姫の鳥籠
町まで出かけることを考え、それに連想される諸々を思い浮かべていたアイザックは、天井の方に向けていた視線を目の前にいるテオへと戻した。
「……そういえば馬が一晩放ったらかしでした」
テオも本当だといった表情になって、その後に口の端を片方だけ持ち上げる。
「まだ屋敷の裏手まで行ってないですが、厩舎くらいはあるでしょう。そこまでの草もなんとかしないと。買い出しはそれからでも?」
大きく頷くと、テオは指を折り曲げて手をくるりと回す。
「それはどういう意味ですか?」
ゆっくりもう一度同じ動きをすると、テオはペンを取って紙に意味を書き出した。
『手伝う』
「……あー。虫がけっこういますし、蛇も見ましたから……」
『昨日からみんなと一緒に住んでる』
「はは……確かにそうですね」
草をかき分けながら庭をぐるりと回るよりは、屋敷の裏口から外に出た方が楽だろうという考えは正しかった。
裏手にある扉を開けると、草の向こうにそれらしき建物がいくつか見える。一番大きな屋根がある建物が厩舎のようだ。
「足場を作るまで少し待っていてください」
アイザックは肩紐に頭を通して、大鎌を構えると慣れた様子でそれを振り回す。
実際に鎌を使ったのは今日が初めてだが、午前のうちにコツは掴んでいた。
アイザックが薙ぎ倒していった草を最初は集めていたが、すぐに持ち切れなくなったので、テオは途中で脇の草を踏み倒してその上に抱えていたものを放り投げた。
「テオ。いいですよ、そんなことしなくても。後で私が……」
テオはむっすりと不服そうな表情になって『手伝う』と手を動かす。
厩舎までの道を作って、その周りも少し刈り取るのにあまり時間はかからなかった。
かからなかったが、テオがせっせと作った草の山はかなりの大きさになっていた。
「……あっちの小屋は道具置きですかね」
滴る汗をシャツの袖で拭いながら、アイザックがそちらを見ている。
屋敷内は家財が見た限り手付かずで残っている。ならば物置にも道具がそのままなのかと、握っている大鎌を見下ろした。
「……もしかしてアクセレーベンに戻らなくても道具があそこにあるのでは?」
『見に行く』
笑いを堪えながらテオが合図を送っている。
そこは予想の通りの物置き小屋で、中には大工道具や庭づくりの道具が置いてあった。
救いだったのは、鎌などが錆びてすぐには使えない状態だったことだ。
取りに戻ったのは無駄ではなかった。
「テオ? ここの持ち主はディナルド様ですか?」
『今は』
「前は違うと?」
『はい』
それ以上の話は込み入ったことになりそうな気がする。テオに手で示されても難しいことは読み取れないので、アイザックはこの話題を後に回すことにした。
テオは庭道具の入った木箱をかき混ぜて、鉄の爪が三本ある、手持ちの鍬を振り回していた。
「やる気があるのは素晴らしいですけど、それじゃあいつまでたっても終わらなそうですね」
そうかとすぐに納得した様子で、テオは鍬を元に戻して、壁に掛かっている大きな鍬を指さした。
「……庭を作れる人を探してきます」
『手伝う』
「………………馬を呼びますね」
小屋から出てアイザックは手袋を外し、指笛を吹き鳴らす。
すぐにがさがさと草をかき分けて馬が歩み寄ってきた。鞍や鎧に千切れた草がたくさん挟まっている。
それを見て馬具も外さずそのままだったことも思い出した。
テオも同じことを考えたのか、挟まった草を取り除きながら、よしよしと馬の首を撫でている。思い付いたように厩舎に走っていくと、ブラシを片手に戻ってきた。
「……何でも揃ってますね」
『変な家』
「おっしゃる通りです」
馬の世話はテオに任せることにして、アイザックは厩舎の中を覗いてみた。
何もかもがその時使っていたままに残っているように見える。時間だけが経過して、古びて薄っすらと埃が積もっていた。
