*** 1 武者武尊 ***
性懲りもなくまた書いてみました……
本日と明日は1日3回の投稿です。
俺の名は武者武尊、この夏で15歳になる中学3年生だ。
世間で変人や狂人と見做される厨2の試練を4か月前に終え、今はマトモな中学生に戻れたところだな。
身長は178センチ、体重60キロ。
顔は日本人にしてはやや彫りが深いぐらいのカンジか。
よく少し怖い顔とかも言われるけど。
体格もやや大きめといった程度で特筆すべきものは特にない無害な中坊だ。
いや、三つほど特記事項があったか。
一つ目は、物心ついたころから俺は良く熱を出していたことで、酷い時には週に2回も3回も高熱が出たそうだ。
それも或る日唐突に高熱が出るだけで、他に風邪や病気の症状は無いんだよ。
母さんに家の隣の武者神社の『お守り』を持たされてからは収まったけどな。
でも不思議なことに、体育の授業とかの後に『お守り』を身に着けるのを忘れていると、すぐにまた熱が出て来るんだ。
不思議だろ。
でもそんなことを繰り返しているうちに気づいたんだけど、運動会とかで思いっきり体を動かすと、しばらく熱が出ないんだ。
だから体を鍛える系の習い事はけっこうしてたかな。
柔道とか剣道とか、中学生になってからはMMAみたいな格闘技とか。
二つ目は家がけっこうな金持ちらしいってことか。
東京都下とはいえ、3000坪の敷地に建坪1000坪の昔の寝殿造みたいな建物が建ってるし。
なんでも遥かなご先祖様が、律令時代の墾田永年私財法を契機に一族を挙げて開墾した地で、それ以来代々守護や戦国大名の圧力を跳ねのけて、武者家は豪族とか国人衆とか言われて存続して来たらしい。
領地の広さ、資金力、配下の一族の数、石高なんかからいえば、大大名クラスだったそうだ。
当主が本気で招集すれば、その動員兵力は20万人を超えてたそうだし。
幸いにもそんなことは一度も無かったらしいけど、この兵力って最盛期の秀吉か家康並みだよなぁ。
それで今の東京都のうち区部を除いた市部の8割を領有してたっていうから大したもんだ。
室町時代になると、日本最初の清酒造り、養蜂によるはちみつ製造、シイタケの栽培成功、稲の品種改良と正条植えによる収穫5倍増、千歯扱きや唐箕の開発、養蚕による絹織物生産なんかで巨万の富を得ていたそうだ。
食料備蓄にも熱心だったんで、あらゆる飢饉の影響も全く受けなかったし。
それどころか棄民流民を積極的に受け入れて領域人口もどんどん増やしたし。
でも、この武者家というか武者一族、当時の日本では相当に珍しい存在だったらしい。
まずは全く周辺他領地に侵攻せず、加えて1000年以上も跡目争いやら分家同士の争いも無かったそうだ。
一方で、他の大名家からの侵略に対しては、異様な団結力をもってことごとく跳ね返して来たんだと。
侵略軍の最高指揮官や国元の大名本人が、欲に駆られて武者領に手を出した途端に発狂するっていうラッキーも続いてたそうだし。
だから関東管領や豊臣秀吉や徳川幕府も手を出せなかったそうなんだよ。
表向き臣従する形になっていても、如何なる武役も賦役も課せられず、国持ち大名とされていた江戸期には参勤交代すら免除になってたそうだ。
それをケシカランとして武力懲罰を献策した老中とか、将軍さま御臨席の軍議の席で突然奇声を上げながら裸踊りを始めて失脚したんだと。
だからまあ家の周囲の土地もかなりの部分が武者家の土地だったそうだ。
今のJR中央線東中野-立川間約25キロって本州最長の見事な直線区間だろ。
あれって、1889年に中央線計画が出来たときに、最初は住民人口の多い甲州街道とか青梅街道に沿って中央線を開業する予定だったそうなんだ。
でも当時の地元で武者一族じゃない連中が『街道沿いの旅籠が廃れる』とか『蒸気機関車の煙が迷惑』とか反対してたんだと。
それで困った鉄道省が武者家に相談して当主が快く了承したもんで、武者家所有の土地を貫いてあの直線区間を作ることが出来たそうだ。
これからは街道沿いもさることながら、鉄道の駅周辺も栄えるっていう当主の先見の明だったんだろうな。
つまり東中野から立川の先まで、全部武者家の土地だったんだよ。
立川から先は地形の関係で曲線区間になったけど、それでも高尾ぐらいまではやっぱり武者家の土地だったそうだし。
びっくりだろ。
戦後の農地解放では武者本家の土地も大分減っちゃったけど、なにしろ周辺の小作人もほとんどみんな一族の連中だったからな。
だから、武者一族の土地合計ではあんまり減らなかったそうだ。
それで昔の地名も武者だし、市の名前ですら武者市だもんな。
市議会議員の3分の1も議長も武者姓のひとだし、大病院の院長さんも弁護士会会長さんもみんな武者さんだし。
家の周囲には大勢の武者姓の親戚も住み着いているんだけど、正月には3日間に分かれて毎日家族連れで2000人ぐらいずつ本家に挨拶に来るんだよ。
家の敷地内にはそのために講堂みたいなもんまで建ててあるし。
おかげで正月にはトンデモな額のお年玉が集まってたわ。
1人当たりの上限1万円だって決められてたみたいなんだけど、それでも合計4000万円以上のお年玉貰ってた上に贈与税まで払ってた子供って、日本中でも俺ぐらいなもんだったんじゃないか?
