またね、星を見に行こう
60作目です。シリーズの二作目です。
四時限目、灯袋蛍が板書を写していると不意にチャイムが鳴った。
ああ、もうそんな時間なのか、と思いながらシャーペンを置いた。数学の担当教師が説明しきれなかった部分を早口で説明しているが、蛍は何となく聞く気になれなかった。蛍の中で勉強の時間は既に終わっていたからだ。彼女はチャイムが鳴った後に慌てて説明をする教師が嫌いだった。自ら要領の悪さを披露しているだけだろうと思うのだ。
ふと、斜め後ろを見ると、教室中央辺りの席でぼんやりした顔をしながらノートを取っている葉夏一華の姿が見えた。今日は顔色が悪くないようだ。脆弱な彼女はすぐに体調を崩すので、蛍は気が気ではなかった。
その一華の奥、窓側の席に眼を遣ると、机に腕を伸ばして突っ伏しているショートボブの少女が視界に入った。言ノ葉舞音である。彼女が授業中に寝ているのはいつものことだが、眠り方が大胆過ぎるので、蛍はいつもひやひやしていた。幸いにも一番後ろの席で、彼女の前は背が高く肩幅のある男子が座っている。教師からは上手いこと見えないのだろう。
教師が教室から出て行って、教室内には一気に気怠げな空気が流れた。教室前方の席の麻宵あせびが立ち上がって舞音の方に向かうのが見えた。彼女は舞音に何かを言っているようだったが、恐らく眠る姿勢についてだと思われた。あせびの昼休みの会話のスタートは、大抵が舞音の眠る姿勢から始まるのだ。
蛍は教科書類を鞄に入れて、財布を取り出して立ち上がった。そして、まだのんびりとノートを書いていた一華の机に向かう。
「購買行くよ」
「ちょっと待ってて。あと少しだから」
彼女は繊細な手の動きで繊細な文字を書き込んだ。どうしても消えてしまいそうなイメージが払拭できないのが一華という人物だ。例えるならば、燐葉石のように脆く儚いのが彼女だ。
「いいよ。書き終わった」
「それじゃ行こう。今日はがっつり食べたい気分なんだよね」
「いつも食べてる気がするけど」
「とりわけ今日は、ってね」
ふたりは廊下に出て、階段を下って購買に向かう。もう六月の終わりで、心なしか湿気が多いように思う。今年の梅雨は大して雨が降っていないように思うけれど、梅雨は梅雨だということだろうか。
蛍は手を団扇のようにして風を送った。彼女は暑がりで汗っかきなのだ。夏という季節が嫌いだった。
横を見ると、並んで歩いている一華は涼しい顔をしている。しかも、蛍のような半袖ではなく、白の長袖カーディガンを羽織っている。蛍は一華のこういった孅そうなところが何とも言えないけれど好きだった。
購買で蛍はカツ弁当を買った。一華はクリームパンをひとつ買っていた。今日は珍しいと思った。一華は体調によりきり、ジュースだけで昼食を済ます日さえあるのだ。
「今日は体調がいいんだ?」
「うん。いつもよりはね」
彼女は硝子細工のように微笑んだ。
やはり、彼女は美しい。
ふたりは教室に戻り、窓際の舞音の席に向かった。
「おふたりさん、お待たせ」
蛍がそう言うと、舞音とあせびがこちらを向いた。あせびは既に焼きそばパンを頬張っている。
「購買は混んでる?」
「まぁまぁだね。何か用があるの?」
「あとで修正テープを買いに行こうかなって」
「何だ、言ってくれたら買ってきたのに」
蛍はカツを口に入れながら言った。横をちらりと見ると、一華はクリームパンを机に置いたまま黙っていた。急に体調が悪くなったのだろうか。じめじめして熱っぽい廊下からクーラーが効いた教室に戻ったからだろうか。顔色は悪くはないようだが、少し気になった。
「一華、今日は体調はどう?」
蛍が訊ねようとしたら、先に舞音が訊ねた。舞音はこういった細かな気遣いのできる子なのだ。
「至って元気だよ」
一華は儚げな笑みを浮かべて答えた。
「ねぇ、次の時間って何だっけ?」
舞音が話を振る。
「ん? 次はー、体育じゃなかった?」
「そうだよ、体育。今日はプールでしょ、確か」