寝藁も古そうだったが、無いよりはマシだろうと軽く掃除をして寝床だけは整える。
買い出しに連れて行った後、今夜は屋根のある場所で寝かせてやれそうだ。
「テオは屋敷に戻って休んでください」
顔を顰めているので、ではと言い直した。
「温室の掃除をしますか?」
『はい』
「あまり無理はしないでくださいね」
唇の先を尖らせてふいとそっぽを向く。その仕草が可愛らしく感じて、思わずふと笑い声が漏れた。
「食料を買って庭師を探してきます。可能なら明日からでも来てもらうように手配しますが、それで良いですか?」
そっぽを向いたままうむと頷くと、行ってこいと手をひらひら振った。
「私が帰ったら、外で食事の準備をしますから手伝っていただけますか?」
ぱっと表情が変わって、テオは嬉しそうににこりと笑った。『手伝う』と手を動かす。
「はい。では行ってまいります」
厩舎から表門まで草を刈るのは時間がかかりそうなので、アイザックは馬を連れて草をかき分けて歩いた。
屋敷のある丘の上からは町を見下ろすことができる。
先日通り抜けた時に様子は見たが、上からでもその印象は変わらない。町の中心を貫く通り沿いに商店が並び、その後ろ側は住宅が多い。
町の周囲にも農地を挟んで小さな集落が点在している。
よくある田舎の風景だ。
必要最低限のものは揃っているが、選びしろはほとんどない。他所からやってくる人もそれほどなく、農業とちょっとした手工業で成り立っている。
大々的な観光や地場産業もないような、町の中だけで人々の暮らしが完結しているような、そんな場所にアイザックには見えた。
町に入って先ず出会った人に食料品店の場所を尋ね、その食料品店で庭仕事をしてくれそうな人物を聞いてみた。
買い物を終えて、教えてもらった人物の家を訪ねる。
紹介されたのは気の良さそうな壮年の男性だった。
「あの丘の上のお屋敷なぁ」
「ああ。頼めるだろうか」
「新しくあそこの主人になったのかい?」
「いや、主人は別の方だが」
「ご主人はどんな方だ」
「何故そんなことを聞く」
「いやなに……何年か前までは、領主様がお暮らしだった。あんたの主人が領主様かと」
「その領主様は今どちらに?」
「それが、今は別の方に代わったらしいが、どなたになったのか、名前は誰も知らないんだ」
「あー。……貢納などはどうなってる?」
「役場がきちんと取り立てにくるよ。税は前よりずいぶん軽くなったからみんな喜んでるな」
「なるほど」
ディナルドがあの屋敷の持ち主ならば、新しい領主もまたそうなのかもしれない。
それならば名を明かせない理由も、貢納が軽くなった理由も腑に落ちる。
アクセレーベンは国の端に広大な領地を持っていたはずだ。飛び地の小さな領地だろうが、派手にしていては何かと周囲に波風も立ちやすいだろう。
「前の領主様はどうされたかご存知か?」
「それが……」
周りに人の姿は見かけないが、こそりと周囲を憚るように頭を寄せると、声を抑えて話し始める。
「ある日を境にぱったりと誰の姿も見なくなったらしい」
「そうか」
「そうか、ってあんた。町じゃあよくないことがあったんじゃないかって噂になってるんだ」
家財も何もかもそのままな理由はこれで説明がつきそうだ。
何があって前の領主が姿を消すことになったのか、その辺りもディナルドが知っているのだろう。
屋敷の中を見た限りでは、あの場で事件や事故があったように思えない。
よくないことなのか、そうで無いのかは、町での不確かな噂話を聞くよりも持ち主に直接聞けばいい。
「幽霊でも見たのか?」
「いやぁ。俺はそんなもんは信じちゃいないが、若い連中は違う。特に子どもはな……」
「はは。まぁそうだろうな」
「ウチの息子も肝試しだなんだってな」
「まぁ、あなたが来てくれればただの噂だと証明できるだろう」
