#36 緊張の顔合わせ
壁の時計はちょうど2時半を指していた。
店内の客は、多江の他には若いカップルが一組と、中年の男が3人。
日曜日としては寂しい客入りだが、ランチタイムを過ぎれば大体こんなもんだ。
そもそもGEKOは人気店という訳でもない。
知る人ぞ知る穴場なのだ。
多江はステンレス製のスタンドから紙ナプキンを数枚取ると、口周りを拭いた。
口紅を塗り直そう、と デカ尻を上げるが、すぐに戻す。
まぁ、いいか。
そんなことしたって、誰も気にも留めない。
髪も服もそうだ。
おめかししてみたところで、この体型だ。
近頃のメディアは、やたらと太った女を取り上げては もてはやしている。
だが、現実の社会はどうだ?
まったく、その逆ではないか。
見て見ぬふりされたり、憐憫の目を向けられたりする。
もてはやされるどころか、忌み嫌われてるじゃないか。
『今 巷では、ぽっちゃり好きの殿方が急増中だとか――』
はぁ!?
寝言は 寝て言えって。
デブ専の男なんて、10人中 1人いるか いないかだ、バーカ。
多江は、艶っ気のないパーマ頭をガリガリ掻いた。
塩をふったようにフケが出て、テーブルに落ちる。
それを手の甲で払うと、彼女は居住まいを正した。
「ふぅ~」
大きく息を吐いて気を取り直す。
壁の時計に目をやると、さっきより5分進んでいた。
「何だか、緊張してきたわ……」
これから会う人物を想像すると、そうなるのも無理はない。
心臓に毛が生えている多江とて、張り詰めたものを感じずにはいられなかった。
チンピラのマサから連絡があったのは、2日前のこと。
『いやぁ、昨日はえらい目に遭ってよぉ……』
それは、なかなか面白い話だった。
あのコケカキッキー教 教祖の娘が、無職の貧乏青年の部屋に押しかけて子種を奪わんと奮闘した、というのだから。
なんでも 神のお告げがあったらしく、どうしてもその青年の子を産まなければならないのだという。
けど 途中で邪魔が入り、結局 失敗に終わったのだとか。
『で、このままじゃ俺たちの面目丸潰れだろ? だからよぉ、ちょいとおめぇの力を借りてぇんだ……』
要するに、私の手コキでその青年をイカせて精液も奪取してくれ、という依頼の電話だった。
既に教祖の娘にも話を通していて、私さえよければ次の日曜日にでも決行したいそうだ。
『仕方ないなぁ。一肌脱いでやるか』
退屈しのぎに引き受けることにした。
『おぉ、やってくれるか』
自慢じゃないが……五反田の手コキ専門風俗で働いていた頃は、3年もの間 ナンバーワンの座をキープしていたもんだ。
まぁ 最終的には、容姿の劣化を理由に戦力外通告されてしまったけれど……腕の方は鈍ってなどいない。
それをよく知ってるマサだから、今回 私を頼ってきたのだろう。
ちなみに、マサとはもう10年来の付き合いだ。
行きつけのパチンコ屋でちょくちょく見かけ、世間話なんかしてるうちに仲良くなった。
一緒に悪さしたこともあるよ。
無銭飲食に、募金詐欺に、美人局……。
一時期は 同棲までしてたっけ。
『ところでさ、見返りの方は?』
『それは、姫と会って直接訊いてくれ』
『分かった。こっちは日曜で構わないけど、時間と場所は?』
『姫は、午後なら何時でもいいって言ってたなぁ。場所は、喫茶店とかでいいんじゃねぇの。大藁輪市内で分かりやすい店、どっかねぇか?』
『あるある。藁掴美駅のすぐ近くにGEKOって名のカフェバーがあるんだよ。店先に等身大のカエル人形が立ってるから、すぐ分かる』
『オーケー。じゃ、伝えとくよ』
『それはそうと、あんた入信してんの? 正式に』
『あぁ、してるよ。ヤスもな』
『で、どうなんだい? 旨みはあるのかい?』
『いやぁ、全然。まだ 俺ら、パシリ扱いだからなぁ』
『そっか。でも、教祖の娘のパシリなら そう悪かないよ。いいとこ見せりゃ出世できるじゃん』
