どくとくすり
壁の向こう側から話し声が聞こえるようだ。
数人の男女の声がある。
全員が穏やかな口調で、時に軽く笑い声もあがる。
何かを合図にぴたりと会話が止んで、しばしの沈黙。
そしてひたひたと頬が叩かれる。
「アイザック君、起きてるかい?」
壁の向こうの話し声ではなく、自分がぼんやりしていたのだと気が付いて、返事をしようとしたが満足に声が出なかった。
「今から君に薬を飲ませるから、ひと息に全部飲んでしまうんだよ、いいね」
なんとか目を開くと声の主ではなく、彼の従者が真ん前にぼんやりと見えた。
口に何か温かいものが当たった感触がして、返事の代わりに瞬く。
そして思い出す。
そういえば先ほど随分と物騒なことを言われたのではなかったか。死ぬとか殺すとか、それも数回。
「これは薬だよ? 本当だよ?」
「やめてやれよ」
「うふふ。楽しいねぇ……はい、押さえて」
背後から両肩をぐっと押さえつけられて、鼻を摘まれる。
「一気に飲まないとダメだからね? ほら、ホレス君飲ませて」
口の中に流れ込んできたものは、どろりとしてなかなか喉を通らない、その上、これは、とても……
がたと大きな音を立てて椅子が横向きに倒れる。
肩にあった手はあっさりと外れて、椅子の反対方向に倒れたアイザックは、床の上で葉から落ちた幼虫のようにうごうごと悶えた。
「あはははは! 見てよコレ面白いね。ねぇみんな!」
「……絨毯が汚れたな」
「しみったれたこと言わないの」
「染みだけに、か?」
「もう、ホレス君たら……ぶふふー」
口元をシャツの袖でぐいと拭って、アイザックは起き上がる。
床に突いた腕ががくがくしそうだったが、根性で堪えた。
「お。立ち直りが早いねぇ……面白くないなぁ」
「……今、何を……」
「毒消しの薬だよ……一気に全部飲んでって言った意味分かったでしょう?」
「…………毒の間違いでは?」
「毒ならたいがい無味無臭を使うよ?」
さあもう一度、とディナルドが言うと、ホレスがしゃがみ込んで、分厚い陶器の茶碗を差し出した。
悪意のあの字すらない無表情に、アイザックは思わず器を受け取ってしまう。
「おお! 再挑戦の決意が早いねぇ! さぁぐっと飲み干して!」
器の中身を見下ろす。
何色と言っていいか分からない、つやりとろりとした液体が器の半分ほど残っている。
水や酒なら二口で飲めそうだが、もう一度これを口に入れる気がなかなか湧いてこない。
「……本当に薬ですか、これ」
「まぁ気休めだけどね」
「今なんと?」
「飲んだ方が良い……解毒が進む。俺が保証する」
「ホレス君親切だねぇ。珍しい……気に入った?」
「あんたがコイツを気に入ったんだろ」
「あ、分かっちゃう?」
軽快な会話の流れに乗って、ぐと飲み干せれば楽なんだろうが、やっぱりもう一度口を付ける気にならない。
「覚悟を決めて飲みなさい。こんなことに時間をかけないで」
背後からかかった声に、瞬時に姿勢を正し、振り向きざまに片膝を突く、騎士の礼の形を取った。
顔を直接見ないように、僅かに頭を下げる。
涼やかな声は、この薄暗く狭い部屋の中で、真っ白な光のように降り注ぐ。
「士長……さぁ、お飲みなさい」
「姫の命とあらば」
覚悟を決め、息を止めて器の中身を全て飲み干す。
喉を下りていかず、ちっとも二口では済まなかったが。
悶えて転げ回りたいが、姫君の見ている前で姿勢も崩せず、訳の分からないところから出てくる力という力をどうにか発散しようと、床を拳で何度も叩いた。
ついでに器を置いたら、びしりと音を立てて底の部分以外が砕け散る。
「ぶふぁーーっ!! これはこれで面白いねぇ!!」
ディナルドが腹を抱え、腿を打って笑っていようが、ホレスが無表情で見下ろしていようが、アイザックは襲いくる大波を堪えようとぐと力一杯に身を縮めた。
「…………姫様……」
「それでこそ士長です」
「ありがたきし……」
「アイザック君、その子もシルヴィエーヌ様じゃないよ」
「あらら……言っちゃうんですか?」
「どうせすぐバレちゃうもん」
「まぁそうですよね」
