#44 美女に濡れ衣 着せられて
「なるほど、そういう事情が……。しかし それにしても、赤ん坊状態の水谷さんを単身こっちへ戻すなんて、その女神ってのも結構 無責任ですよねぇ」
いかにも気に食わないといった感で、腕組みをする雑賀武留。
すると 水谷ベビーは、
「いやいや。それは、わしがそうしてくれと頼んだからじゃよ。女神様は悪うない」
「ふーん。……っていうか、何で俺の所へ来たんですか?」
「それは……武留くんぐらいしかおらんからじゃよ、頼れるのが」
「けど、そう言われてもねぇ……どうすんですか、これから」
「一緒に株でもやりながら、気楽に生きていこうよ」
「いや、そんな楽観的な……。第一、他人に知られたらどうすんですか。不審に思われますよ、絶対」
「大丈夫じゃよぉ、誰も気にせんって。万一、怪しまれたとしてもじゃなぁ……知り合いの赤ん坊 預かっとる、とか何とでも言えるじゃろが」
「んん~、まぁ、そりゃそうですけど……。あの、実は俺ね、今 無職なんですよ。だから、赤ん坊養うような余裕はないかと……」
「なーにを言うとるッ。そんなもん、アルバイトでもやりゃええじゃろが。まだ若いんじゃし、贅沢言わんかったら どっかしら雇ってくれるよ」
「いや、赤ん坊に『まだ若い』とか言われても……」
武留は小さなため息を漏らした。
いやはや、参った。
えらいのに転がり込まれてしまった。
明日っからバイト探しだぞ、こりゃ。
「ときに、武留くん。何か着るもんはないかね? 赤子の身といえど、羞恥心がない訳でもないんじゃよ」
と、股間を指差しながら水谷ベビー。
「あぁ、パンツですか? 俺のでよかったら貸したげますよ」
武留はチェストの引き出しから白ブリーフを1枚取り出した。
次に、ベランダの物干し竿に留めてある洗濯ばさみを1個手に取る。
そして、水谷を抱き上げ ブリーフをはかせると、脱げ落ちないようウエスト部を洗濯ばさみで留めた。
「明日にでも『赤ちゃん本堂』で買ってきますから、今日のところはそれで我慢してください」
「うむ、分かった。けど、せっかくパンツはかせてもらって悪いんじゃがのう……小便がしとうなった」
「あ、待ってください。まだ出さないでくださいよ……」
武留は水谷を抱き上げ ブリーフを脱がせると、トイレに駆け込んだ。
そして 無事に用足しを済ませると、またブリーフをはかせ 洗濯ばさみで留める。
「便意を事前に知らせてくれるんだったら、オムツは要りませんね」
「あぁ、要らん要らん。それに夜泣きもせんしな。世界一 手がかからん赤子じゃよ、わしは」
「あはは、言えてるかも」
「けど、出すもん出したら今度は喉が渇いてきたのう」
「飲み物ですか。今 麦茶くらいしかないですけど、いいですか?」
「んん~、わしゃ やっぱビールが飲みたいのう。悪いが、ひとっ走り買ってきてくれんか?」
「ダメッ! 赤ん坊が酒なんか飲んだら死んじゃいますよッ」
「コップ1杯くらいなら大丈夫じゃって」
「ダ・メ・で・す」
武留は冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出すと、紙コップに少量注いで水谷に与えた。
紅葉のような両の手でコップをつかみ、一心に茶を飲む水谷ベビー。
黙っていれば、そこいらの赤ん坊と同じだ。
相当に愛々しい。
特に子供好きという訳でもなかった武留だが、こうして目の当たりにし 触れてもみると、やっぱり魅了されてしまうのだった。
情の芽生えか、母性の目覚めかは知らないが……
世話を焼きたい、とか 尽くしてやりたい、といった気持ちにさせられるのだから ホント不思議。
まったく、赤子という奴は小悪魔である。
「晩飯はどうしましょうかね。何か食べたいものありますか?」
すると、水谷はアゴに手をやり しばし考えたのち、
「炙ったスルメが食いたい」
「いや、無理っしょ。まだ、歯も生え揃ってないくせに何言ってんスか」
すかさずツッコむ武留。
「じゃあ、鶏なんこつの唐揚げ」
「あんた わざと言ってるでしょ、硬いもんばっか」
「いや、違う。本当に食いたいんじゃよ、わしゃ」
「もういいです」
武留は やおら着替えを始めた。
ジーンズに足を通しながら、