『そうなんだよ。だからこそ痛ぇんだよ、昨日のヘマが』
『まぁ それは私が挽回してやるから、もう愚痴るなって。じゃ、切るよ……』
「ふぅ~」
再び深呼吸する多江。
壁の時計に目をやると、さらに5分進んでいた。
実を言うと……この佐藤多江もコケカキッキー教の信者であった。
入信したのは去年の夏頃。
理由は、教祖アクシャイに魅了されたから。
でもそれは宗教家としてではなく、あくまで実業家としてだ。
新興宗教というビジネスモデルに無限の可能性を見いだしたからであった。
多江はサムシング・グレートなんかに興味なかったし、そもそも神の存在すら信じていなかった。
どいつもこいつも口を揃えて「神は偉大だ」とか言うけどね、
それは大間違い。
神が偉大なんじゃないのよ。
神の概念を創った者こそが偉大なのよ。
アクシャイが来日して宗教団体を起ち上げた時はね、まったく無名のただのインド人でしかなかった。
それが今や、会員数32万人(海外も入れると87万人)を誇るカリスマ宗教家だもの。
一体どんな手を使ったのか知らないけど、とにかく傑物であることだけは確かだわ。
このカネの匂いがプンプンする組織に潜り込んで何とかステージを上げて、何とか幹部クラスにまでのぼり詰める、というのが当面の目論見なんだけどね……。
“カランコロンカラン”
玄関ドアの真鍮製カウベルがレトロな音色を響かせたのは――待ち合わせ時間より10分早い――2時50分のことだった。
白から紺碧へのグラデーションが美しいサリーを身にまとった褐色の娘が入って来ると、ほの暗い店内がパッと華やぐように感じられた。
サリーなんて、ただの1枚の長い布。
それが、イミテーション・ジュエリーやらビーズやらを並べ立て 緩やかなヒダ・たるみを出す着方をすることで、ゴージャスかつ気品あふれる装束へと化けるのだから不思議なもんである。
「これはこれは姫様、お目にかかれて光栄の至りです!」
大仰な口調で言うと、多江はアーシャの足元にひれ伏してみせた。
他客の視線が一斉に注がれる。
ファーストコンタクトをどうすべきかは、今朝からずっと考えていた。
多江としては対等が望ましい。
だが、しがない一信者が次代の教祖様と面会させていただくのだ。
やはり、平伏から入るのが筋というものだろう。
「ち、ちょっとやめてくださいッ、そんなことしなくていいですから……」
慌てて頭を上げさせるアーシャ。
その対応に、
『あら、けっこう常識人じゃないの、この子』
と、意外の念に打たれる多江。
アーシャの人格についてはマサから、
『北の将軍様の妹ほどではないけどな、イカれてるのは確かだぜ』
そう聞かされていただけに、正直 拍子抜けである。
なぁんだ、緊張なんてしなくてよかった。
靴くらいは舐めさせられるかも、と 覚悟していた自分が馬鹿みたいだ。
でも、ならば、好都合。
与し易しだ。
「ささ、姫様、座ってください。あ、何か頼まれますぅ?」
「そうですね……じゃ、アイスミルクティーを」
「マスターッ、アイスミルクティーお願い! あと、トルコアイスのてんこ盛り!」
大音声でオーダーすると、周りの客らが しかめっ面を向けてきた。
バーカウンターの奥でグラスを拭いていた店主がOKサインを掲げて応える。
「今日は、ほんっといい天気。ちょっと歩いただけで汗ばんじゃう……」
独りごつように言うと、アーシャは多江の向かいに着席した。
エスニック調のハンドバッグから取り出したハンカチを、鼻の下や首元へあてがう。
それから店内をぐるりと見回し、
「ユニークなお店ですね」
と、淡い笑みを浮かべた。
場のすべての者がポーッと見惚れているのが、見なくても分かった。
多江は目の前にいる美の塊のような生物をまじまじと見つめた。
ほぉー、これが、あのアクシャイの娘か。
なっかなかの上玉だねぇ。
こんな子に迫られたら、レズでなくたって体許しちゃうよ……。