縁の下
【Side:ルシエル】
もう暫くファルマとは会えない。
おそらく彼女がシャムス師匠をあの店に連れて来たのだ。私の現状を知らないだろうから、悪意があった訳では勿論ないだろう。でも、師匠は私がよからぬことに巻き込まれていることに感付いていた。
助けを求めてしまいたかった。どうするのが一番いいか教えてもらいたかった。出来ることなら。
シャムス師匠が引退した後、アマデウス・スカルラット伯爵令息の楽師を養子に迎えスカルラットに住んでいることは手紙を貰うまで知らなかった。養子の嫁が妊娠したということで雇える女治癒師を探していると。聡明で厳しくどこか寂しげな師だったのに、今日会った彼は普通(とはいってもかなり元気で上品だが)の老人みたいに見えた。引退して重圧から解放されるとああも穏やかになれるものなのだろうか。昔は師匠と雑談なんてほとんどしなかったが、今の師匠とならもっと色々話をしたかった。見張られてさえいなければ……。
「ルシエル! 来てくれ!」
コレリック家に戻った直後に血相を変えたノトスに呼ばれた。
地下室に急ぐ。空気の通りが悪い階段を駆け下りると、奥まった部屋の扉が見える。この扉の茶色いシミを見る度に暗澹たる気持ちになる。
「ココの熱がすごく高くて……!」
「! 今日打たれたの?」
「さっき、学院から帰られてから……すごく機嫌が悪くて」
うっかり死なせては面倒なことになるから――とはいえ処理するのは下の者だけれど――基本的に私が休みの日は下男下女に鞭打つことはないのに。
よほど腹に据えかねることがあったのだろうか。
布団を捲って慎重に服を脱がせると、まだ八歳になったばかりの下女の背中には鞭の痕が這うように残っていた。血も滲んで熱が出ている。
「る、ルシエルさま……おかえりなさい……」
ぐったりしながらも私に笑いかけるココの小さい頭に笑みを返しながら、手に魔力を込める。
「大丈夫、今治してあげる。気分が悪くなっちゃうけど、痛いのはなくなるわ」
「ありがとうございます……でも、治すの半分くらいでも、いいですよ……半分治れば、たぶん、動けますから……」
全部治すと魔力が少なくなり私が辛くなるのを知ってしまっているからそんなことを言う。
「……いいから、寝てなさい。大丈夫よ」
何にも大丈夫ではない。大丈夫なことなんて何もない。それでもココを安心させるために、自分にも言い聞かすためにそう口にしてしまう。
傷を治した後ココは気を失うように寝入った。ノトスがココの汗を拭いて額に濡れ布巾を乗せる。可哀想だが完全に治癒すると魔力酔いが長引いてもっと辛いから微熱は残した。
下男下女の中で一番年上のノトスは彼らの長兄のような存在だ。看病は彼に任せていい。
平民だから出会った最初の頃は私に敬語を使っていたがいつの間にかタメ口になった。話し方を気にしている場合ではない状況が沢山あったから私ももう気にしていない。
「――――ありがとうルシエル、休みの日なのにごめん。体調は大丈夫か?」
「ええ、何とか。ノトス、あとはお願い」
「……ココの後、セシルがお嬢様に呼ばれたんだ」
その言葉にじわりと焦燥感がわく。
だるい体を引き摺り、呼ばれてはいないがメオリーネ様の部屋に向かう。侍女が私を遮らないということは入室しても問題ない。
もともと魔力が回復しきっていなかったから今日はもう治癒魔法を使うのは難しい。治癒師としては何も出来ないがセシルが心配だった。
ノックをして失礼致しますと言いながら扉を開け、入り、無意識に閉めた。
「あら貴方、今日は休暇ではなかった? でも丁度良かった、下女を嬲ってしまったから治しておいてくれる?」
「……先程治しました」
「まあ、気が利くわね」
円卓の上のお茶を優雅に口にするメオリーネ様の前にはシルシオン・カーセル伯爵令嬢がいた。壁際にはメイドのセシルが立っている。二人とも少々顔色が悪い。
もしや彼女達の目の前でココを鞭で打ったのだろうか。……趣味が悪い。
「それに比べてシルシオンときたら……前にも言ったかもしれないけど、聞いて頂戴よルシエル! シルシオンはアルフレド公子とシレンツィオ派との婚約を妨害することに失敗したの……あの美しいアルフレド公子がカリーナ・ヴェントなんかと婚約したのよ?! ああ、貴方は世代が違うから見たことないかしらね。カリーナはそばかす顔で瞳が黒いブスよ。何であんなのと……あ~~~~~もったいない!! 損失よ!! 希少な宝を溝に捨てるような愚行だわ!!」