蛍はプールを思い浮かべるだけで心が弾んだ。
「あせびと蛍は泳ぐだろうけど、一華は?」
「私は見学かな」
「良かったー、私も見学しようかなって」
舞音が嬉しそうに言った。
「え、舞音も見学するの? えぇ、私も見学したいんだけど……」
あせびはフィッシュフライの挟まったパンを食べている。
「あせびは何処も悪くないだろう? 舞音は数日前まで風邪引いて休んでたんだから見学くらいさせてやらないと」
「うぐぅ……私も風邪引いとくべきだったよ」
あせびが何とも悔しそうに言うのが面白くて、蛍も舞音も一華も笑った。蛍はこんな何でもない会話が大好きだった。どうせ明日には忘れてしまうような、中身もないような会話だけれど、それでも宝石のようだ。宝石でできた雲のようだ。
そんな「明日」の到来さえ望めないと知ったのは昼休みの終わり頃のことだった。唐突なスピーカーからの放送、最初は聞き流そうと思ったけれど、とても聞き流せるものではなかった。
震える声で「世界は今日の夜に終わります」と流れた。
頭の中で不透明な雲が発生して膨れ上がる。でも、すぐに消える。
どうせ、きっと、悪い冗談だ。新手の避難訓練だ。そんな急に世界が終わるなんてあっていい筈がないのだから。
誰かがふっと笑って、嫌な静寂が晴れた。
そうだ、嘘なんだから笑えばいい。
避難訓練だってそうだ。体育館から出火しました……少し大袈裟に言う必要があるんだから、そんなに不思議なことじゃない。
蛍は笑った。あせびも笑っていた。一華はきょとんとした顔をしていた。舞音は窓の方を向いていて表情はわからなかった。
でも、誰かがネットニュースを確認してから空気が変わった。蛍も携帯電話を確認した。画面には信じたくない記事が表示されていた。
「地球は巨大隕石の衝突により六月二十五日の午後六時から午後十一時までの間に滅亡することが確実であると国連は発表した」
蛍は自分の顔が細かく痙攣するのを感じた。これはどう考えても嘘だとは思えなかった。教室のテレビとスピーカーからまた何かが流れ出したけれど、それらは蛍の耳を透過するばかりだった。
段々と冷静になって、帰り支度を始めた。まるで水の中にいるように音が遠く、視界は不明瞭だった。ただ、舞音があせびの机に向かうのが見えた。蛍は考える。
励ましてあげないと。きっと、怖いだろうから。
蛍は席を立ち、教室前方のあせびの机に向かい、ふたりの頭に手を置いた。そして、言う。
「終わるんだってね」
「うん、終わるんだって」
舞音は言った。その表情に悲しみなどなかった。
「あっけらかんとしてるなぁ……。私はまだ信じられないし、信じたくない。まだ冗談だと思ってるくらいだから」
あせびが苦笑いしながら言った。内心は蛍だってそうだ。どうしたって信じられないし、信じたくなかった。
「一華は?」
「ん? まだきょとんとしてるみたい」
舞音はそう言って、宙をぼんやりと眺めている一華の方に向かった。
「はぁ、舞音は気丈だね。それとも、終わることがわかってないのかな。彼女ってそういうところが鈍いから」
「そんなことないと思うよ」
あせびが言った。
「ただ、もう受け入れたんじゃないかな。明日には世界がないってことをさ。舞音ってその辺の執着ないから……。蛍はどうなの? 実際、怖かったりするの?」
「怖いよ。怖くない筈がないよ。あせびは怖いよね?」
「怖いね。でも、どうせ死ぬのは私だけじゃない。みんな、みんな、老若男女、富裕層も貧困層も誰も彼も死んでしまうんだったら、私は終わりを受け入れるくらいはできるよ」
あせびは言った。穏やかな眼をしていた。
「帰ろうか」
舞音と一華が来て言った。
「帰ろ帰ろ。帰って何するかな。私たち、あと六時間程度の命ってことなんでしょ? 何か特別なことしてみたいよね」
あせびが言う。
「蛍、彼氏とかいないの?」
「いたらとっくに帰ってるよ」
蛍は笑う。蛍は四人でいられる方がよっぽど幸せだと思う。
四人が外に出たところで舞音が言った。
「今日、最後の思い出作りでもしない?」
