#09 妖しい来訪者
“ピンポーン”
不意に玄関チャイムが鳴った。
だが、構わず食べ続ける武留。
どうせ、また新聞の勧誘だろう。
そう思ったからだ。
前に1度、丁寧に断ってやったことがある。
そしたら、
「兄ちゃん、新聞も読まなかったら将来ろくな職に就けないぜ」
と言われたので、
「んじゃ、あんたも読まなかったんだな、新聞勧誘なんかやってるってことは」
そう言い返したら、
「てめぇ、ぶっ飛ばすぞッ」
と、凄まれてしまった。
以来、この手の輩とは関わらないことにしている。
“ピンポーンピンポーン……ピポピポピポーン”
連打し始めやがった。
“ピポピポピポーン、ドンドンドン! ピポピポピポーン、ドンドンドン!”
今度はドアまで叩きやがる。
ったく、何て野郎だ。
新聞は、インテリが書いてチンピラが売る。
誰が言ったか知らないが、言い得て妙である。
「分かった分かった。今出てやるから、もうやめろって」
武留はドアのカギを開け、チェーンを外した。
毅然たる態度で断ろう。
それでも帰らないなら警察に通報してやる。
だが、ドアを開いた武留は意表を突かれたように目を丸くする。
「あっ。あの時のインド人……」
そこに立っていたのは、サリーという民族衣装を身にまとった若い女だった。
褐色の肌に、黒々と艶やかな長髪が何とも印象的。
顔立ちは、誰がどう見ても美形に違いなかったし 異国情緒に溢れていた。
ぽってり潤った唇、くっきり整った鼻梁、そして吸い込まれそうな爛々たる眼。
「やっと見つけた。探しましたよ」
女は二コリともせず言った。
「え、探したって……何で? 何でインド人が俺を探すんだよ」
ドアノブを握りしめたまま、武留は問うた。
「実は、あなたに大事なお願いがありまして……」
「お願い? お願いって何だよ。何でインド人が俺にお願いすんだよ」
すると、女は射るような目つきで武留を指差した。
金属製のバングル(一体型の腕輪)がジャラリと鳴る。
「ちょっと、あなた。さっきから私のことをインド人呼ばわりしてますけど、一体何を根拠にインド人と決めつけているのですか?」
「えっ? いや、だって、その服……」
「サリーはインドだけじゃなくて、ネパールでもスリランカでもバングラデシュでもパキスタンでも着用されているんですよ」
「へ、そうなの? いや、それは知らなかった……失礼」
と軽く頭を下げてから、
「じゃ、あんた 何人なの?」
「インド人です」
「何だよッ。やっぱインド人じゃんかよッ」
「決めつけはよくない、と言いたかったんです。それに、私にはアーシャというれっきとした名前があるんですから」
「あー、そうなの? ……で、そのアーシャさんが俺に何のお願いがあんだよ」
喉頸を掻きながら、いかにも面倒そうに武留。
「その前に、そろそろ中へ入れてくれません? 立ち話も何なので」
肘掛け持ちしたエスニック調のハンドバッグからハンカチを取り出し、扇子代わりにあおいでみせるアーシャ。
「え、いや、それは……」
武留は躊躇した。
サリーの裾がこれでもかというくらい地面に付いていたからだ。
どこから来たのか知らないが、こんな状態でここまで来たということは、かなりいろんなばっちいもんを引きずってきたということだ。
おいそれと入れる訳にはいかない。
だが、アーシャは、
「お入りください、ありがとう」
新喜劇風のギャグをかまし、さっさと部屋へ上がり込んでしまった。
「あっ、おい、ちょっと……」
たじろぐ武留をよそに、6畳の和室内をぐるりと見回すアーシャ。
「割と小奇麗にしてますね」
それから8帖ほどのダイニングキッチンへと向かい、まな板上のリンゴを見つけるや、
「私のためにむいてくれたんですね」
そう言って、一切れつまんで食べた。
「んな訳ねぇだろ」
すかさずツッコミを入れつつ、武留はアーシャに向けた視線を改めて上下させた。
赤・黄・橙など暖色を基調とした色鮮やかで きらびやかなサリー。
こないだ同様、ド派手な いでたちだ。
見てると目がチカチカする。
『だが、それにしても……』
武留の視線は、彼女の胸元に吸い寄せられた。