がばりと身を持ち上げて、姫君だと思っていた人物を見上げる。
にこりとしている顔も、軽く傾げられた首も、何気なくしている立ち姿も、どこをどう見てもシルヴィエーヌ様にしか見えない。
魔術師が着用する黒に近い灰色のローブを纏っていてさえも。
「ひ……め、さま、では?」
「んー? 士長とは……六日ぶりですね!」
「…………む……?」
「なるほど。人は信じるものを疑ったとき、こういう感じになるんですねぇ」
「え? どんな顔? 見たい見たい」
「おい、やめといてやれ」
「うーん。プリシラちゃん、これは思考停止した人の顔じゃない?」
「ああ、この直前に一瞬だけ驚愕! みたいになったんですよね」
「へぇ」
「どうやったらあんたらみたいに大きな心の闇を抱えられるんだ」
「ホレス君今日はよく喋るね」
「あんたが見る側に回ってるからだ」
「あっ。ごめーん」
ホレスに手を貸されて、アイザックは立たされる。足を引きずりながら、壁際の寝台まで連れて行かれた。
そこに座ってはと顔をあげる。
「あの、ここに居た」
「うん。自分の部屋に連れて行ったよ」
「あ、そ……そうですか」
「先に治療は済ませたんだよね」
「その……お加減はいかがですか」
「いかがか教えてあげて、 プリシラちゃん」
「解毒はほぼ出来てましたので、傷が治るのを待つばかりです。明日あたりには目が覚めるんじゃないですかね」
「……だってさ」
「そう……ですか。良かった」
「心配してくれるんだ?」
「もちろんです」
「まぁ、その前にご自分の心配ですよ、士長」
「はい?」
「傷は大したことないですけど、かなり走ったんでしょう? 少量とはいえずいぶん毒が回っていると思われます」
「……はぁ、はい」
「毒消しの術をお教えますから、やってみましょう。私も補助はします。あとは、あの薬でなんとかしましょうね」
「あの……姫……様?」
「プリシラといいます、どうぞよろしく。まぁこれまでに数え切れないくらい会ってますけどね」
ふふと笑った顔は、姫様の遠慮がちな微笑みとは違い、暖かい春の日差しのような雰囲気だった。
口調もはきはきとして返事が早い。
シルヴィエーヌ姫との相違を探して、果たしてそれが誰とのどんな差なのか分からなくなってくる。
人形の姫はふたりいた。
プリシラに解毒の術を教えてもらい、アイザックには難しい部分の術を補ってもらった。
彼女は魔術師だけで構成される北宮に所属している。カークストウお抱えの人形だと自分を語った。
穴が空いているし、血塗れなのでどうせもう履いていられないだろうと、ズボンを強引に剥ぎ取られて、傷の手当てもしてもらう。
そうこうしているうちにディナルドとプリシラはお呼びがかかったと部屋を後にする。
この襲撃の知らせが届き、ふたりは王城に出かけていった。
ホレスは大人しく寝ていろとシャツも剥ぎ取って部屋を去る。
シャツも泥と血とで酷い有様だったからしょうがない。素直に言うことを聞くことにした。
ひとり取り残され、アイザックは下着一枚で寝台に横になり、上掛けを巻き付けて横に転がった。
壁にぶつかったところで身体に力を込める。
みしみしとあちこちが軋む。痛みはそれほどでもないが、手足の先が痺れて感覚が無い。
とてつもない倦怠感に、目を開けていることも、考えることもできない。
プリシラに言われた通り、アイザックは体内で魔力が滞りなく流れるのを想像しながら意識を手放した。
「……これを?」
「そうだ」
「なるほど」
アイザックが目を覚ましたのは、翌日の明け方だった。
身体はぎしぎしと鳴るようだったが、痛みは無くなっていた。
朝を告げる鐘の音と同時に、ホレスが薬を飲ませにやってきて、ついでに新しい服も持ってきた。
一度こういうものだと分かってしまえば、ただのつやとろの苦い飲み物だ。とてつもなく苦いが。死ねると思うほど苦いが。
アイザックは根性で死をも乗り越えられるのだと知った。とでも思わないとやっていられない。
与えられた服は黒。
シャツも、ズボンも、ベストも同じ黒。
