#42 実在感に欠ける人物
武留は ラクダ色の小ぶりなヒップバッグからポケットティッシュを取り出すと、
「大丈夫ですか?」
と、中年男に差し出した。
「あ、こりゃどうも……」
ペコリと頭を下げてティッシュを受け取り、鼻血を拭う中年男。
そして、いささか さぐるような目つきで、
「あなた、ずいぶん親しげでしたよね? 風花さんと」
「え? あ、はい。まぁ……」
「失礼ですが、どういったご関係で?」
「え~と、そうですねぇ……幼馴染みって訳じゃないけど実家のお向かいさんでしてね。それで親しくなったと、まぁ そんな感じです、はい」
「それはつまり……付き合ってる、ってことですか?」
「いえいえいえ、違います。そういうんじゃないです。家族というか……姉と弟みたいな関係ですかね」
「あぁ、そうですかそうですか。それは微笑ましい」
中年男は眉を開いて口角を上げた。
それから、思い出したかのように気をつけの姿勢をとって、
「ご挨拶が遅れました。私、山本正と申します。物藁井高校に勤めております」
「え、藁高に?」
「はい。社会科の教員です。今は主に地理の授業を受け持っております」
「へー、そうなんですか。いや、実は俺の妹が今年の春に入学しましてね、藁高に」
「おぉ、何たる偶然! ちなみに、妹さんのお名前は?」
「千寿留です、雑賀千寿留」
すると、山本はアゴに手を当て しばし首を傾けたのち、
「あっ、そうだ、あの子だ。すらりとした体型の……伸ばした前髪で目を片方覆ってる……」
「ええ、そうですそうです。そいつです」
「あぁ、あの子が妹さんだったんですか……。いやね、こないだも注意したばかりなんですよ。『君、鬼太郎じゃないんだから、ちゃんと目を出しなさい』ってね。そしたら『うっせぇ、ハゲ』って言われましたよ。何でだろう? 私、この通りフサフサなのに」
「はは……何か、すいません。兄として お恥ずかしい限りです」
「いえいえ、そんな。お兄さんが謝ることでは……」
と そうこうしているうちに、場がにわかに騒がしくなってきた。
けたたましいサイレン音と共に救急車がやって来たのだ。
その背後にはパトカーの姿も見られる。
カエモットの真正面に停止した救急車は、意気盛んな3名の隊員を吐き出した。
応急処置もそこそこに、双子とビガロをストレッチャーに乗せる隊員たち。
そのまま せっせと車内に運び入れる。
双子は、どちらも幼子のように泣きじゃくっていた。
ビガロは、目覚めはしたものの「ここはどこ? 私は誰?」状態。
自業自得とはいえ、何だか気の毒に思えてくる。
そして、救急車は再び大げさなサイレンを鳴らすと早々に走り去っていった。
一方、残されたチビのモヒカンピアスは、警察の聴取を受けていた。
だが、加害者が「大柄の女性単独」と知るや、巡査らは適当に捜査を切り上げ 引き上げてしまった。
この界隈で活動する警官ならば皆、霧島風花を知っている。
喧嘩の仲裁にとどまらず、これまで痴漢や空き巣、放火魔なんかも取っ捕まえてきた風花。
だから、警察の方でも何度も彼女を表彰しているし 全幅の信頼すら寄せている。
しかも今回、被害者は3人共に前科持ち。
顔に刺青を入れた奴までいる。
となれば「また例によって ブー花嬢の世直しだな」と、ピンとくる。
特に死人が出た訳じゃあるまいし、捜査なんて不要。
やるだけ無駄、と そういうことなのである。
「んじゃ、俺はこれで……」
武留は一礼すると、山本正に背を向け歩きだした。
だが、100メートルも進まぬところで「雑賀さーん」と呼び止められ、振り返る。
ドタバタと、何とも不格好な手振り足振りで駆けてくる山本の姿があった。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
ようやくと辿り着いた山本に、武留がポツリと問う。
すると、山本は激しく肩で息をしながら、
「ハァ、ハァ、ハァ……私ね……ハァ、ハァ、ハァ……きちゃったんです……ハァ、ハァ、ハァ……ビビビッと……」
「え?」
「ハァ、ハァ……あのぉ、もしよかったら……ハァ、ハァ……なってくれませんかね? ……ハァ、ハァ……恋のキューピッドに……」
「恋の……キューピッド!?」
「ハァ……今日初めて会った雑賀さんに……ハァ……こんなお願いするのは……ハァ……図々しいと思いますけど……」
「いや、あの、それって、もしかして……」
「決まってるじゃないですかッ。それとも何ですか? もう既にいるって言うんですか? 恋人が……」
「いや……まだいないと思いますけど」
「だったらお願いですッ。恩に着ますから」
強い男に惚れる女がいるのだ。
強い女に惚れる男がいても不思議はない。
でないと、女子レスラーなんか皆 行かず後家になっちまう。
しかし、まさかこの男が……
高校の教師がだ、
あの霧島風花に惚れるとはなぁ。
別に値踏みという訳でもないが、武留は山本正への視線を上下させた。
歳は30代半ばといったところか。
中肉中背で、服装は平凡。
豊かな黒髪を7対3にきちんと分けている。
で、顔についてだが……
片頬が腫れていることを除けば、何ら特徴なし。
鼻がデカいとか、眉が太いとか、アゴが尻みたく割れてるとか、
人間誰しも何かしらの特徴があるもんだが、この男に限っては皆無。
かと言ってブサイクではないし、もちろんイケメンでもない。
良く言えば標準・平均なのだろうが、これほど特徴がないと印象にも残らない。
どこにでもいそうな顔。
別れて30分と経たぬうちに忘れてしまいそうな顔。
総じて、実在感に欠ける人物……とまぁ そんなところか。
「いや、でも、先生。恋のキューピッドっつったって……デートのセッティングくらいしかできませんよ、俺」
「何言ってるんですかッ、雑賀さん。それで充分ですよ!」
「はぁ、そうなんですか。んじゃ、次の日曜にでもデートしてみますぅ?」
「は、はいッ、是非とも!!」
善は急げだ。
武留はフェイクレザーのヒップバッグからスマホを取り出すと、さっそく霧島風花に電話した。
『ん~、どんな人だったっけ?』
やはり、影が薄い山本のことを 風花は記憶していなかった。
だが 花婿募集中というだけあって、デートの誘いはあっさり承諾してくれた。
しかも、
『何なら、今からでもいいわよ……そうだ、うちへいらっしゃいよ。今日習った料理をご馳走するわ』
これを伝えると、山本は飛び上がって喜んだ。
風花の連絡先を教えてもらうや、踊るような足取りで去ってゆく。
「急展開だな。やれやれ……」
鼻でため息をつく武留。
そして、眩しい目をして天を仰ぐと、
「にしても、暑いッ」
時刻は3時半。
陽はまだ高かった。
風も微かである。
道端の雑草が草いきれに蒸れていて、車のボンネットには陽炎が揺らめいていた。
「早く帰ろ。弁当傷んじゃうよ……」
やはり 自転車で来るべきだったと後悔しつつ、雑賀武留は家路を急いだ。