スイカップとでもいうのだろうか、それとも爆乳と表現すべきか。
いずれにせよ、かなりのデカパイである。
それに、腰のくびれの凄まじいこと。
まるで砂時計だ。
臀部も、日本人には見られない肉の付き方をしている。
肉感的姿態といえば、まず身近で思い浮かぶのが妹の親友 椿本万世。
だが、このインド娘は彼女に匹敵する……いや、それ以上の逸材であった。
「ちょっと。さっきからどこ見てるんですか? もしかしてレイプするつもりじゃ……」
「す、するかぁーッ。それより、さっきの“お願い”って何なんだ。早く言えよ」
すると、アーシャはリンゴを咀嚼しながら平然とこう言った。
「あなたの精子を私にください」
◇
雑賀武留が初めてアーシャと出会ったのは5日前のことだった。
物貰井駅近くの とある雑居ビルの1階に店を構える『チューチェー』に立ち寄った際だ。
ここは、ヘマントという南インド出身の男が6年ほど前に始めた飲食店。
無論、本場のインドカレーが売りで、米粉ベースのクレープ・ドーサは食べ放題である(ちなみに、店名はヒンディー語で“乳房”を意味する。ヘマントは三度の飯よりおっぱい好きだったのだ)。
ただ、前述したように武留は食にあまり関心がない。
だから、特にこのカレー屋をひいきにしていた訳ではなく、たまに気が向いた時なんかにテイクアウトで利用する程度だった。
で、武留が店に入ってみるとだ。
派手やかなサリー姿のアーシャが、店主のヘマントをボロカスにこき下ろしているのである。
「これのどこが“本場インドカレー”なんですかッ!? ちゃんちゃら可笑しいですよッ。邪道です。邪道も邪道……ウンコです。ウンコカレーですよ、こんなのッ。あなた、恥を知りなさい! インド人の風上にも置けないわッ。謝ってください。生まれてきたことを詫びるのです。さぁ、今すぐにッ」
夢にまで見た巨乳ちゃん(しかも美女)にこうまで糞味噌に言われ、もはや涙目状態のおっぱい星人ヘマントは、
「う、生まれてきて……ごめんなさい」
と、しおらしく首を垂れた。
だが、腹の虫が治まらないアーシャは、
「ダメッ、許しません!」
「えぇ~~~ッ!?」
もう、どうしていいか分からないヘマント。
基本 他人の揉め事には口を出さない主義の武留だったが、これにはさすがに見かねて、
「ちょっとちょっと、そこのお姉さん。もう、それくらいにしときなよ」
すると、アーシャは切っ先のような鋭い視線を武留に向けて言った。
「あなたには関係ないでしょ。口を挟まないでくださいッ」
だが、武留は動じることなくメガネのブリッジを指先でチョンと上げて、
「まぁまぁ、そう興奮しないで。あんたの言い分も分からないではないけどね、インドはめちゃんこ広いんだ。地域によって味や食感がガラリと変わるのは仕方ないんじゃないの? 日本みたいなちっぽけな国でさえ、そういうことあるんだから。例えば雑煮だ。雑煮はすましが常識だが、味噌やあんこなんて入れる地方もあるんだぜ」
「でも、それとこれとは……」
「違うって言うのか? どう違うんだ? 一緒じゃんかよ。そりゃ、あんたにとっては邪道なウンコカレーかもしれないけど、彼にとっては本場のインドカレーなんだよ。慣れ親しんだおふくろの味なんだよ」
「……」
「今、あんたがやってることは食文化否定だ。そんなことする権利なんて誰にもないはずだぜ。たとえ、あんこ入りの雑煮が出てきたってブチ切れたりしないよ、俺は」
すると、アーシャは平静を取り戻し 椅子から立ち上がった。
ツカツカと武留の方へ歩み寄って、彼の首元へ目を凝らす。
「それってアザですか?」
「え? あぁ、そうだけど」
武留の右側の首には半円形の茶アザがあった。
500円硬貨くらいの大きさで、生まれつきのものだった。
「何だか月の形に似てますね」
「え、いや、そんな風に思ったことはないけど……何なの?」
「いえ、いいんです」
そう言うと、アーシャは財布から1万円札を取り出し カウンターテーブルに置いた。
「ごちそうさまでした」
怯え顔のヘマントに会釈して店を出ていったのである。