人形のお姫様
城には王家以外に三家の公爵が常住している。
その内の一人がアクセレーベンだ。
西宮と聞こえよく呼ばれているが、王城の端で半分は森に飲まれたような場所に居を構えている。
その通用門とそこへ続く道は馬車や荷車が通れず、人や馬が精々な大きさだったかとアイザックは頭の中にある記憶を探った。
確かに。
多くの人に見咎められずに城壁内に入ろうとするなら、西宮の通用門が今いる位置から一番に近い。
なるべくことを大きくせずに済ませたいのなら、シルヴィエーヌ姫が命じたことは理にかなっている。
翌年には婚儀を控えた身だ。
自国や皇国に暗い影は落とせない。
献身の姿勢は姫君として立派だと言える。
だが、とアイザックは胸元を見下ろす。
頬の血はもう止まっているようだった。傷は目の下から口元まで、ゆるく湾曲して走る。毒が仕込んであったからか、普通の切り口ではなく、皮膚の表面は火傷の痕のように細かく引き攣れていた。
大きな傷と流れ出た血。
一番似つかわしく無いものが姫君の白い頬を覆っている。
己の不甲斐なさに胸を絞められ、溢れる悔しさを垂れ流しながら、アイザックはそれでも逸早くと足を前に出した。
西宮で通された部屋は簡素な客室のように見える。
貴賓を迎えるほど広くも豪華でもなく、従者が住まうほど狭く見窄らしくもない。
誰かの持ちものというほど個性を感じない部屋だ。
そこへ案内されて、今その部屋にいるのは近衛の騎士と姫君のふたりきり。
主人に知らせると使いは部屋を去ったところだった。
シルヴィエーヌ姫をゆっくりと寝台に寝かせて、アイザックはその横で床に両膝を落とした。
近くで様子を見ようというのではなく、両の脚から力が抜けたからだ。
皮膚の表面に感覚は無く、びくびくと腿が痙攣している。痛みよりも痺れが強い。
矢にも毒が仕込まれていたのかと傷の横を拳で叩いた。
アイザックは改めて部屋を見回し、また感じた違和感に眉を顰めた。
姫君をお連れするのに主眼を置いていた自分の視野の狭さに心臓がどくりと大きく鳴る。
なぜ通用口の門番は、自分と姫君を一瞥しただけで何も聞かずに門を通した。
なぜ屋敷の従者は顔色ひとつ変えずにここへ案内をした。
こうなると知っていたのではないのか。
はと顔を上げて姫君を見る。
シルヴィエーヌ自身がここへ連れて来いと命じた。
こうなると知っていたのは、西宮だけではなく、それは姫君も同じなのではないのか。
襲撃者は一般の民の質素な服を着ていた。
だが精度の高そうな、高価な矢を放った。
あれから射手の姿を見なかったということは、あの場からすぐに撤収したということ。
背後から大声で来襲したのは陽動。
役目を理解し、各自のやるべきことを成す、計画された組織的な行動だったのか。
自分の部下が、副士長が、ただの民に斃される訳がない。
そこまで考えた所で、近付く足音を聞いた。
足音はふたり、先程の従者とアクセレーベン卿か。それとも、と扉の方に身体を回して、剣の上に手を掛けた。
開いた扉から見えた顔が、事態を察してにやりと表情を変える。
「なかなかの忠義だな、頼もしいことだ。だがここでは引っ込めてくれ」
「アクセレーベン卿」
「フェイベルト騎士長……よく戻ったね」
「どういう意味でしょうか」
「……言葉の通りだよ。さぁ、そこをどいてくれないか、様子を見たい」
「ディナルド様にお聞きしたい!」
「うん?」
「シルヴィエーヌ様に……王家に忠節はお有りか」
「……ぶは! いいね、君!! 面白いから満点をあげよう!!」
ぴんと張った糸が切れたようになって、アイザックは手から力が抜けていく。
ディナルドは何の気構えもないように歩み寄って、はいはいと言いながらアイザックを押し退け寝台の縁に腰掛ける。
腕を突いて被さるような格好で姫君の顔を見下ろした。
「……このシルヴィエーヌ様がここに来いと言ったんだね?」
「……そうです」
「ふーん。まったく仕様がない子だなぁ」
ディナルドは姫君の無傷の方の頬を遠慮なくべちべちと叩いて、それでも意識を取り戻さないので、顎を掴んでぐらぐらと頭を揺すった。