「そうだな、行かせてもらおう。末の息子を手伝わせてやることにするよ」
「それはありがたい」
「仕事は明日からで構わないかね?」
「よろしく頼む……そうだ、ランプ用の油を売っている店を教えてくれないか?」
踏み台に上って手が届く辺りまでの硝子を拭き終えて、テオはそのもっと上を見る。
棒か何かを使えばある程度までは届きそうだが、さらに天辺まではどうしていいのか分からない。
諦めるべきかと頭に浮かんで、ではどうやってこの温室を作ったのかと考えた。高い場所に硝子を嵌め込めるのだから、そこをきれいに拭けない訳はない。
ふぅむ、と息を吐いて、息しか出ないことに肩を落とした。
いつもなら三日もすればがさがさでも声は出ていた。それが今回はそのがさがさの気配すらない。喉を押さえて振動を確かめてみても、それは震えず虚しく空気だけが通り抜けて終わる。
ちと大きく舌打ちし、指を折ってあの日からを数えて、五日を折り返したところで指を伸ばすのを止めた。
焦って声が出るならとっくに出ている。
考えたところで出ないものは出ない。
細かいことまでは無理でも、必要なことは伝える手段があるし、今はそれで事足りる。
何度も考えた『気楽に構えるしかない』を繰り返して、持っていた雑巾を木桶に向かって放り投げた。
温室を歩き回って今後のことを確認する。
屋敷の外のことは誰かを雇ってきれいに整えてもらう。
屋敷の中を切り盛りするのは、ディナルドが誰かを寄越してくれる。
それまでは自分で何とかするしかないが、アイザックはあまりあれこれさせようとしない。
私の住む、私の新しい家なのに。
テオはふんと息を吐いて、中央に据えた円卓に向かう。
卓の上にある紙を見下ろしながら椅子に腰掛けた。
姫様の仕事でもするべきかとペンを手に取った。
転移陣は扉を開けると相応の魔力を使うことになる。使えば陣の耐久力が落ちるから一日一往復と使用が制限されている。
それならと小さな紙切れに用件を書いて、テオは扉に向かった。
開かなければ違うはずだ。
少しだけ魔力を流し込み、どんどんと何度も扉を叩いて、その下の隙間に紙片を滑り込ませた。
しばらく待って普通に扉を開くと、中はアクセレーベンではなく、こちらの部屋だ。
滑り込ませた紙片はそこには無い。
にやりと笑い天井に向かって両腕を突き上げる。
思った通りなら、紙切れだけがアクセレーベンへ行き、日暮れに合わせて今度こそあちらへの扉を開けばいい。
ふふんと笑って、テオは近くにある細い階段を駆け下りた。裏口から外に出て、アイザックが帰るまで厩舎の周りで草を引っこ抜くことにした。
「テオ……庭師を頼みましたから、そんなことはしなくても……」
帰ってひと言目がそれだったので、テオは分からなくても構うかと思ったままを手で示した。いくつか教えていない言葉も混ぜたし、ホレスならクソ口が悪いと言いそうな言葉も混ぜたが、アイザックは困ったような顔をしただけだった。
「……全部は分かりませんでしたが……確かにこの屋敷はテオのものです。だからといって、ひとりで全部をどうにかしようというのは、かなり難しいのでは?」
何となく伝わったことに、テオは苛立ちが収まっていく。
眉間にしわを寄せて、両手をぶらりと下げた。
アイザックが言うことはごもっともなご意見だ。
そして自分にできることなど大して無い。
「根を詰めて身体に障ってもいけませんし」
手に付いた土を払われて、そのまま手を引かれ、裏口から厨房に連れて行かれた。
アイザックがポンプを漕いで水を出すので、素直に手を洗う。
昨夜のうちにディナルドがきれいな水が出るまでにしてくれたのを思い出して、心がくしゃりと音を立てる。
教えてもらって、掃除してもらわなければ、きれいな水は出ないことすら知らなかった。
項垂れて手を洗っているテオの顔を覗き込むように、アイザックは顔を傾ける。