「いいね、そうしようか。でも、何をする? カラオケにでも行く? 買い物? 誰かの家に集まる?」
あせびが言う。彼女は既に嬉しそうだった。
「いやぁ、最後だからさ、いつもはできないことをしたいなぁって」
「いつもはできないこと?」
「そう。星を見ようよ。学校の屋上から。そうしたら、四人で揃って死んじゃおうよ。隕石が落ちてくる前に」
舞音が少し上を向いて言った。空は雲が薄く散り散りになった夏の入口の青空だった。今日は雨の匂いはしない。
「賛成」とあせびが手を挙げた。勿論、蛍と一華も賛成だ。思い出が死んで何の役に立つのかと問われれば誰にもわからない。でも、思い出が残ることではなく、思い出を作ることに意味があるのだろうと蛍はいつも思うのだ。だから、四人での世界最後の思い出作りは蛍にとってとても魅力的だった。そして、一緒に最後まで居られることも嬉しかった。
蛍は三人と別れて家に帰った。
不謹慎だけれど、心が踊っている。
地球最後の星空はさぞかし綺麗だろう。
今日まで生きていてよかったと思った。
家の門を開けて、そこに自転車を置いた。
蛍の家の庭には色とりどりの季節に合った花が咲いている。今はペチュニアやガザニアなんかが目立っている。
この植物たちも今日で死んでしまう。
でも、植物なんかの方が人間よりも根強く生きているだろうから、文明という文明が滅びた後は彼らが地球を覆うのだろう。勿論、これは地球を穿つ穴でもできない場合の話だ。
家に入ると、玄関には自分以外の家族の靴があった。父親も中学生の弟ふたりも帰宅しているらしかった。流石に世界最後の日である。
みんな暗い顔をしているのだろう、と思っていたが、リビングから聞こえるのは楽しげな声ばかりだった。どういうことだろうか、と不思議に思ってリビングに入ると、家族四人がテーブルを囲んでいた。何をしているかと思えば、大富豪だった。
「おお、おかえり」と父親。
「おかえり、姉ちゃん」と下の弟。
「大富豪やってたのよ」と母親。
「へぇ、楽しそうだね」
「姉貴もやるか? 世界最後の大富豪」と上の弟。
「いいね。じゃあ、一戦だけ」
「ん? 何か予定があるのか?」
「そう。友達と星を見に行くの」
「ロマンチックだな。ああ、さぞかし星は綺麗だろうね。隕石が落ちる前に心中を図るところが多いそうだ。夜になれば、街は普段とは違って真っ暗かもしれん。星がよく見えそうだ」
父親は微笑みながら言った。
「うちはしないよね?」と下の弟が不安そうな顔で訊ねた。
「勿論だ。残された時間を楽しみたいからね。時は金なり。人類史で今以上に貴い時はないんだよ」
父親は笑う。終末でも父は父なんだな、と蛍は思った。蛍としても、先に死ぬようなことはしたくなかった。ギリギリまで世界を、掛け替えのない人たちと楽しみたいからだ。
「はい、姉貴」
上の弟がカードをシャッフルして配っていた。
「ありがと」
「さぁて、蛍も来たところで四戦目だね。今は母さんが大富豪だ」
「大貧民は?」
「……私だ。だが、成り上がってみせるぞ。死ぬまで大貧民は嫌だからね。大富豪になって夢を見させてもらうぞ」
久々の大富豪だったし、久々の家族団欒だった。仕事で忙しい父親と反抗期の弟たち。こんな楽しい時間を齎したのが誰も彼もを殺す隕石だなんて皮肉な話ではないか。
結局、蛍は二戦分の大富豪を楽しんだ。一戦目は父親が大富豪になった。しかし、二戦目で都落ちルールにより大貧民に没落した。なお、大富豪になったのは蛍だった。
「蛍の勝ち逃げってわけだ。あぁ、まぁ、まだ時間はある……返り咲いてみせよう」
「ふふ、頑張ってね、お父さん」
「ああ、メメント・モリ、いや、カルペ・ディエムの精神だな」
「何それ?」
「今を楽しめってことさ」
父親は煙草に火を点けながら言った。
蛍は自室に戻り、ベッドに仰向けになった。そして、静かに泣いた。
