姫と鳥籠
夕暮れには地図にあるシャンスウェイトに辿り着くことができた。
人々の多く住むちょっとした町から少し離れた小高い山の上、木々に囲まれた、忘れ去られたような場所にぽつりと建つ。
馬から降りてテオの様子をよく見ようと、アイザックは横に並び立って、フードに隠れている顔を覗き込むように身を屈める。
視線に気が付いたテオはアイザックの方に顔を向け、フードを頭から外すと、口の片方をにやりと持ち上げる。
アイザックも薄く笑い返し、とにかく顔色は悪くなさそうだと軽く安堵の息を吐き出した。
目の前には門扉が閉ざされた状態でそこにある。頑丈そうなというよりは、瀟洒なという雰囲気だが、所々に繊細な手工に見違えるような鉄錆が浮いていた。
外から押せども扉は開きそうにない。
内側から緑が押し返している。
テオの背丈と変わらない程の雑草が柵の間から溢れていた。
テオは懐から鍵束を取り出すと、中から合いそうなものを探して、錠前を外す。
ぐるぐる巻きの鎖も取り去って、気にする様子もなく、自分が滑り込めるだけの隙間を押し開けてぐいぐいと中に入って行った。
すぐに草に埋もれて姿が見えなくなったので、アイザックは慌てて後を追う。
後ろに馬がいたのを思い出して、力任せに馬が通れるだけ門を開け、取り敢えず敷地内に入れるだけ入れて、自由にしろと尻を叩いた。
がさがさとすぐに馬の姿は見えなくなる。
「テオ?」
先の方で小さく草を分ける音、ひらひらと振られる手だけが見えた。
アイザックは大股でそちらに向かう。
ふたりは黒い影にしか見えない建物の方へ向かって進んで行った。
しばらく進んで三段ほどの段差に上がると、そこだけは草が生えていない。
建物正面の扉の前にやって来て、そこから対象に見える左右に頭を巡らせた。
日暮れ時では満足に見渡せないが、端の方は遠くに見える。
石造りの立派な『屋敷』と呼べるような建物だ。
テオは再び鍵束から、一番ごてごてと装飾された鍵を選んで、鍵穴に差し込む。
難なく回して、両開きの扉を片方だけ開けた。
ちょっとした玄関広間にはそれなりの調度品が揃っている。
荒れてはいないが、埃っぽさと随分長い時間そのままだっただろう、動かない空気が満ちていた。
アイザックが想像したよりも大きな『退職金』で、この規模の屋敷ならかなり気合いの要る『お掃除』が必要だ。
二、三歩先にいるテオが、その場でゆっくりとしゃがみ込んで小さくなる。
アイザックはテオの隣に同じように屈み込み、床に膝を着いた。
門扉の前に立った時点から溢れていたうんざりと、草をかき分けながら一歩進む度に増したげんなりにどう対処して、なんと声を掛けるべきかと顔を覗く。
テオは両手で顔を覆って、小刻みに震えていた。
すぐに勢いよく息を吐き出して、自分の膝をびしびしと叩き始めた。
傷に響くのか、片方の手は脇腹を押さえている。
「…………面白いですか?」
『大きい』と手で合図を返して、横にいるアイザックを拳でぐいと押す。
殴ろうとしたのだが、きっと笑い過ぎて力が入らないのだろうと、自分の腕に当たっているテオの小さな拳を見下ろした。
「立派なお屋敷ですね……テオの思った感じと違った、ということですか?」
『はい』とまた『大きい』と繰り返し、膝を打って笑っている。
「貴女が楽しいのなら良かった」
うんざりはしているのだが、それを表に出せばテオにここから帰れと言われるのは明白。
隣で小刻みに息を漏らしているテオに釣られて短く笑ったが、アイザックの顔は困ったままの形を保っていた。
ふたりは屋敷の一階部分を探索して、何も見えなくなる前に辛うじてランプを見つけ火を灯す。
中にあった燃料は古いものだろう、炎は不規則に揺れている。
いくつ部屋を覗いても、どこも埃と淀んだ空気があるだけだ。
それが分かったのか、テオは全ての扉を開けることはなく、早々と階段を見つけ上階に行った。
使用人が使うと思しき幅の狭い階段を上り、そのすぐ脇にあった扉の中を確認する。
小さな部屋は物置きで、壁の両脇は棚、雑多に色々な物が置かれていた。
そこをさっと見渡すと、テオはその隣の扉を開ける。
こちらは質素な使用人の使う部屋に見えた。
「ここにしますか?」
