#45 本音と建前
「ちょ、ちょっと、水谷さんッ。ダメだって……」
まずいといった顔で たしなめる武留。
しかし 水谷は、
「ええんじゃ、武留くん。このままでは君が人さらいに仕立て上げられてしまう。そんなの、わしゃ耐えられんからのう」
「水谷さん……」
眉尻を下げ、しゅんとなる武留。
水谷は、驚異の目を見張っているアーシャに顔を向けると、
「あのな、姉ちゃん。信じられんかもしれんがな……わしは今し方 あの世から戻ってきた者なんじゃ。だから武留くんは何も悪うないし、何の関係もないんじゃよ。分かってくれるかのう?」
すると アーシャは、
「よく分かりました。あなたは、奇跡の子よッ。サムシング・グレートの遣いだわ! 救世主だわ!! 」
そして ベランダ越しに広がる碧空を振り仰ぎ、目を輝かせ 語気を荒げる。
「嗚呼、敬愛なるサムシング・グレートよ……このお示しに感謝します。より一層の忠誠をここに誓います。クモルヤー!(讃えよー!)」
この尋常らしからぬ状況に、いよいよ恐ろしくなってきたのは佐藤多江。
「逃げ……なきゃ……急が……なきゃ……」
赤ん坊じゃあるまいし、ハイハイしながら場を逃れる。
おそらく腰が抜けてしまってるのだろう、四つん這いのまま玄関ドアの向こうへ姿を消した。
「ところで、坊や。あなた 名前はあるの?」
水谷のふわりと逆立った髪を撫でながら、アーシャが問うた。
「あるよ。水谷勇じゃ」
「勇くんかぁ……。ん~、ちょっと野暮ったいわね」
「ははっ、よく言われる」
「だったら、シャウーリャなんかどう?」
「シャウ……ラ?」
「シャウーリャ。インドでポピュラーな名前よ。“勇敢さ”を意味するの。勇にも ちなんでるし、いいんじゃない?」
「んー、悪くはないのう」
「うふふ、でしょ? なら、決まりね。今この瞬間から、あなたはシャウーリャ。シャウーリャ・コケカキッキーよ」
「ちょっと待て、おい。なに、勝手に名付け親になってんだよッ」
聞くに堪えないといった感で、武留が割り込んできた。
だが アーシャは、
「いえ、名付けるだけではありません。育ての親にもなるつもりです」
しれっと言い返す。
「ふ、ふざけんなッ。お前みたいなカルトに、水谷さんを渡せるかってんだよ」
「あら、またずいぶんな言い草ですね。ではお聞きしますけど、あなたがこの子を育てるのですか?」
「え? あ……まぁ、そのつもりだが」
「じゃあ、子供一人育てるのに どのくらいお金がかかるか知ってますか?」
「知らん」
「1600万円です。養育費だけで」
「せッ、せんろっぴゃく……」
「教育費も入れると2500万は優に超えるでしょう」
「にッ、にせんごひゃく……」
「どうやって捻出するんですか?」
「そ、それはだな……やっぱ……」
「株ですか?」
「お、おぅ……そうだ」
「毎月のように損失出してるくせにですか?」
「な、何で知ってんだよッ、そんなことまで」
「真面目な話、この子の将来を考えるなら手放すべきではありませんか? 私があなたなら、そうしますけど」
「うるせぇーッ。バイト掛け持ちしてでも養ってみせる」
自分の口をついて出たその言葉に『おい、気は確かか!?』と、驚き呆れる武留。
一人の赤ん坊を引き取って育てるだなんて、あまりに大それてる。
無謀な決断だ。
犬や猫を飼うのとは訳が違うんだぞ。
よく考えれば……いや、ちょっと考えただけでも分かることだろ。
頭を冷やせって。
なに、意固地になってんだよ。
っていうか、そもそも何で俺が水谷さんを養わなきゃなんないの?
