名前のない墓
例えば、笑った時のえくぼとか。
照れた時に鼻の頭を掻く癖とか。
ぴんと伸びた背筋とか、唇を噛み締める横顔とか。
日常の小さな仕草を覚えているのは、思い出の写真をアルバムに閉じ込めて、もう届かない過去を懐かしむようなものだったのかも知れない。
初夏の夜、家の近くで小さな祭りがあった。
紅白幕に包まれた櫓が建てられて、殺風景な駐車場には提灯の火が灯った。開催したのは地元の自治会らしいが、詳しいことは知らないし、きっとこの先も知る必要のないことだった。
遠くの花火を見ているみたいだった。
浴衣姿の人々が回遊魚のように歩き、出店からは活気に満ちた声が飛び交う。俺達に目的地はなかった。物見遊山で訪れて、冷やかしのように覗くだけで満足だった。
金魚すくいの前で、そいつは足を止めた。
狭い水槽の中、満員電車みたいな密度で、赤や黒の艶やかな金魚が泳いでいる。無遠慮に差し入れられる人間の手も、すくい捕ろうとする《《ぽい》》も、覗き込む俺達のことも眼中にない。
小学生くらいの子供が、破れた《《ぽい》》を見て歯噛みした。店主が朗らかに笑う。そいつは興味深そうに水槽を眺めて、ポケットから百円玉を取り出した。
「やるのか?」
俺が問い掛けると、そいつは頷いた。
ゲームが好きだった。それもテレビゲームや携帯ゲームではなくて、アナログなボードゲームやカードゲームが得意だった。対戦したことはないが、かなり強いらしい。
そいつは赤と黒の金魚を一匹ずつすくった。
《《ぽい》》は破れていなかったが、それで終わりにした。生き物を飼う余裕も、世話をするほどの関心もなかった。そいつはしゃがみ込んで、透明な袋に入れられた金魚をずっと眺めていた。
「狭くて、可哀想だな」
俺が言うと、そいつは顔を上げた。
子犬みたいな瞳がぱちぱちと瞬きをする。
水槽にいた時と、今はどちらが幸せなんだろう。
生き物を飼うのは面倒だ。放っておけば死んでしまうし、死体は腐る。食える訳でもないし。自分のことだけで手一杯なのに、金魚の世話なんてできない。
「良い考えがあるよ」
そいつは指を鳴らして、得意げに笑った。
金魚の入った袋を片手に、そいつはミサイルみたいに祭り会場を突っ切った。そいつのやることはいつも唐突で、予測不能で、俺の常識を簡単に超えていく。
祭り会場から徒歩十五分、学生の多い寂れた街の一角が俺の住処だった。トタンの赤い屋根、漆喰の壁、二階建ての安アパート。今時、トイレ風呂共同のワンルームが全部で十室。俺の部屋は一階の角部屋だった。
玄関は北向きで、湿った土にドクダミが群生している。割れた石畳は苔生し、手入れの行き届かない庭は雑草が伸び放題である。廃屋のような建物に、自分以外の住人を見たことは無い。
そいつは共用の風呂場に土足で踏み込んで、水を張った。水道水が蛇口から滝のように注ぎ込まれる。その時になって、そいつが何をしようとしているのか分かった。
風呂釜が満たされると、そいつは二匹の金魚を放った。狭い袋から解放された金魚は、広い風呂釜を慎重に泳ぎ出す。嬉しそうだな、とは思わなかった。魚の気持ちなんて分かるはずない。
二人で暫く、金魚を眺めていた。
尾ヒレが踊るように揺れ、水面に月明かりが反射する。不意に蛍光灯が点滅して、遠くで電車の音がした。
この時間が永遠になったら、良いと思った。
自分の人生に期待なんてしていないし、人並みの幸せなんて望んでもいない。ただ、目の前にいるそいつが自由に生きていて、笑っていられたらそれで良いと思った。
風呂場の扉が滑って、胡麻塩パーマの大家が怒鳴り込んで来た。融通の効かないクソババアが唾を飛ばしながら責め立てる。そいつは性質の悪いクレーマーを相手にするみたいに辛抱強く叱られて、何度も何度も謝った。最後は大家が折れて、風呂釜で金魚を飼うことを許してくれた。
「お祭りの金魚は長生きしないんだって」
大家が立ち去ってから、そいつは至ってフラットな口調で言った。風呂釜の縁に腰を下ろした。陶器のような白い肌に、長いまつ毛が影を落とす。
「名前を付けると、別れが辛くなる」
そいつが言った。
細い指先が風呂釜を撫でる。二匹の金魚は互いのことなんて気にもしないで、自由気ままに泳いでいた。きっと、こいつ等は俺達だって眼中になくて、何の予告もなく、勝手に死ぬんだ。
「名前なんてただの記号だ」
「そうかもね」
囁くように、そいつは肯定した。
あんまり否定したり、自己主張したりする奴じゃなかった。嫌味や敵意を水のように受け流して、向かい風の中で凛と背筋を伸ばしている。
名前に意味なんてない。俺も、この関係も。
名前を付けると、別れの時が辛くなる。この微温湯のような時間を他人に説明する必要もないし、理解して欲しいとも思わない。
金魚は三ヶ月くらい風呂釜で生きていた。
俺は時々、様子を見た。そいつが悲しむ顔は見たくなかった。だけど、俺が仕事から帰って来たら、一匹だけ浮かんでいた。
黒い金魚が、水面に白い腹を晒していた。
赤い金魚は悠々と風呂釜を泳いでいる。俺は金魚の死体を掌ですくって、玄関先に埋めた。
湿った土を掘り起こして、金魚の死体を放り込む。泳いでいる時は美しかった尾ヒレも、今はただのゴミに見えた。掌程の石を置いて、俺は煙草を吸った。
翌日、もう一匹も死んだ。
後を追ったのかな、なんて思った。
携帯電話を取り出して、メッセージを送った。金魚の訃報を伝えると、その日のうちにそいつが来た。
質素な墓を見詰めて、手を合わせた。
俺達は神様を信じていなくて、特定の信仰もない。だから、祈りの言葉を知らない。
「最期の時に、呼んであげられる名前がないのも辛いね」
今度、花を買って来る。
そう言って、そいつは目を伏せた。
名前を付けると、別れの時が辛くなる。
名前がないと、呼んであげられない。
どちらが良かったのかなんて、分からない。だけど、自分の死を悼んでくれる存在がいたのは、幸福だったのではないかと思った。
「君は、何処にもいなくならないでね」
小さな背中から、掠れるような声がした。
俺はその約束を果たせないだろうと、思った。
俺がこの世を去る時には、そいつが名前を呼んでくれる。この関係性に名前がなくても、誰に認められなくても、名前のない金魚の為に祈ったように、俺のことも葬ってくれるだろう。
その時に、どうか俺の想いも弔ってくれ。
お前には、幸せでいてほしいから。