「今からコンビニ行って買ってきますから、ベビーフードを」
それを聞くや、途端にぐずりだす水谷。
「嫌じゃ嫌じゃ、ベビーフードなんて死んでも食わんぞ。あんなもんゲロじゃ、ウンコじゃ」
「もぉ、そんなわがまま言っちゃダメでしょ。……ったく、どこが『世界一 手がかからん赤子』なんだよ」
と、まぁ そんなおバカなやり取りをしていると、
“ピンポーン”
出し抜けに、玄関チャイムが鳴った。
「んッ!?」
反射的に身構えてしまう武留。
例の一件以来、来訪には過敏になっているのだ。
武留は忍び足で玄関に向かうと、ドアスコープをそっと覗き込んだ。
すると、そのタイミングを待っていたかのように、
「どーもぉ『野呂間運輸』でぇす。お荷物お届けに参りましたぁ」
「……」
武留は黙って目を凝らした。
ふっくら肥えた中年女性が一人、小包を抱えて立っている。
紫色のポロシャツに、黒のハーフパンツ。
そして、馴染み深いゾウガメのイラスト。
間違いない。
カメさんマークの宅配便 野呂間運輸だ。
「優待かもしれんぞ」
嬉しそうにハイハイで近づいてくる水谷ベビー。
だが、それを制する武留。
人差し指を唇に当てて、
「シーッですよ。喋っちゃダメ」
すると 水谷は両手で口を覆い、コクリと頷いた。
「あ、はーい。ちょっと待ってください……」
カギを開け、チェーンも外す武留。
そのまま躊躇なくドアを開いた。
「へー、あんたが雑賀武留かい。なかなか いい男じゃないの」
そう言うと、佐藤多江は小包をその場に落とし、太い足で踏みつぶした。
「えっ?」
訳が分からず呆気にとられる武留。
だが、そんな彼を押しのけて、
「お邪魔しまんにゃわ~」
と、勝手に上がり込んでしまう多江。
「ちょ、ちょっと。何だよ、あんた……」
大いに困惑する武留。
すると、
「こんにちは♪」
ドア枠からヒョイとアーシャが顔を出した。
「あッ!」
ここで事態を把握した武留は、
「やっぱ、お前の差し金だったか。ったく、懲りねぇインド人だ」
吐き捨てるように言って気色ばむ。
「おや? 何だい、このチビ助は。可愛いねぇ……」
水谷を認めた多江は、思わず彼を抱き上げた。
それを見て 目を丸くしたのはアーシャ。
「まあ! 赤ちゃんだわ」
そして武留へ歩み寄ると、彼の手をギュッと握りしめて、
「私のために赤ちゃんをさらってきたのですか。何もそこまでしなくても……」
「んな訳ねぇだろッ!」
すかさずアーシャの手を振りほどく武留。
「じゃあ、何なんです? この子は」
「えっ? いや、え~と、その子はだな……親戚の子で……ちょっと預かってるだけなんだ」
「ウソおっしゃい」
「い、いや、ウソなんかじゃ……」
「あなたの親類縁者に乳児なんかいないことは既に調査済みです」
「ヴッ……。いや、違うんだ。実はその子は知り合いの子で……」
「どんな知り合いですか?」
「そ、それはだな……」
「名前は? 住所は? 電話番号は?」
「そ、それは……」
「それはぁ?」
「それ……は……」
しょげるように足下へ視線を落とす武留。
その様に、呆れ気味なため息をつくアーシャ。
腰に手を当て アゴをしゃくると、
「自分の子じゃないし、親戚の子でも知人の子でもない。となると……やっぱり、さらってきた子なんですね?」
「ち、違うッ。俺はそんなことしねぇ」
「じゃあ、この子は何なんです? 説明してください」
「……」
もはや、ぐうの音も出ない武留。
「それにしても、何て可愛い子なのかしら。ちょっと私にも抱かせてください」
と 多江の元へ駆け寄って、水谷を腕の中へ迎えるアーシャ。
上体を小刻みに揺らしながら 猫なで声で、
「おー、よちよち。いい子いい子」
そして一転、武留に鋭い視線を向けると、
「さぁ、どうなんです? 答えてください、武留さん」
だが 武留は、
「……」
険しい顔で突っ立っているだけ。
するとここで、見かねた水谷ベビーが とうとう口を出してしまう。
「なぁ、姉ちゃんよ。その辺で勘弁してやってくれんかのう」
そしたら、傍らの多江が、
「きゃあーッ!!」
金切り声をあげて尻餅をついた。
目ん玉をひんむいてガタガタ震える。
「まあ! 喋ったわ。インド人もびっくり!!」
と、アーシャも ぶったまげた。