テオは小さく頷くと、廊下側で扉を閉じて、懐から紙片を取り出した。
扉の中央に貼り付けるように片手で押さえて、ぴたりと動きが止まる。
紙片には緻密な線で魔術の陣が描かれていた。
「……私が発動させましょう」
陣に魔力を流し込めても、発動には言葉が必要だ。声の無いテオはだから動かなくなった。
テオの小さな手の上にアイザックは手を被せて、発動の呪を唱える。
小さな陣は光を発し、扉と同じ大きさに広がると、表面を覆って染み込むように消えた。
テオは軽く肩を竦め『ありがとう』と手を動かす。
『どういたしまして』と手を動かすと、にこりと笑顔が返ってきた。
カークストウのプリシラからもらった陣は、簡易的な転移陣で、それはアクセレーベンのテオの部屋に繋がる。
簡易的なので、使用に制限がある。
ひとりが一日に一往復。
それ以上は陣に負荷がかかり、すぐに使いものにならなくなると厳重に注意ももらった。
「ではテオはアクセレーベンに帰って休んでください」
アイザックの言葉に大きく手を振ると、テオはびしりと人差し指を向けた。
「いえ、私は」
手を引かれて、その上に指で文字を書かれる。
『重い』
『道具』
『食料』
『たくさん』
ほぼ身ひとつでここまで来たので、今この時点からどうしようもない。
あちらで休んでは欲しいが、確かにテオに沢山のものを集めて運ばせるのも心苦しい。
「では、私が色々揃えてすぐに戻ります」
アイザックがあれこれ必要そうなものを思い浮かべ、いかに早く効率よく戻るかを考えながら扉を押し開ける。
テオの部屋の中、目の前には満面の笑みのディナルドが待ち構えていた。
「思ったより早くてびっくりしちゃった!」
「え?!…………ちょ!!」
アイザックは取手を握る手を引かれて、部屋に引き入れられ、ディナルドが場所を入れ替わった。
「明日の朝、鐘の鳴る時間にね」
「ディナルド様?!」
「じゃあねぇ」
にこにこ顔で手をひらひらと振り、扉はぱたりと閉じられる。
無駄と分かっていても扉を開いて、見慣れたアクセレーベンの廊下なのを確認した。
ひとり一日一往復。
そのひとりが必ずしも同じ人物でなくとも良い。そしてシャンスウェイト側からしか陣は開かないというのもこれで嫌というほど分かった。
今日はもうアイザックはあちらに戻れない。まともな燃料も、食料さえもない、埃まみれの大きな屋敷にテオを置いてきてしまった。
アイザックは大きな声を上げて吠える。
ディナルドと同じように部屋に待機していたのだろう、ホレスの声が背後から聞こえる。
「ぷぷ。だっせ」
「……こうなると知っていたのか」
「知るかよ。知ってても止めないけどな」
「何がしたいんだ、あの方は!」
「……まぁゆっくりさせてやれよ」
「は?!」
「俺たちが居たんじゃ、できない話もある」
「……それは」
「まぁ明日のお前の反応が見たいだけだろうけどな」
「私を面白がるためにテオは夕食抜きに……」
「一食くらいで死にゃしねぇよ」
「そういう問題じゃない」
「娘みたいなもんだから新しい生活が心配なんだろうよ」
「だったらなおさら」
「その分お前が食ってやれば? ほれ、メシに行くぞ」
「そんな…………テオ……」
「落ち込むなよ鬱陶しいな」
翌朝には抱えられるだけの食べ物、道具を装備してテオの部屋で待機した。
簡易的な転移陣だ。
長時間に渡って空間を繋げていることも、人ひとり以上の質量を移動させることも負荷でしかない。
もたもたすれば使用回数だって変わってくる。
プリシラにはそう教わっていたので、何でもかんでも、あれもこれもとはいかずに、アイザックも必要な道具を厳選した。
約束の通り、朝一番の鐘が鳴ってしばらく、あちら側から扉が開く。
扉の前にはディナルドがにこにことして立っていた。
「面白くないなぁ……予想したままだよ」
「それは残念ですね」
「思ったより怒ってるけどね」
「……怒っていません」
「話はテオにしてるからね。しばらくは仲良くやりなさい」
「……しばらくは?」
目元のしわが濃くなって、ディナルドはこちら側に足を踏み出した。
入れ違ってアイザックはあちら側に行く。
「お掃除頑張りなさい」
「……はい」
