#35 絶品の1品
藁掴美駅は、千葉~山梨間を結ぶ 東西蛇行線の駅である。
埼玉県 大藁輪市の東端辺りに位置する。
その藁掴美駅から徒歩5分の立地に『GEKO』という名のカフェバーがあった。
10坪くらいの小さな店で、バーテンダーあがりの店主一人で切り盛りしている。
カウンター席が八つに 4人掛けテーブル席が二つの店内は 常時清潔に保たれており、ウォールナットの天板なんか 鏡代わりに化粧ができるほど磨き込まれていた。
店内装飾は異質と言えた。
至る所にカエルの姿が目につく。
といっても、生きている訳ではない。
擬人化したグッズの数々だ。
ぬいぐるみに クッションに フィギュアに 時計……
ランプも 傘立ても 壁の絵も 皿の柄までもが皆 カエルなのだ。
中でも、からくり時計は見ていて心が和む。
正時になると、カエルの男女が登場してダンスを披露するのだ。
店主の制服も一味違った。
目の覚めるようなライムグリーンのサテンシャツに、黒のカマーベスト。
その右胸には、アマガエルのブローチがキラリと輝いていた。
店主の名は分からない。
皆「マスター」と呼ぶし、それで不便はないので特に聞く必要もない。
だから、誰も知らないのであった。
年齢の方も不詳だ。
でも 20代にしては老けているし、かと言って四十路を過ぎているようにも見えない。
なので、間をとって35歳としておこう。
面貌については、目が一重で眉が薄く、おまけに下膨れ、と 美男には程遠い。
だが、唯一 鼻筋が通っているおかげで醜男からは免れている。
髪は、左右共に剃り込み部分まで刈り上げて 残りを後ろへ撫でつけていた。
この店主の人柄だが、一言で表すとしたら“温厚”だろう。
口数少なく、物腰柔らか。
そして、いつも恵比須顔。
仏頂面はもちろん 真顔すら見せたことない。
そんな好人物の店主なのだが、彼にはちょっとした謎がある。
それは、アルコールを口にしないこと。
カフェバーなんてやっていたら「マスターも1杯どうぞ」ってな具合に、客から酒を勧められることが少なくない。
でもこの店主、グラスに口をつけはするものの 決して飲みはしないのである。
「あれれぇ? マスター、もしかしてお酒飲めないのぉ~? やぁ~だ、かーわいぃ~。お子ちゃまでちゅねぇ~♪」
客にそう冷やかされても、ただ照れ笑いを浮かべるだけ。
もし、本当に酒が飲めない体質だとしたら、下戸ということになる。
なら、カエルの鳴き声が店名の由来とする説――客の誰もがそう信じている――は、誤りということか?
しかし、飲み屋を経営する人間が下戸だなんて、そんなことあり得るだろうか?
やはり、飲まないよう自制しているだけなのでは?
例えば、飲んだら人格が豹変してしまう、とか。
はたまた 肝臓カッチカチでドクターストップがかかっている、とか。
それとも、単に「仕事中に酒を飲むなんてけしからん」という真摯さからなのかもしれない。
飲めないのか、飲まないのか、
いずれにせよ 常連客にとっては興味そそられるトピックだ。
まぁ でも、もし酒乱が理由なのであれば、別料金払ってでもその様を見てみたいものである。
さて、前置きはこのくらいにして本題に入るとしよう。
上述したように、この店には店主以外に働き手はいない。
もし、メニューがドリンクだけならば、たとえ計16席が満席でも1人で充分に対応できる。
だが、フードもあるとなると そうはいかない。
てんてこ舞いは必至だ。
だから、フードに関してはできるだけ手軽いものにして、品数も抑える必要があった。
で、この店のフードメニュー(デザートは除く)だが……
トースト、サンドイッチ、サラダ、ピザ、スパゲティの計5種類。
どれも、ちゃちゃっと調理できる軽食である。
ただ それ故に、味の方も平凡だった……ある1品を除いては。
その1品とは、スパゲティである。
メニュー名は『チーズ・ナポリタン』。
店主はなぜかスパゲティにだけはこだわりがあって、このチーズ・ナポリタンにはちょっとした手間や工夫が施されている。
具材はタマネギ、ピーマン、ベーコン、ソーセージ……と 普通なのだが、以下の点において他とは一線を画していた。
◆茹で上げた麺は一旦、オリーブオイルで炒める
◆ケチャップに、すり潰したトマトを加える
◆隠し味として、和風だしの素を加える
◆白ワインで煮溶かしたチーズ(いわゆるフォンデュだ)をたっぷりかける
価格は税込み1200円と少し高めだが、大盛りにしても変わらぬ1200円。
だから、二人客で一皿頼んで半分こすれば、一人600円で満腹になれるのだ。
このチーズ・ナポリタンに魅了されて常連になる者も少なくなかった。
今 テーブル席に単身陣取り、がっついている女もその一人だ。
名を佐藤多江といった。
今年で42になる。
多江は、今月頭にこのチーズ・ナポリタンに出会った。
それからというもの、3日と空けずに通い詰めている。
おかげで8キロも肥えてしまった。
「ったく、相も変わらずクソうまだわ。ちくしょうめ……」
口の周りをケチャップだらけにして呟く多江。
カウンターテーブルの奥にいる店主を密かに睨む。
自分を太らせるこの男が憎い。
でも、こんなうまいものを生み出す彼が愛おしくもある。
まさに、愛憎相半ばする想いだった。
「あ……」
最後の一切れとなるソーセージをフォークが捕らえ損ね、膝上に落としてしまう。
だが、構わず手で拾って口の中へ放り込む多江。
ベイカーパンツがケチャップで汚れたが、テラコッタ色なのでそう目立たない。
親指で擦って、不幸中の幸いね、で済ます。
「あー、食った食った……」
多江は至極満足げな顔で言うと、ひまわり柄のボイルチュニックに覆われた太鼓腹をパンと叩いた。
と そこへ店主がやって来て、ドリンクを差し出し 空き皿を下げる。
「おぉ、グッタイミン♪」
楊枝で歯間をほじくりながら多江が発すると、店主は上品な微笑で返し 戻っていった。
その後ろ姿を見守りながら、バナナオーレにストローを挿す多江。
『あのマスター、朝・昼・晩 いつ来てもいるわね。働き詰めなんじゃないの?』
GEKOの営業時間は朝9時から夜12時までだから、15時間勤務。
それに開店前および閉店後の仕込みや掃除 その他雑務なんかもあるから、計17時間くらいは仕事に費やしていることになる。
1日は24時間なのだから、もう風呂と睡眠のためだけに帰宅しているようなもんだろう。
しかも、年中無休。
盆・正月さえ 店を開けている。
それでも毎日スマイル全開で てきぱき働いているのだ、この男は。
「一体、何が楽しくて生きてるの?」と、訊きたくなる。
多江はバナナオーレを一滴残らず吸い尽くすと、小さくゲップした。
そして、カウンター客を前に華麗なシェーキングを披露する店主をぼんやり眺めながら思う。
月、いくらぐらい稼いでるのかな?
こういう男と所帯を持ったら、さぞ楽できることだろう。
なんせ “亭主元気で留守がいい”を地で行くことになるんだから……。