そりゃ 株を教えてもらった恩はあるけど、そこまでの義理はないはずだぜ。
「あのなぁ、武留くん。その心意気は嬉しいんじゃが……」
と、今度は水谷ベビーが口を挟んできた。
うつむき加減で いかにも残念そうに、
「わしゃ、やっぱり この姉ちゃんとこに厄介になるよ」
その思いがけない申し出に、
「えっ、どうしたんですか? 急に」
と、身を乗り出す武留。
「武留くんは今、金欠なんじゃろ? なのに、わしなんかが転がり込んじゃ迷惑千万」
「は……はぁ」
変だな。
ついさっき「無職だから赤ん坊を養う余裕はない」と伝えた時は「バイトしてでも養え」みたいなこと言ってたのに……。
「武留くんは親友じゃ、心の友じゃ。そんな大切な君の重荷にだけは、なりとうないんじゃ。だから、ここは涙を呑んで引き下がろうかと……」
ははっ、我ながら口上手じゃのう。
けど、これで武留くんも納得してくれるじゃろ。
こんな貧乏臭いアパートで、ベビーフード食わされながら生きてくなんて かなわんからな。
わしゃ、このえらく美人でグラマーな姉ちゃんと、ねんごろに暮らすんじゃ♪
飯を食わせてもろうて、風呂に入れてもろうて、おまけに下の世話までしてもらえるんじゃぞ。
夢のような話じゃないか。
たとえ、カルトだろうが ヤクザだろうが 殺し屋だろうが 構やせんわい。
「分かりました、水谷さん。その申し出、断腸の思いでお受けします」
そう答えると 武留は無念そうに唇を噛み、内心でガッツポーズを決めた。
「よくぞ言ってくれました。立派ですよ、武留さん」
この展開に、アーシャもホッと胸を撫で下ろす。
“花の焔を鎮めし月が 花に新芽をもたらすだろう”
(アーシャの怒りを鎮めた雑賀武留が アーシャに赤子を産ませるだろう)
祖母ダーパナが受けたこのお告げは、一応 現実のものとなった。
当初の思惑とはだいぶ違うけど、まぁ 結果オーライということで。
でも特筆すべきは、月が花にもたらした新芽ね。
そんじょそこらの赤ちゃんと違って、ペラペラと喋くるんだから(苦笑)。
これなら、祖母も父も納得してくれるはずだわ。
それと何より嬉しいのは、もう妊娠しなくてよくなったこと。
そりゃ サムシング・グレートの啓示は絶対だし、疑いの余地なんかないけど……
実を言うと、心のどこかで ずっと腑に落ちなかった。
何で、私があんなヒョロヒョロメガネの子供を身籠らなきゃなんないの!? ってね。
「さ・て・と……」
本音と建前はどうあれ、3者の利害がピタリと一致したのを潮に、
「じゃあ、そろそろお暇しましょうか。ほら行くわよ、シャウーリャ」
と、水谷勇改めシャウーリャ・コケカキッキーを抱っこして立ち上がるアーシャ。
玄関までゆっくり歩みを進める。
武留も黙って後に続いた。
「では、達者でな。武留くん」
あどけない笑顔を向け、シャウーリャが言った。
「はい。水谷さんも どうかお元気で……」
武留もニッコリ笑んで返す。
するとここで、アーシャが肘掛け持ちしていたエスニック調のハンドバッグから100万円の札束を取り出した。
下駄箱の上にスッと置いて、
「これ、受け取ってください」
「何だよ、それ」
武留が問うと、
「お礼というか、まぁ 迷惑料ですね」
「要らねぇよ、そんなもん」
「なら、捨てるなり 燃やすなり トイレの紙にするなり 好きにしてください」
「チッ……」
「では、これで。失礼します」
「……」
行ってしまった。
武留は開きっ放しのドアを閉めると、鍵をかけた。
札束を手に取り、じっと見つめる。
結果的に、水谷さんを100万円で売っぱらう形となってしまった。
しかも、あんなカルトに。
ホント、気の毒なことをしたな。
俺に甲斐性がないばっかりに。
許せ、水谷さん……。