メオリーネ様が苛立たしい感情そのままに拳でテーブルを叩いて、シルシオン嬢とセシルが肩を揺らす。
「万が一正妃の席が奪われた時のためにアルフレド公子は残しておきたかったのに! 王子妃になる可能性が高いわたくしとの縁談が先行き不安なのは理解出来るけれど、手近だからって何も本当にあんなブスを選ぶことないじゃない! ジュリエッタ嬢やアマデウスのしつこい推薦があったに違いないわ! ああぁ改めて腹立つ……」
神々しい美形と名高いアルフレド・タンタシオ公爵令息が婚約したと聞いた日も業腹だったようだが、妨害を命じていたシルシオン嬢が謝罪に来た結果怒りがぶり返したらしい。
そんな理由でココをあんな目に。あんな幼い子が鞭を受けたら衝撃で死んだっておかしくないのに。
怒りで震えそうになる体にぐっと力を入れて堪える。
……ノトスから聞いている。私がここに来てからはまだ無いが――――メオリーネ様も、侯爵様も、兄君のメテオリート様も、もう何人も死に至らしめている。
殺そうと思っている訳ではないが鬱憤を晴らすために拷問していたら死んだ、という形で。
コレリック家は、御者のヴィペールが集めて来た孤児を密かに奴隷として他国に売り飛ばしている。
時々その中から雇い入れて、いつでも嬲れる玩具の下男下女として働かせている。ノトスももう十数年前に連れてこられ雇われた孤児の一人。ノトスより年長の者は弄ばれて次々死んでいった。
貴族が平民の命を奪うのはたやすい。無礼なことをしたから手打ちにしたと処理してしまえば済む。しかし何人も何人もそんなことをしてそれが王家や民に知られれば流石に問題になる。何の瑕疵も無い民を殺すのは批判の対象になり、領主としての資質が問われる大問題に発展しないとも限らない。そのため死者は地下室の壁に塗り込めるよう命令されて隠滅されてきた。ノトス自身も何人もかつての先輩や後輩をその手で壁に……
コレリック家の治癒師は私以外にも数人いるが下男下女の治療はまともにしない。死なない程度に治して放置する。そうでもないと魔力がもたないから仕方なく、という面もあるが、感覚が麻痺しているのだろう。平民の命なら失われても問題ないと。
ここにまともな治癒師がいないのは、まともな人間は口止めされて辞職したか消されたのだろうと思う。
私も正直魔力が枯渇に近くなる状態が続いておりかなり辛い。こんな生活を続けたら確実に体を壊す。辞めたい。でも私が辞めたらノトス達はどうなる?
「ああ~~~~、イライラが治まらないわ……治したんならさっきの下女また呼んできて頂戴」
無慈悲な台詞に耳を疑っていると、セシルが焦った様子で一歩前に出た。
「お、畏れながら……あの子はまだ伏せっているでしょうからこれ以上は……代わりに私が……」
「シルシオンからお願いされてしまったからセシルにはしちゃダメなのよ。ねえ、シルシオンはまだまだわたくしのために頑張ってくれるんですものね?」
「はっ……はい! メオリーネ様、わたくし頑張りますから、どうか」
「期待しているわよ」
シルシオン嬢とセシルがどういう関係なのかは知らない。訊いてもセシルは教えてくれない。しかしシルシオン嬢はセシルを守るためにメオリーネ様の言い成りになっている。メイドのためにどうしてそこまで、と訝るくらいに必死で。
シルシオン嬢の顔に貼りついた完璧な媚びる笑みを見る度に、彼女を哀れに思う。人に全力で媚びないとやってこられなかった今までの彼女を想像して哀しくなる。
先程治療したのでこれ以上は私の魔力が不足します、と申告すると「ん~~~……なら仕方がないわね、明日まで我慢するわ」とメオリーネ様は本日の拷問を断念した。
廊下に出て人のいない所まで来るとセシルは蒼白になってシルシオン嬢の肩を掴んだ。
「危ないことをしてはダメですよ」
「心配しないで。上手くやる、今度こそ……セシル、今度の作戦が上手くいけばメオリーネ様は私に良い縁談を用意して、そこに嫁ぐ時には貴方を譲ってくださるって」