「ちょ……! ディナルド様?!」
「あ、平気平気。おーいこら。起きろー」
「や、平気って……」
「というか君はどうした。腰抜けちゃったの?」
「う……いえ、その。脚が言うことを聞かないので」
おやおやとディナルドは笑ってひらひらと片手を振った。
従者が側に椅子を運んで、へたり込んだ格好のアイザックを引き上げてそこへ座らせる。
「盛られちゃったね……姫様もそうかな?」
「毒をという意味なら、はい、そうです」
「それで傷は放置か……ホレス君、カークストウに知らせて、プリシラを連れてきてくれるかな? 居なきゃ誰でもいいや」
ホレスと呼ばれた従者は静かに頷くと、すぐに部屋を出て行った。
城に常住するのは、アクセレーベン、カークストウ、シプディーンの三公爵。
カークストウは北宮に常住しており、西宮とは不仲だと聞いているし、実際その場面を見たこともある。
アイザックは何が起こっているのかと顔に貼りつけたままディナルドを見る。
そのディナルドはまたも姫君の頬を無遠慮に叩いた。
唸って眉間に皺が寄った姫君に問いかける。
「相手は分かったのかな?」
姫君は薄らと目を開けて、口をもごもごさせると、ぺと何かを吐き出した。
顔の横に転がり出た金のボタンを拾い上げて確認すると、ディナルドはふはと笑った。
ベストの小さなポケットにするりとボタンを押し込む。
「意図的だという可能性は?」
「…………さぁな……でも回収しようとした」
「それも誘導じゃないのかな?」
「知らん……浮かれて気取ってたから本物だろ」
「本物の根拠はそれだけかい?」
「……黒に近い髪でホレス位の背丈……爪が磨かれて……良い匂いだった」
「手がきれい?」
「私よりな……」
「ふむ。顔は見てないんだね?」
「……流暢に話してたが、発音がはっきりし過ぎ……語頭が詰まって聞こえた」
「なるほどね」
「…………ヘレナを死なせた」
「そうか……もう寝ていいよ、良く戻ったね」
「……腹が痛い……」
「プリシラを呼んである」
慈愛に満ちた表情で姫君を見下ろしていたディナルドは、自分の手で姫君の額に浮いた汗を拭い取った。
再び寝入ったのを見届けて、ふと小さく息を吐くと、アイザックに向けて座り直す。
「さて。今度は君の番だ」
優雅に足を組み直して、その膝の上に指を組んでゆるりと置いた。
少し傾げられた頭も、片方だけ吊り上がった眉も、全て計算ずくの角度に見える。
五十に届こうかという年齢だが、十代になった頃から現在に至るまで、ディナルドは常に女性たちの間で話題に上る。
アイザックもつい最近、目元や口元の笑い皺だの、白いお髪の混ざり具合だの、低く穏やかな声だのと、周囲の女性たちから話を聞かされたばかりだった。
確かにと相対して思う。男性に使える言葉かどうか分からないが、妖艶という言葉がよく似合うお方だ。
「こうしてお話させていただくのは初めてです」
「そうだね……でも君の話はよく聞いているよ」
「そ……うですか」
「ここに来たってことは、森で襲われたんだね?」
「はい、入ってすぐの場所で」
「さて、君はどこまで知っているのかな?」
「何をでしょう」
「まず、今回の件は?」
「襲撃があると知っていたか、という意味ですか?」
「怒らせたかな? そういう意味じゃない……相手の見当は付くかい?」
「……民を装った、訓練された人間かと」
「何故そう思ったのかな?」
「毒を使ったこと、射られた矢は高価なもの、撤収が早いこと……副長がやられました」
「……そうか。残念なことだね」
「シルヴィエーヌ様に傷を負わせた者は見ていません」
「ふんふん……君以外の近衛たちはどうなったか分かるかい?」
「いいえ、後方にいた者が残っているかも知れませんが、確認はしていません」
「なるほど……さて。君は今、二つに分かれた岐路に立たされているよ」
「……はい?」
「まぁ、そもそも騎士なんだから覚悟はそれなりにあるだろう?」
「と……いうと?」
「死体でここから出ていくか、私の麾下になるかだね」
「はい?」
