の尖兵だったんだから、敗戦と同時に悲惨な目に遭うのは当然だったろうにな。
ソ連軍だって日本と同じことしただけだったし。
全員殺さずに収容所に入れただけまだマシだったんじゃないか)
これらの地に元々住んでいた民たちは、度重なる侵略に対して一旦退却することを学習した。
大陸は広大であり、森や川の恵みには十分な余裕があったからである。
<参考:ある6親等貴族家縁者による周辺地域征服の顛末>
「隊長殿、農村2つの制圧完了致しました!」
「よし! これで俺も貴族家初代だな!
蛮族共はどうした」
「はっ、全員森の中に逃亡いたしました!」
「わははは、やはり蛮族は腰抜け揃いか。
まあご当主さまからお借りした銅剣と銅槍が20振りもあれば、石斧しか持たぬ蛮族共は逃げるしか無かったのだろうがな!」
「はっ! 仰せの通りかと」
「それで蔵にはどれほどの麦があったのだ」
「それが僅かに30石ほどしか……」
「なんだと!
2村合わせて蛮族共は400人、畑は300石ほどもの広さがあるのに蔵にはたった30石の麦しか無いと申すか!」
「どうやら蛮族共は逃亡する際に持てるだけの麦を持って逃げた模様でして……」
「麦を持って逃げたというのか!
追撃隊を出せ!
俺の麦を全て取り返すのだ!」
「ははっ!」
だが……
深い森の中で、追撃隊は土地勘のある村人たちにゲリラ戦を仕掛けられ、その数を徐々に減らしていったのである。
そして或る朝……
「な、なんだと!
蔵の麦が全て盗まれていただと!
み、見張りはどうした!」
「そ、それが、蛮族共に石斧で頭を潰されて……」
「な、なんと卑怯な奴らだ!
ええい、追撃隊を呼び戻せ!
この邸の守りを固めろ!」
「は!」
だが、その夜に夜襲を仕掛けられた貴族軍は、隊長を含めた全員が殺されてしまったのであった。
3分の1ほどに数を減らした追撃隊が戻って来た時には、村長邸の周りには隊長たちの首が晒されていたために、追撃隊の生き残りたちは這う這うの体で元の貴族領に逃げて行ったとのことである。
こうして4大国の拡張政策はその歩みを停滞させられた上に、銅剣や銅槍を鹵獲した現地住民による抵抗はますます激しくなっていた。