終末が来て誰もが死ぬ。そんなことは充分すぎるほどにわかっている。でも、別れることの辛さは乗り越えられない。死んだ後に逢えるなんて楽観的な考え方を蛍は持ち合わせていなかった。きっと、虚無だ。魂もない。本当に何もなくなるのだろう。
一階廊下の柱時計が四時になったことを告げた。
蛍は一時間半ほど寝ていたらしい。
約束がある。行かなくていけない。
彼女は簡単に身支度をして部屋を出た。服装は制服のままだ。違うのは、いつか舞音がプレゼントしてくれたイヤリングをしていることだった。明るいピンク色で宝石を真似たデザインである。自分には似合わないからと、これを着けて外に出たことなんてなかったが、今日だけは着けていく。着けていかなければならないように思った。
一階に降りてリビングに入った。
今度は四人でテレビゲームを楽しんでいた。こんな光景は見たことがなくて、思わず、涙が出そうになった。
「お、行くのか」
「うん。行ってくる」
「そうか。行ってしまうのか……ああ、精一杯楽しんでこいよ。本当に最後かもしれないんだからな」
「うん……」
蛍は手を振ろうと片手を上げたが、父親が制止した。
「ダメだ。別れの言葉など不要だよ。明日があることに期待しなさい。確率はきっとゼロじゃない。私たちはそれに期待しているから、死んだりしないんだ。信じる者は救われる、そういうことだ」
「うん……」
「じゃあ、気を付けて行っておいで」
「うん」
彼女は拳を握り締めて言った。
「行ってきます!」
何だか、明日がある気がしてしまった。
彼女は靴を履いて外に出た。
そして、涙を流した。
ゼロじゃない……かもしれない。それはどんなに低い確率だろう。百メートル先の針の穴に糸を一発で通すくらいかもしれない。
そして、彼女は歯を軋ませて唸るように呟いた。
「ごめんね、私、死ぬんだ」
そう。約束してしまった。
星を見て、その後、みんなで死ぬこと。
もし明日があったら、どうしよう。
いっそ、明日なんか来なければいい。
蛍の足取りは重かった。
自転車には乗らなかった。理由を問われれば困ってしまう。後付けするなら、世界が終わるから、である。
普段は忘れているようなアスファルトの粘るような感覚が新鮮だった。知らない家の塀の染み、庭先で咲く鮮やかな花、干しっぱなしにされた洗濯物。速度が違えば景色は違う。
道路で小学生くらいの子供たちが遊んでいた。どうやら地面にチョークで円を描いて、ケンケンパをしているようだった。随分とシンプルで古風な遊びをしていると思った。そして、微笑ましい景色だった。
車の通りは殆どなかった。自転車でさえもだ。途中、死体は見た。きっと、飛び降りたのだろうと思った。死体の頭から激しく血が流れていた。異常な光景ではあるが、蛍は何も思わなかった。
そうだ、どうせ死ぬのだから、と思えば、死体なんて珍しいものではなくなる。最早、生きている人も死んでいる人も大差はない。いや、元からそうだったのかもしれない。
彼女は死体の横を通り過ぎた。
信号が赤だった。
初めて信号を無視した。
別に何も思うことはなかった。
誰かの家の門にあったミラーで自分の顔を見た。
眼の下に赤い痕があった。涙痕に違いなかった。
学校には、あと五分足らずで着いてしまう。こんな顔をみんなには見られたくなかった。だから、彼女は近くの公園の水道で顔を洗った。
空は少し赤らみ始めていた。
雲がおどけて浮かんでいる。
前も後ろもない。
顔を乾かすついでに、少し迂回してから向かうことにした。公園を入った方とは逆から出た。よく知らない道だった。でも、迷うほどではないと思った。学校の場所は当然ながらわかっている。
前方に倒れているものがあった。
人だった。
大学生くらいだった。
飛び降りたのだろうか、と思ったが、付近に飛び降りるような場所はない。何となく裏返してみると、腹部から大量に出血していた。そして、その腹部の創傷は明らかに人為的なものだと直感的に理解した。
刃物を持った誰かが暴れている。
そう理解した。
こんな終末のカオスの中である。