「荷物を運ぶのを手伝ってくださいますか?」
小さく頷くと、頭の上でアイザックが笑った気配がする。
「その後は庭の草の無いところで石を組みますよ」
テオが見上げると気配の通りにアイザックは笑っていた。
「石を組んで竈門を作るんです……けど。本当に野営の時に作るものでいいんですか?」
それはとても楽しいことのように思っていたので、アイザックと同じように笑って頷いた。
「お腹は膨れますけど、美味しさはお約束できませんよ?」
使えそうな石を探し回って、小さな火が囲めるほどに組んでいった。アイザックが教えてくれた通りに準備を進めて、厨房で鍋を探して水を汲み、暖炉用の薪を見つけたので、小さく割って火を付けた。
そうしている内に、もう陽が落ちようとしている。
テオがはと顔を上げて、鍋の前ですくと立ち上がる。
「どうしました? テオ」
薪を細く割っているアイザックに、付いて来いと合図を出す。
テオはそのまま駆け出して、大扉のある出入り口ではなく、一番近い鳥籠の温室の小さな窓を潜り抜けて屋敷に入った。
ぎゅうぎゅうと身体を押し込んで、アイザックもその窓を潜ってテオの後を追う。
二階に駆け上がり、陣に少しだけ魔力を流して、扉を外からどんどんと叩く。
すぐに内側から同じように叩き返す音が聞こえた。
「……え。え?! 中に誰か?!」
今度は必要なだけ魔力を注いで、テオは扉を開ける。
内側はアクセレーベンのテオの部屋で、目の前にはホレスが立っていた。
腕には革製の書類綴じを抱えている。
「考えたな、ブスのくせに」
「ホレス?」
「おーう。今朝ぶり」
ホレスが渡してくる書類綴じを受け取ると、テオはくるくると手を動かした。
「は? やめとくわ。どうせ大したもん食えないんだろ?」
どうなんだと言いたげな顔でこちらを見たので、アイザックはにやりと笑い返す。
「庭で肉を焼くぞ」
「うわぁ……生活水準の低さ」
「低くない。煮た野菜も添えよう」
「衣食住がもっとまともになってから誘ってくれ……他に何かあるか?」
テオが手を動かすと、ホレスはああと返事をする。
「……まだ報告待ちだ。なんかあったらちゃんと知らせるから大人しく待ってろ」
『分かった』と返して、テオは短い息を吐き出した。
「明日も同じ時間にな。必要なものは今日みたいに知らせろ……ていうか、たまたま近くを歩いてた奴が居たから良かったものの」
くくと笑っているホレスに、手をひらりとさせる。
「そりゃ怯えるだろ、俺だってその場にいたらビビるわ」
ふふと笑うと『じゃあまた』と合図する。
「おう、またな。さっさと美味いもの作れるようになれよ?」
テオのおでこをぴしゃりと叩いて、その手でアイザックに手を振った。
ホレスの方から閉じた扉の前で、ふたりはしばらく静かな廊下に佇む。
おでこを覆っているテオの手を外して、アイザックはそこをよしよしと撫でた。
「何を受け取ったんですか?」
書類綴じを開いて差し出されたものを覗き込む。以前に見た、姫様への手紙の束と、確認と裁可の要る書類の束だった。
「貴女がすべきことでしょうか?」
『まだ姫様』
「テオ……」
『姫様が行くまで』
「そうですか……どうやってホレスと連絡を? 昼間のうちに扉を使ったんですか?」
扉を叩いて小さな紙切れを下に滑り込ませたのだと、身振りだけで教えると、アイザックはなるほどと大きく頷いた。
一方的ではあるが、連絡を送れるのはこれで実証された。ずいぶんとやり取りでの手間が省けるように思える。
「……ではさっきの続きをしましょうか」
薄っすら塩味に茹でた野菜は食材そのままの味が生かされて、焼いただけの干し肉は適度に脂が落ち、火で炙ったパンは外はかりっと中はしっとり香ばしい。
外で食べたので格別に美味しかった。
その夜は鳥籠の温室で、毛布に包まって、アイザックから屋敷の噂と幽霊の話を聞きながら眠った。