1 酒と煙草の匂う朝
しつこく鳴り響くインターフォンの音で目が覚めた。
夢の中で鳴り続け、現実なんだと認識してからも無視していたのだが、いっこうに鳴り止まない。
イラついて頭を持ち上げようとして、後頭部から肩にかけて激痛が走る。
目を開けると、居間の天井が見える。頬に伝わるザラザラとした布の感触。
また、ソファで寝てしまったのだと思い出した。
身体を起こすと、腰と背中が痛い。もう若くないのだから、ベッドで寝るようにしなければといつも反省する。
『寝るんなら、寝室に行ってください』
『お父さん、ダメだよ。ここで寝ちゃあ』
そういう声で起こされていたのは、もう十年も前のこと。今はもう、ソファで眠りこけていても、誰も起こしてはくれない。
静かになった部屋で、頭を軽く振る。少しアルコールが残っているようだ。
ガラスのテーブルの上の、コンビニ袋をどかして、煙草を探す。
ウイスキーの瓶が絨毯の上に転がった。慌てて持ち上げるが、今回はきちんとキャップを閉めていたようで中身がこぼれるようなことはなかった。グラスを用意するのが面倒になり、ウイスキーをラッパ飲みするようになってから、しばしばキャップを閉め忘れることがあったからだった。
ほっと息をつく。
煙草とライターを見つけて、火をつける。大きめの灰皿には吸い殻がいっぱい。目に付いたコンビニ袋に吸い殻を入れた。
インターフォンの音が、また鳴り始めた。
随分としつこい訪問者だと思った。この家を訪ねてくるような知人はいない。セールスかなんかでも、ここまではしないものだ。
火をつけたばかりの煙草を消すのももったいないと、くわえ煙草で玄関に向かう。廊下に放置している段ボールに足の指をぶつけて、煙草を落としそうになった。
扉を開けると、見知った女が立っていた。毎日のように顔を合わせているが、あんなことがあってからここに来ることはなくなっていた。
「どうしたんですか? 刑事課長殿。いや、神崎奈美警部とお呼びした方が良かったですか?」
俺の言葉に、奈美は息を吐いた。
後輩で殉職した神崎守の奥さんだった人。神崎とはひと回り下の年齢だと聞いていたので、俺と比べれば十五くらいは年下の女。その彼女がそこそこの地方警察署刑事課の課長にまでなっている。
俺も歳をとるはずだ。
「ひどい姿ですね、南条さん」
奈美はあわれむような眼で、俺と玄関周りを見回す。
「ほっといてくれ。まだ、出勤時間ではないだろ」
「事件です。すぐに現場に行きます。それと携帯電話は常に充電しておいてください。連絡がとれません……そのスーツ、着たまま寝たんですか? 着替えてください」
うるさい女だ。
「これしかない」
ないわけじゃないが、床に転がっているスーツもワイシャツも汚れ具合はたいして変わらない。
「じゃあ、それでいいです。顔を洗って、身だしなみを整えてください。五分待ちます」
「お前が連れてってくれるのか? いいのか? 刑事課長がほいほい外に出て行って」
「あなたに言われる筋合いはありません」
まあ、それはそうだ。
刑事課長の職務どころか、警察官として誰かに意見できるような人間ではない。
頭をかきながら、洗面所へと向かった。
「雑木林での首吊り遺体。死後、数日たって腐敗も進んでいるようです」
運転席の奈美が言う。
警察車両を使うなら階級が下の者が運転するものなのだろうが、これは奈美の自家用車なので遠慮なく助手席に座っている。
煙草を吸いたいところだが、さすがに止めておく。そこまで無頼漢でもない。
「自殺か? 刑事課長が出っ張る仕事でもないだろう」
「南条さんを迎えに行く人員がいないんです。面倒ですから、連絡くらいは常にとれるようにしておいてください。それから、生活態度も改めてください。風呂入ってますか? 臭いですよ」
言われてワイシャツの襟元に鼻をつける。確かに、ここ数日はシャワーも浴びていない。だが、若い時に比べて新陳代謝も悪くなっている。人を不快にさせるほどの体臭があるようには感じない。
「臭いか?」
「臭いです。煙草とお酒の匂いが混ざって、吐きそうです」
「……」
「再婚……するような方、いらっしゃらないんですか?」
いるわけがない。
もうすぐ五十のおじさんだ。しかも未だに巡査部長。
若くない。金もない。地位も名誉もない。仕事にかける情熱も……今はもう、ないのだから。
「今の時代、こんなこと女の私が言うのも変なんですが、南条さんはしっかりものの奥さんをもらって、家庭を守ってもらえるようにしたほうが良いと思います。生活がもとに戻れば、きっと……」
「やめてくれ」
「……もう、十年ですよ。そろそろ、立ち直ってもいい時期じゃないですか? 本来、あなたは優秀な警察官なんですから……」
「ふざけるな。もう、とっくに立ち直っている。今の生活が俺の本来の姿だ。元々、俺はこういうどうしようもない人間なんだよ。気に入らなければ、首にでもなんでもすればいいだろ」
「……」
警察官という職業に未練はない。そもそも、俺のような人間が公僕などやっている方がおかしいのだ。今の俺には仕事をして金を稼ぐこと自体、無意味なことに感じる。
「話は変わりますが、この秋の人事異動で新人が入ります。南条さんとコンビを組むことにしましたから、よろしくお願いします」
「……はあ?」
「刑事課は初めてということですが、なかなか優秀な子のようですので……」
「待ってくれ。俺に新人教育なんかできるわけないだろ」
そこそこの地方都市で刑事をやっていること自体がおかしいのだ。
「課長命令です」
「……」
「課長命令です」
「わかったよ。くそったれが……」
奈美が運転中にも関わらず、こちらに顔を向けてきた。危ないと思って見返すと、なぜか笑っていた。神崎の婚約者として、初めて顔を合わせた時を思い出した。あの時から変わらない無邪気な少女のような笑顔だった。
「南条さんに新人教育をやってもらうためではありません。むしろ逆です」
「……どういう意味だ?」
「今は警察もコンプライアンスを大事にする時代です。被疑者に対してのみならず、職場の同僚に対しても『くそったれ』などという暴言を吐かないように。彼女には南条さんの教育係を頼んでいます」
「……はあ?」
俺が新人に教えるのではなく、新人が俺を教育する?
なんだそれ?
「着きましたよ」
市民公園の駐車場に車を止める。桜が有名なこの公園近くの雑木林が、現場だと聞いていた。
「おい。なんでそんな無駄なことをする」
それには答えず、奈美は車を降りていた。
仕方なく、車を降りる。
冷たい風が首筋を通り、背中に寒気を覚えた。
いつの間にか、秋が深まってきているのだと気付いた。