頭のネジが外れた奴が湧いたって何ら不思議ではない。自分だって少しネジが緩んでいるのだから、と蛍は考える。
ここで引き返して正しい道を行くべきだろうか、と思った矢先、前方で悲鳴が聞こえた。咄嗟に蛍の足は駆け出した。自分でも思う。面倒臭い質をしていると。
世界の最後に誰が誰に殺されようと知ったことではない。どうせみんな死ぬのだから……そうわかっていても身体が動いてしまう。それが蛍という人間だった。
悲鳴を上げたのは小学生高学年くらいの女子で、男に刃物を向けられていた。よくある出刃包丁で、既に赤く染まっていた。
蛍は男に向かって勢いよくダッシュし、ジャンプして蹴り飛ばした。男が短く「うっ」と漏らして吹き飛んだ。
「大丈夫? 逃げて」
女子は「ありがとう」と言って走って行った。
「おいおい、何をしてくれてんだ……あれは殺さないといけなかっただろう? お前、人に見えて、まさかあっち側とか言うなよ?」
起き上がった男が言った。
「何を意味わかんないこと言ってんの。世界が終わるからって狂ってんじゃないよ!」
蛍が怒号を飛ばす。
「んだと、このクソガキ」
男が飛び掛かってくる。
蛍はそれをさっと避ける。
明らかに自分の方が劣っていることはわかっている。
武器もないし、相手は男だ。
回避するしかない。でも、逃げるわけにはいかない。自分を追ってくることが容易に予想できるからだ。
なら、戦って、相手をどうにか打ち負かすしかない。この際、殺したって誰も文句は言わないだろう。
蛍と男の間には五メートルほどの距離があった。
男は駆け出し、包丁を振り翳した。しかし、そのモーションがあるお陰で幾分か避けやすかった。
恐らく、十回は避けた。
心拍数が上昇する。
刺されてのたうち回る姿が浮かんだが、すぐに消した。
そして、新たなイメージを浮かべる。
浮かべたのは、屋上。みんなで仰向けになって眠っている姿。みんな幸せそうな、満足げな顔をしている。死ねて本望であるという顔だ。
だから、ここでは死ねない。
ふと、男の視線が移動する。
それは蛍よりも奥を見ているようだった。
「見つけた」と男は言って、駆け出した。あまりに急な突進に蛍は動けなかった。男の包丁が蛍の腹部に突き刺さった。
「……」
一瞬のことで声も出なかった。
「お前は後回し。どうでもいい」と男は言った。男はそのまま駆け出し、何処かへ行ってしまった。
蛍はアスファルトに倒れ込んだ。
痛い。
熱い。
痛い。
呼吸が難しい。
苦しい。
吐きそうだ。
心臓の音が聞こえた。配慮のない重低音だった。
痛い。痛い。痛い。
地面が真っ赤になる。
全部が自分の血なのだ、と思うと気が遠くなった。
感覚的に悟ったことがひとつだけある。
自分は死ぬ。
隕石とかじゃなくて。
みんなで一緒にとかじゃなくて。
この誰もいない路地のアスファルトの、自分の血のシートの上で、鋭く熱い痛みを味わいながら、恐らくは大量の失血で。
ああ、虚しいな。
蛍は心の中で自分を嘲る。
あんな奴に構わなければよかった。悲鳴なんか無視すればよかった。そうすれば、舞音とあせびと一華に会えたのに。
みんなで一緒に星を見て、みんなで一緒に死んでしまえたのに。
……。
……。
蛍は身体を動かす。痛みがついてくる。でも、動かせないわけじゃなかった。無様だけれど、少しずつ少しずつ、蛞蝓みたいに前に進める。どうせ死ぬなら、少しでもみんなに近いところで死にたいと思った。
少しだけでいい。
少しだけで。
ゆっくりと、地を舐めるように進む。
ゆっくりと、死を引き摺るように進む。
自分でも惨めだと思う。
臓物が飛び出そうに思える。
気が遠くなる。
意識が薄くなる。
まるで夢のようだ。
舞音が笑っている。早くおいでと言っている。彼女の声は聞こえなかったけれど、そう言っているようだった。
あせびが手摺に凭れてジュースを飲んでいる。長髪が風に揺れている。自分も彼女のように女の子らしい長髪が似合う人間だったなら……と何度思ったことだろう。
彼女はこちらを見て微笑んだ。
