間諜の姫君
うつらうつらとして、ああ、起きたんだなと思いながらも、怠くて目が開けられない。
頬が痒いので触ってみると、何か紙のようなものが貼り付いている。するっと剥がしてぺっとその辺に置いた。
誰かがご丁寧に頬に紙を貼り直したので、またぺっと剥がす。すぐにそっと貼り直される。
剥がす、貼り直す……繰り返すこと数回。
苛々してきて目を開ける。
「……目を覚まされましたか」
声は小さく抑えられていたけど、割と近い場所に顔があったので驚いた。
起き抜けに王城の人間と目を合わせ、瞬時に取り繕わなければと思ったが、同時にこれまでのことを思い出して眉間に力が入った。
咄嗟に悪態を吐かなかったことを褒めてもらいたいが、ここには自分と士長しかいない。
もぞもぞ起きあがろうとしたら、それを手伝われる。しっかり座るまで背を支えてくれていた。楽ちんだなと体から力が抜けていく。
自室に戻っている。
そして士長がいるということは、とまで考えて、話しかけようと口を開いたところで、空気が漏れて終わった。
ん?
大きな声を出そうとそこそこ息を吸い込んだが、出たのは吸い込んだ分の空気だけだった。
やったなこれ。
机に乗った水差しを指で示すと、士長は甲斐甲斐しくグラスに水を注いで持ってきた。
ゆっくり水を飲んで、もう一度声を出そうとしても結果は同じ。
やっぱりかと、がっくりきて背が丸くなる。
腹の傷に響いて、すぐに姿勢を戻した。
疲れが溜まると喉にくる。風邪をひいただの、喉が痛いだのではなく、ただただ声が出なくなる。
ニ日ほど休めば声が出て、さらに二日も経てばお姫様もかくやの美声に元通りになるのだが。
今回は確かに『疲れが溜まる』の最たるものだろう。なんせ死にかけたのだ。
それはそうと、この状況をこの男に伝えなければならない、と考えた。
最終目的は魔王ディナルドの召喚だ。
アクセレーベンの姫は水を飲み終えると、グラスをアイザックに手渡した。
「まだお飲みになりますか?」
ゆるりと首を振ったので、グラスを机に置いて、元の位置に戻る。
両膝を床に付けて姫君よりも目線が下になるように腰を落とした。
姫君ははふはふと息を吐いて、喉を押さえている。
「何かお食べになられますか」
顔を顰めてどすと音がするほど両手を寝台に叩きつけた。腹を立てている様子に、アイザックはあたふたとする。
「え、あ……え? 申し訳ありません、姫様の目覚めの準備は私では」
さらに盛大に顔を顰めて、振り上げた手をぶるぶるさせながらも、今度は振り下ろさなかった。痛いものを堪えるように、ゆっくりと手を膝に置く。
ふうと息を落ち着けて、姿勢を正すと、もう一度喉を手で押さえて、首を振る。
「ひ……めさま、もしかして、お声が?」
びしりと人差し指を向けると、アイザックの手を取って、手のひらに指を置いた。
ゆっくりと文字を書いていく。
「ホ……レス……ホレスを呼んでこいということですか?」
姫君が大きく頷いたので、アイザックはすっくと立ち上がる。
「お待ちください、すぐに呼んで参ります」
にこりと笑った顔は、稚い子どものようで、やはりシルヴィエーヌ様の笑顔とは違うなと思いながら、アイザックはホレスを探すために部屋を出た。
あちこち手当たり次第に聞き回って、ホレスを見付けて事情を説明する。落ち着き払った様子で、無表情にまたかとだけこぼした。
どういうことかと聞けば度々あるのだと返す。
「ご病気なのか?」
「いや……理由ははっきりしない。疲れだろうとは言ってるけどな」
「……そうか。そのうち良くなるということだな?」
「そうだ。このところ出ずっぱりだったし、あの大怪我。順当だな」
「出ずっぱり……」
色々と聞きたいことは山程あるが、目の前のことに集中するべきだと、アイザックは疑問を一度他所へ置くことに決め、ホレスの後を付いて歩いた。