もちろん無駄遣いせずに確り貯金してたけどな。
父さんも一族の子供たちにお年玉あげてたけど、どうやら毎年総額5000万円を超えてたそうだ。
その新年挨拶会が終わると簡単な昼餐会が始まるんだけどさ、あまりにもみんな武者姓なんで、ほとんどファーストネームや屋号で呼び合ってたわ。
18歳未満の子供たちは別会場でご馳走やらお菓子やらを振舞われるんだけど、まあ3歳児ぐらいから17歳まで何百人もいるから世話役の大人たちも大変だったようだ。
でもさ、その子供たちの席でも何故か俺だけ主賓扱いされるんだ。
周りには高校生のお兄さんやらお姉さんやらが大勢いて世話をしてくれるし。
今にして思えば俺もよくマトモな奴に育ったもんだよな。
あれだけ大事にされてたら碌でもない奴に育ってもおかしくなかっただろうに。
で、俺が4歳ぐらいのときに2歳年上で体の大きな奴がいたんだ。
そいつ、みんなにちやほやされてる俺にムカついてたらしくって、俺にマウント取るために何度も殴りかかって来たんだよ。
その度に高校生のお兄さんお姉さんに取り押さえられてたけど。
まあ子供心に、俺にマウント取って泣かせば、今度はみんなが自分をちやほやしてくれるって考えたんだろう。
それで、あるときいきなり後ろから木の棒で殴りかかって来たんだよ。
俺は後頭部を強打されたけど、なぜかまったく痛くなくって、逆にそいつの手首が折れたんだけどな。
それでさ、そいつ家族ともどもすぐにいなくなっちゃったんだ。
ちょっと心配になって母さんに聞いてみても、『とっても遠くにお引越ししただけだから大丈夫よ』って微笑みながら言うだけだったし。
そんな環境だったから、もちろん俺の小学生時代も実に平穏だったわ。
何故か朝になると家の庭に近所のお兄さんお姉さんたちが集まってて、一緒に登校してくれてたし。
方向が違うはずなのに、中学生や高校生までいたから総勢300人超えてたけど。
これは3年生ぐらいになってから気がついたんだけど、その集団登校の周囲にも大人たちがたくさんいて、道の掃除とかしながら俺たちを見守っているんだよ。
それで『おはようございます』って元気に挨拶すると、みんなすっごく喜ぶんだ。
中には腰を90度曲げて『おはようございますっ!』って挨拶を返してくれるひともいるし。
しかも何故か通学時間の通学路は全面車両通行禁止になってたし。
小学校での生活も実に平穏だったわ。
なにしろ全学年全クラスに武者さんや武者くんがいるから、いじめとか皆無だったしな。
それで俺、10歳になると新年会の冒頭で父さんに続いて挨拶させられるようになったんだけど、その集まりのときにお兄さんお姉さんたちにお願いしてみたんだ。
『僕の通う小学校だけじゃあなくって、市内の小学校や中学校や高校でもいじめをなくしてやって頂けませんでしょうか』
『それから、ハブられっ子やボッチの子も可愛そうなので、仲良くしてあげて頂けませんでしょうか』って……
そしたらさ、大人たちがみんな号泣し始めちゃったんだ。
中には平伏してたり俺の事拝んでいるひともいたし。
『さ、さすがはあのタケルー……』って泣きながら言いかけた爺さんは、周囲のみんなに寄ってたかって口塞がれて窒息しかけてたけど。
中高校生たちも半分ぐらいは号泣してたわ。
それ以下の子供たちはみんなきょとんとしてたけど。
それでさ、武者一族の子供たちって、何故かみんな頭良くって運動神経も抜群だったんだよ。
ま、まあ俺もそうだったんだけど。
だから小学校でも中学校でも高校でも、みんなリーダー的存在だったんだ。
中学高校ではほとんどの運動部のキャプテンは武者さんか武者くんだし、生徒会もほぼ全員が武者さんだったし。
そんな連中が集まって、学校側に働きかけて、合同昼食会を始めたんだ。
全学年全クラスのハブられっ子やボッチの子を誘って。
市内の中学高校はみんな弁当制だったから、割と簡単だったそうなんだけど。
小学校は給食制だったけど、市議会やら市教育委員会からの推薦で、給食は体育館とかで全校生徒入り乱れて食べるようになっちまってたし。