遅いよ、と言ったようだった。
ごめんごめん、と蛍は言った。
あせびはまた微笑んだ。
屋上で体育座りをしているのは一華だった。蛍は彼女の儚い雰囲気が羨ましかった。彼女のようにルーズサイドテールになるまで伸ばしてみたかった。もしかしたら、似合っていたのだろうか。自分は長髪は似合わないとずっと思ってきた。がさつだとも思っていたし、いっそ、男に生まれればよかったとも思ってきた。
一華がこちらを見て優しく微笑んだ。
飛来した流星から飛び散った星の子供のような笑顔。
どうして、そんなに優しい顔ができるのだろう。
どうして、どうして……。
これは嫉妬ではない。羨望である。
舞音が蛍の横に立った。長身の蛍と低身長の舞音では優に十センチは差があるのだ。蛍は舞音の頭に手を乗せた。彼女が笑った。とても愛らしい表情で。蛍は舞音の笑顔ほど可憐なものはないと思っている。世界で一番幸せそうな笑顔を見せてくれる。
イヤリング、してくれたんだね。
舞音が言った。
蛍は照れ臭そうな顔をする。
実際、ちょっと恥ずかしかった。
ありがとう。とっても、可愛いよ。
舞音が笑顔で、蛍の大好きな笑みで言った。
あせびと一華が来て、似合ってると言ってくれた。
意外とピンク系もいけるね、とあせびが彼女らしい感想を述べた。
蛍は心の奥が熱くなって、込み上げるものがあって、涙を流した。人生で最も大粒の涙だったと思う。
心の奥で生まれた熱が涙になって流れ落ちる。涙も熱かった。
舞音が、どうしたの、と心配そうに蛍の顔を覗き込んだ。
何でもないよ、と蛍が言う。
まぁ、世界最後だからな、とあせび。
彼女は手摺に向かい、見ろよ、と言う。
蛍が見ると、父親が言っていたように、街が暗かった。
続いて、あせびは上に指を向けた。
蛍が上を向くと、そこには白や青や赤の星々が夜空を埋め尽くさんと灯っていた。幾つかの流星だって見えた。まるで世界最後なんかではなく、宇宙最後のように思えた。きっと、宇宙の何処かで罅ができて、段々と剥がれ始めたのだと。
美しい。
涙なんて止まるくらいに美しい。
鮮やかだ。
あまりに鮮やかだ。
蛍は歩いて屋上の中央に向かった。
そして、見上げた。
ああ、星だ。星だ。
無数の光が地球に照準を合わせたように光っているじゃないか。
彼女が星空を見上げていると、横に舞音とあせびと一華が来た。
綺麗だね、と舞音。
フィナーレだからね、とあせび。
一華はいつものように黙ったままだったけど、表情は明るかった。
世界最後っていいものだね、と蛍は言う。
こんくらいじゃないと死に損だよ、とあせびが悪戯っぽく笑う。
それもそうだ、と蛍は言う。
これが永遠ならば……と蛍は考えて、その考えを取り下げる。永遠でないから美しいのだ。花火だって、命だってそうだ。一瞬の輝きに人は美しさを見出だすのだから。
そろそろ、準備しようね、と舞音が鞄から睡眠薬を取り出した。
ひとりひとつ、致死量の薬を服用する。
そして、みんなで屋上に横になった。
一番長身の蛍を軸に四人はくっついた。
温度が、消えゆく温度が愛おしい。
ぼんやりしてきたよ、とあせびが言う。
私も、と蛍。
楽しかったね、今まで。
舞音が途切れそうな声で言った。
一華は黙ったままだったけど、考えていることは同じだろう。
もし明日があったら……と言おうとして、躊躇した。
そんなこと考えるべきじゃないのかもしれない。
でも……。
蛍は言うことにした。
もし、明日があったら、また集まろう。
賛成だよ、とあせびが言った。
うんうん、と舞音。
私も、と珍しく一華も。
じゃあ、またね、星を見に行こう。
そう言って、返事を聞く前に蛍の意識は沈んでしまった。
さよならは言わない。
だって、明日があるかもしれないから。
明日があるかもしれないから。
明日が……。
エラー。
信号消失……。
信号消失……。
信号消失……。
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