部屋に入るなり姫君はホレスに対して忙しなく手を動かす。
「……おお、聞いた」
指を立てたり、握ったり、手をくるりと返したりで合図を送っているように見える。
「……待て、今忙しいんだ。分かるだろ」
ぱくぱくと口を動かしつつ、手も動かしている。手での合図が補助的なもので、内容は口の動きで伝えているのかと考えた。
考えたが、静かな室内でホレスはうるさいと姫君の口の方だけを押さえ込む。
「クソ口が悪いぞ、ブス」
姫君はすぐに勢いよくびしりとホレスに人差し指を向ける。
アイザックもこれには『お前もな!』と言っているのが分かった。
「とにかく大人しくしとけ…………アホか。プリシラも今は無理だ…………ああもう、うるせぇな」
そうだとホレスはアイザックを振り返る。
「気になるだろう」
「なんだ?」
「こいつが何言ってるか」
「…………いや」
「ウソつけよ。ヒマ人同士おしゃべりしてろ……お前こいつに合図教えてやれ」
嫌そうな顔で全力で手を振ったので、アイザックは一歩身を引いて、背筋を伸ばし足を揃える。
「姫君のお気を煩わせたくはありません」
「なに敬ってんだよ、こいつ姫君でも無いし」
「……ですが……お疲れでしょうし……その。お体を休められるべきかと……ですから……私のこと、などは……その」
「ほら見ろ傷つけたー」
ホレスが批難めいた声を出すと、姫君はばつの悪そうな顔をして、自分の手を見下ろす。
もじもじと指を弄んでいる。
ホレスはこれ見よがしなため息を吐き出すと、腰に両手を置いた。
「お前ばっかりか?」
小さく首を横に振ると、こそりと指も動かした。
「見たか今の、あれが『ごめん』だ」
「あぁ、姫様……お気になさらず」
「だから姫様じゃ……おい、お前こいつに名前教えてやれ。知らないよな、あんた」
「ええ……はい」
「……じゃあまた夜にな」
ホレスはばしとアイザックの背中を叩いて、そのまま寝台の横に押した。
部屋を出て扉を閉じる。
慌てて扉を開けにいくと、どうしたとホレスが振り返った。
「いや……開けておいた方が……いいの……では?」
「閉めとけ。覗かれるぞ」
「いや、でも」
「ここが誰の屋敷か考えろよ」
西宮は代々間諜の家系が主人。
どんな些細なことが弱みになるか、不都合になるか、力関係の均衡を把握し、常に情報を収集している者ばかりが居る場所だ。
にやりとしたホレスがじゃあなと去っていく。
そろりと後ろを振り返ると、姫君も首肯した。
扉を閉めて、寝台の脇に進み、床に膝をつく。
ふぅと息を漏らした姫君が、アイザックの後方にある椅子を指さした。
側まで運んできて失礼と椅子に腰掛ける。
「…………では。アクセレーベンの姫、お名前を教えていただけますか?」
人差し指を出されたので、アイザックは手のひらをその下に持っていった。
先ほどとは違い柔らかく書かれる文字に、手のひらがこそばゆい。何を書かれたのかは分からなかった。
「……申し訳ありません、くすぐったくて。もう一度お願いします」
なんとか力を入れて堪えようとするが、指が当たるとふと笑ってしまう。
「すみません……ふぅ……もう大丈夫です」
同じように、今度は力強く文字を書かれた。
「…………テオ?」
こくりと頷いた姫君は、薄らと笑顔になる。
「テオ様」
すぐさまびしりとと手を叩かれた。
眉を顰めて怒ったような顔をしている。
アイザックが『様』は要らないと分かるまで、何度も何度も、テオは根気強く手のひらに文字を書かいた。
手での合図はその指の本数や形が表音文字として使われる。
良く使う単語などは、また別の表現をするらしい。
まずはお互いの名前や、身近にあるものから教えてもらった。