「っ……とても大変なことを、引き受けたの?」
セシルは黙ってしまったシルシオン嬢の手を両手で握りしめた。二人は俯きがちに目を伏せ、暫くじっとしていた。人が来ないか気にしながら、何とはなしに私もそこで一緒に黄昏た。
「……上手くいったら、ノトスのことも引き取れないかお願いしてみる。メオリーネ様機嫌が良い時は気前が良いから何とかなるわ、きっと」
一時期二人はもしや恋仲なのだろうかと思っていたが、セシルはノトスと恋人関係にある。それはシルシオン嬢も知っていたようだ。
メオリーネ様は学院で起きたことなどを結構私にお喋りするので現在王子妃争いでシレンツィオ派が擁するコンスタンツェ嬢が有力であることは知っている。
修業時代はシャムス師匠に教わる際にシレンツィオ城に出入りしていたが、ジュリエッタ嬢を見たことは無い。素顔を見たら卒倒してしまうほど醜いという話だったが、シャムス師匠はジュリエッタ嬢への誹謗や嘲笑は決して許さなかった。
『引っ込み思案だが利発な御方だ。良い婿が見つかるといいのだが……』と心配する言葉を溢したこともあった。素直に尊敬出来る主に仕えていたこと、今心底羨ましい。
(決闘で辺境伯の息子を負かしたらしいので、ジュリエッタ嬢は私の想像よりずっとたくましい人だったようだが……)
スカルラットに移り住みバドルという楽師とも親しくしていることから考えると、シャムス師匠はアマデウス様のことをシレンツィオ家の婿に相応しい人と認めているように思える。
メオリーネ様はアマデウス様を『遊び人』と称していたが、あの師匠が認めるくらいだから本当は真面目な人なのではないだろうか。
詳しいことはわからないが、メオリーネ様がシルシオン嬢を使ってシレンツィオ派に何かするつもりであることはわかる。
友愛というには重過ぎるように見える令嬢とメイドの絆が、政局を揺るがす何かを引き起こす。
しかしシルシオン嬢の作戦があっさり上手くいくということはあるまい。師匠が私に探りを入れて来たことでわかる、シレンツィオ派はコレリック家をちゃんと怪しんでいる。セシル達の安寧は望めど、それによって誰かが傷付くとしたら私は彼女達に祝いの言葉を贈れない。
ココの様子を見に地下室へ戻ると、歌声が聞こえた。ノトスがココの汗を拭きながら小さい声で歌っている。
「……その歌、なんて曲だったっけ」
「あ……ココに歌ってって頼まれたんだ。確か『絹の来た道』」
「ああ、コンスタンツェ嬢が歌った録音円盤の……」
「ん? ああ、録音円盤出てるのか」
孤児の下男下女はコレリック邸の敷地から出ることを許されていない。録音円盤という発明品のことは使用人の噂話で知っているが、実物は見たことも聞いたことも無いのだ。そうだった。知ってたのに忘れて発言してしまった。
「お母さんが昔歌ってたんだ……」
ココが目を閉じたまま嬉しそうに言った。彼女の親は数年前に病気で死んだという。もしかしたら、コンスタンツェ嬢が先導している薬局設立計画が実現していたならば死ななかったのかもしれない――――この国の人々はもうほとんどが薬局のことを知っているのに、地下室の下男下女は知り得ない。狭い世界で生きている。
「それにしてもノトス、歌上手いわね」
彼も昔親から教わったのだろうか。長いことここに居て、音楽に触れる機会なんてほとんど無かっただろうに。メイドのセシルは見張り付きだけど外出できるのでそこからだろうか。
「そうか? 自分だとよくわからないけど……昔、吟遊詩人と少しだけ一緒にいたんだ。歌うのって楽しいなって、その時知った。その時覚えた歌を忘れないように時々歌ってる」
「へえ……」
ここにこっそり録音円盤と再生機を持って来ることが出来たら皆喜ぶだろうか……いや。それはやめておこう。外に出ることが出来ないのに、外への憧れだけを加速させる残酷な行為のような気がした。
そうだ、リュープと楽譜を持って来よう。
地下室はあまり音が漏れないし、そこまで上手くないが簡単な弾き方くらいは教えられる。
何がどう転んでも、私に出来るのは身近な人達を癒すことだけだ。
それが出来るだけでもこれまでの努力の成果なのに。
こんなにも自分は無力だと感じてしまうのは何故なのでしょう。
頭の中だけでかつての師匠に問いかけた。