勝手に扉が動いて閉じたように思ったが、手が塞がっているアイザックの代わりに、テオが扉を閉じていた。
「……テオ。ただ今帰りました」
穏やかに笑って頷く顔に、同じようにしてみせる。
「お腹が空いてないですか? これどうぞ」
ごてごてと纏っていた道具や荷物をその場に置いて、腕にかけていた籠をテオに渡す。
中には食堂で作ってもらった、すぐに食べられるものばかりを入れてある。
『ありがとう』と手を振ると、そのまま『来い』と示して廊下を歩き出す。
アイザックはその後ろを付いていった。
朝の光が入る廊下は明るく、テオが進めばその周りの空気が動き、埃がきらきらと舞っているのが見えた。
足元を見れば黒っぽい木床の上に、白く埃が降り積り、いくつもの足跡がある。
頭の上でふわとなびくものは蜘蛛の巣だ。
明るくなって見えるものが増えるほど気になることが増える。
「……テオ? 昨夜はどこに?」
振り向いてにこりと笑った顔がよくぞ聴いてくれたと言っているようだった。
子どものように駆け出したテオの後ろを、アイザックは大股で追いかける。
屋敷の中央の大きな階段を下り、そこからまた屋敷の端に向かう。
転移陣を設置した部屋から一番遠くにあたる部屋だった。
建物から円形に張り出した大きな露台があった。
壁も、湾曲して見える天井もあるが、それは端になるほど白く曇っている硝子でできている。
端から端までは大きく五歩分ほどの広さ。
外から見れば骨組みや形状から大きな鳥籠に見えるだろう。
中央に置かれた円卓に籠を置いて、テオは得意そうな顔で笑っている。
「ここは温室でしょうか……気に入られたんですね?」
大きく頷いてテオは籠の蓋を開け、中を覗きながら椅子に座った。
円卓をばしばし叩き、アイザックに向かい側に座れと示している。
床は石畳、椅子や円卓はこの場所に似合わないから、他所から運んで来たのだろう。
この場所には何も無かったからか、他の場所のように埃で覆われていない。
開閉できる場所は開け放たれているので、朝の空気が出入りして淀んだ感じがない。
中に入ったスプーンを取り出し、勧めてくるテオに手のひらを向けて、やんわりと制した。
「私はもう食事を取りました。どうぞテオが食べてください」
籠から蓋付きの陶器の入れ物を取り出し、まだ少し温かい煮込み料理を口に運ぶ。
美味しいと言わなくてもわかる表情に、アイザックはほうと息を吐き、肩の位置が明らかに下がる。
「……私はこれからすぐに外の草を何とかしようと思うのですが」
テオはこくこくと頷いて『はい』と手を振った。
「門から出入り口までと……この外の景色が見えるように刈ってしまいましょう」
とんとんと指で卓を叩いたので、その場所に手のひらを上に向けて置いた。
『昼まで』
『町へ行く』
「出かけますか?」
『あなた』とアイザックに人差し指を向け、続けて『買い物』と手のひらに書いた。
「……分かりました、お任せ下さい」
テオはその鳥籠のような温室を本当に気に入ったらしく、端から順に丁寧に硝子を拭いていった。
休んで眠れる場所をまず確保するべきではと思うが、姫君のように過ごしていたテオにそれが出来るのかとも考えた。
昼時になり、残していた食事をふたりで分け合って食べきる。
食料はこれから手に入れるとして、調理する人もいないこと、何か考えがあるのだろうかと質問した。
「誰か人を雇うべきではないでしょうか?」
複雑な話になると思ったのか、テオは『待て』と合図を出して、どこかから紙とペンを持ってきた。
屋敷内のことができる人はディナルドに頼んだから、そのうち来るまで待つ。
外をなんとかするための人を雇うのならば良いと、さらさらと紙に書いていった。
「食料は買ってきますが、調理は誰が?」
初めてそれに思い至ったような顔になったのを見て、アイザックはふはと笑い声をあげる。
「私でも構いませんが、食堂で出されるような立派なものは作れませんよ?」
どんなものが作れるのかと書かれて、自分の作れそうなものを思い浮かべて、さらに声を上げて笑った。
「野営の時に食べるような、ただ焼いたもの、とか、ただ煮たもの、ですかね」
テオは面白がって、それならしばらくは外で食事だと肩を揺らし、声もなく笑った。