「君はあの森で死んだことにしておくよ。命を懸けて姫君をお守りして、立派だったね……ご遺族も君を誇りに思うだろう」
「いや、あの……」
「本当に死ぬの嫌でしょう?」
「当たり前です」
「では私の麾下に。新しい身分は用意してあげるから心配なく」
「まったく話が見えません」
「時間はたっぷりあるから大丈夫。そのうち見えるよ」
「私は近衛の騎士です」
「知っているよ?」
「貴方の仰ることを、はいそうですかとは聞けません」
「まぁねぇ。でも仕様がないよ、この子に巻き込まれちゃったんだから」
ちらりと姫君を見下ろして、ディナルドはふふと笑う。
「……今、この子と仰いましたか?」
「もう何となく分かってるでしょ? これはシルヴィエーヌ様ではない」
「そ…………ふぅ。……はい」
「おお。良い切り替えの早さだね、合格点をあげよう」
「では、その方は?」
「噂には聞いてるだろう? 人形だよ」
「本当に居たのですか?」
「居たねぇ……この子がそう、姫の人形だよ」
「姫の人形……」
シルヴィエーヌ姫には影武者がいるのではと話はあった。
それは騎士だけの間で交わされる笑い話だ。
城の内外を問わず忙しく公務をこなし、輿入れ先の皇国に足を伸ばしたり、あちこち公の場にも進んで顔を出している。
とても一人の身では足りない忙しさだと、うら若い女性の身でありながら、体調を崩さずよく耐えて堪えられるなと話したことがある。
一人の身で足りる訳がない、シルヴィエーヌ様は二人いるに違いない。
自分でもそう思い、確かにと部下たちと冗談を言って笑い合った。
現国王の曽祖父にあたる代には影武者がいたと聞いている。隠語で【人形 】と呼ばれていた。
その話を聞いたことはあったが、アイザックが知る限り、影武者が影武者として立ち回っていたことはない。
そのはずだ。
少なくとも姫君が他人と入れ替わっていると思ったことはない。
ならばそこに横たわるのは誰だ。
今まで接していたのは、姫ではなかったのか。
近衛騎士の自分が知り得ない何かがあることを、まず認めるところから考えを変えなければいけない。
「それを知ってしまったから、私はもう近衛ではいられないということですか?」
「根本が変わるでしょう? 君はこの子がシルヴィエーヌ様だと思ったからあの場を切り抜けられたのでは?」
「……それは」
「この子が人形と知っていたら、この子は生きてここまで戻れただろうか?」
「もちろんです」
「君はこの先も、姫君ではない誰かを命懸けで守れるだろうか」
「……命令とあらば」
「どうかな? 君を信用できるほど、私は君を知らない」
アイザックが顔を顰めて床を見ると、そういうことだよとディナルドが笑う。
「この子はお姫様ではないけど、私にとってはシルヴィエーヌ様と同じなんだよ。私たちにとって、同じだけの命の価値がある」
「命の価値……」
「あ、いま諜者風情が命の価値とか言いやがって、って思ったね?」
「いえ、まさか。そんな!」
「王家の近衛騎士が諜者家系の麾下に身を落とすのは癪に触るかい?」
「身を……落とす、とかではなく」
「うん?」
「騎士で……ない自分は、想像がつかない……というか」
「なるほどね、気持ちは分かるよ。じゃあ死ぬ?」
「……それは嫌ですね」
「まぁその辺はゆっくり考えなさい。答えが出るまではここにね。屋敷内は自由にしていいけど、ヘタなことしたら私以外からも殺されるから気を付けて」
「ヘタなこととは?」
「屋敷を出るとか、中をやたらと探るとかだね」
「……気を付けます」
「よろしい」
にっこりと笑ったディナルドは目元と口元に、女性たちがうっとりとため息を落としそうな皺を刻んだ。
すらりと長い手脚を解いて立ち上がる。
「君に今のところ死ぬ気がないのなら、手当をしてあげようね」
愛おしそうにアイザックの頭をよしよしと撫でる。
「毒が回ってるの分かってるかな? 君、今にも死にそうな顔色だよ」
アイザックは暗いところに落ちていきそうな感覚に襲われながら、ディナルドの優しげな声を聞いた。
「私に大きな借りができたね」
絵に描いたようなテンプレイケオジ。