その上にあった濃い赤の紐を摘んで持ち上げる。
「これは?」
「リボンだ」
「……そうだな」
ディナルドと違って、聞いた以上の答えは返ってこないのだと気が付いて、ホレスにはきちんと質問をすることにした。
「なぜ私の衣装は上下とも黒いんだろうか。君はその……普通の感じなのに」
「あんたただでさえ騎士丸出しだからな、遠くからでも分かるくらい」
「そうか?」
「アクセレーベンの人間には見えない」
「ここに騎士がいては不都合なのか?」
「別に騎士がいるのは不都合じゃないが。あんたはもう死んだことになってる」
「そう……か。そうだ、私の部下は? 無事だろうか?」
「死んだのは馭者と侍女と副長。それとあんただよ」
「ああ……うん。分かった。教えてくれてありがとう」
「自分が死んで礼を言うのか……まぁいい。服着ろ、メシは食えるか?」
「ああ、腹が減って倒れそうだ」
「死んでるのにな」
「……そうだな」
服を着て連れて行かれたのはちょっとした広間だった。横の厨房が中までよく見える。
この隣が大広間だとホレスは部屋の反対側を指をさした。
ここは宴や催しがある時は料理を取り回す前室になると説明する。
「動けるヤツはみんなここに来て食う」
「……わかった」
侍従のような人、庭師や馬丁に見える人、それなりに身形が整った人々が同じ部屋でそれぞれ食事をしている。
そこに混ざってアイザックとホレスも食事を始めた。紛れられてはいなかったが。
「……騎士だと分からないようにと言ったな」
「言った」
「目立ってないか?」
「かなりな」
「みんな普通の格好だぞ?」
「そうだな」
「なんで……」
「ディナルドの嫌がらせだろう」
「ああ…………そういうことか」
「納得するのか」
食事の後は個人の部屋以外、共有の場所を案内されて、最後に小さな部屋に連れてこられた。
屋敷の裏手側にあたる場所だった。
「今日からここがお前の部屋」
「分かった」
「分かるのか」
「……? どういう意味だ?」
「もっといい部屋にしろとか無いのか」
「もっといい部屋にしろと言えば良いのか?」
「言っても変わらんが」
「だろうな」
「右隣が俺の部屋」
「そうか」
「何かあれば俺に」
「色々ありがとう、ホレス」
「いや……言われたことをやっただけだから」
「でもありがとう」
「あとは休んで適当にしてろ」
「ああ……あ、そうだ」
「なんだ」
「あの……姫様が……じゃないけど。彼女が目を覚ましたら教えてくれないか」
「…………気になるなら、もうひとつ向こう」
「うん?」
「俺の隣の部屋だ」
「そ……え?」
「もういいか、用事がある」
「あ、ああ。すまない、引き止めて悪かった」
「とりあえずお前は休め」
「あ、はい」
小さな物入れと棚、釉薬も着色もないような机と椅子。足がはみ出そうな寝台、小さな窓がひとつ。
見習いの頃に戻ったような気がして、アイザックはふと笑いが漏れる。
ゴネないことがホレスには不可解なようだったが、実際には立派な部屋より、質素で小さな部屋に居た期間の方が長い。
窓の外を見たり、腰掛けて寝台の硬さを確かめたりしつつも、気になって仕方がないので、部屋を出た。
右隣の右隣。
扉の前に立って、二度ほど叩いてみる。
返事はないが、扉を開けた。若い女性の部屋という後ろめたさより、心配の方が勝ったのだと自分に言い訳をしつつ。
アクセレーベンの姫君は、横向きに小さく丸まって眠っていた。頬の傷の上には茶色い油紙が張り付いている。何もせずに張り付くはずがないので、内側には薬が塗ってあるのだろう。
一定の早さの寝息が小さく聞こえている。
ひとつも苦しそうではなく、安らかな顔をしているのを見てほうと安堵の息を吐いた。
今日にも目が覚めるかもと言っていたカークストウの姫君の言葉を信じて、待たせてもらうことにする。
枕元に椅子を運んでどっしりと座ったが、流石に近過ぎる気がして、一番離れた壁際に移った。
寒くは無いから構わないだろうと、扉は完全に閉じずに少し開けてある。
腕と足を組んで、椅子と壁に凭れかかりアイザックは軽く目を閉じた。