慣れてくると指や手の形が文字の形と似ているのだと気付く。
「……なるほど、だんだん分かってきました」
『はい』と示されて、それは多分『そうか』という意味にとれた。
「……ホレスとは普通に口で話すような速さでしたね」
だからといった表情で、首を傾げる。
「そんなに頻繁にお声が出なくなるんでしょうか」
ふと笑うとテオは首を横に振った。
横に置いていた紙とペンを手に取った。
説明がいる時はいちいち手のひらに書いているのが面倒だと気が付いて、紙とペンを用意したのだ。
紙は沢山無いと気が付いて、途中からは小さな文字を端からぎゅうぎゅう詰めで書いていった。それはもう三枚目に突入している。
テオはさらさらと流麗な文字を書く。
シルヴィエーヌを演じる上で重要な技術だと、これも一枚目の最初の方に書かれている。
『声を聞かれたらまずい時や、潜入先で誰にも知られずに話したい時に使う』
「……なるほど、ではここに居る人はみんな知ってることなんですね」
『必要な人だけに教えられる』
「そうですか……このような大事なことを私に教えて良かったのですか?」
『ここの人になったのでは?』
「そうですね……私では役に立たないでしょうが」
『騎士丸出しで目立つ』
「はは。……全く同じことをホレスにも言われました」
ふふふとテオは笑って、ペンを置くと紙と一緒に脇へ避けた。
「……テオ? これからのことが不安では?」
人差し指を立てると、その先をアイザックの肩に押し付けた。
『あなた』という意味。
「そうですね……まぁ、でも。死体でここを出て行きたくはないので」
テオは大きく頷く。
「ヘタなことをしないように気を付けます」
『はい』と答えてからテオはゆっくりと横に倒れていく。
「テ?! テオ、どうしたんですか!」
もぞもぞしながら腹を両手で押さえる。
「傷? 痛むんですか?!」
手を伸ばすと寝台を指でとんとんと軽く叩く。この数時間の積み重ねによる新しい条件反射で、アイザックは手のひらを差し出す。
『お腹空いた』
一気に緊張感が抜けて脱力していく。
夢中になり過ぎて、時間が経つことなど気にしなかったが、アイザックもまた空腹だと思い始める。
よくよく考えればテオは丸一日以上は何も食べていない。
「食堂から何か貰ってきましょう」
こくこくと頷いて『行け』と手で示している。
「ではすぐに」
アイザックが行ってしまった後になって、テオはへにょっと眉の両端を下げた。
ついうっかりいつもの感じで人を使ってしまったが、アイザックは身の回りのお世話をする侍従ではない。
「お前ばっかりか?」
ホレスの言ったことが、ふとした瞬間に頭の中でぐるぐる回る。その時の哀しげなアイザックの顔も一緒に思い出される。
あーあと心の中で声を上げた。
もう騎士でもない、ただの気の良い力持ちの人になってしまった。
誰が悪いのかといえば襲ってきた奴らだが、こうなってしまったのは、間違いなく自分の所為だ。
近衛の騎士の、しかも士長という肩書きを、紛い物の権力でもって力任せに剥ぎ取ってしまった。
あの場合の最善だったかを思い起こしながら、もぞもぞと掛け布を引き上げて頭から被る。
自分にとっては最善だったが、アイザックにとっては違うような気がする。
気がするだけで本人ではないのでなんとも言えないところがもどかしい。
込み入ったことだから筆談でも上手く聞けないし、聞いたところできっとアイザックは気を遣って本当のことは話さないだろう。
気の良いクソ真面目人間だから。
あーあとまた心中で大声を上げる。
魔王を早いとこ召喚しなくてはいけない。
ディナルドがどうしようとしているか分からないが、今度こそアイザックにとっての最善を考えなくては。
テオは唸ったが、出てきたのは声ではなくすかすかの息だった。




