お別れします
「ワインを持って参りました。お口に合うか分かりませんが、いかがでしょうか」
机には畑が描かれた陶板の付いたボトルと2脚のグラスに吐器。ボトルにはうっすら水滴が浮かび、窓から差し込む陽にきらりと光っている。
「ローエングリン領のワインは名産と聞いています。いただきましょう」
「お待ちください!」
可憐な花が咲く。
慣れた手つきで抜栓し黄金色の液体がしゅわーっと音を立てて注がれる。
グラスの底からは細かい泡の列が昇っては弾け、レモンや花梨、桃の香りが鼻腔をくすぐる。
「お待たせしました」
エルフリーデがまずは口に含んだ。途端、すっと弧を描く目、綻ぶ口元。こくりと喉を鳴らして鼻から息を吐くとほぅと頬が緩む。
視線に気づいたのかはっとした顔が緊張に引き締まる。
微笑ましさに緩んだ口元へグラスを傾けたマクシミリアンは目を丸く見開いた。
細かい炭酸が舌に広がり、クリームのような滑らかな舌触りがする。鉱物を連想させるかっちりとした味わいとすっきりとした酸味、鼻を抜ける仄かなハチミツの香り。残る柑橘や桃のような味わいも酸味のお陰で心地いい清涼感がある。
「いつまでも飲んでいたい、素敵なワインです」
緊張したままのエルフリーデに手放しの賛辞を送る。
「良かったぁ、父が私の成人祝いにって仕込んでくれて、私も初めてお手伝いしたワインなんです」
愛おしそうにボトルを撫でるエルフリーデ。
「本当に美味しいです、良い父君ですね」
「はい!自慢の父です!」
すっとグラスを傾けてまたうっとりとする。
釣られるようにマクシミリアンもグラスを傾ける。
「ところでこのワインを冷やしているのは魔導ですか?」
ボトルは先程から適温を保ち続けている。
「はい、触れた物の温度を下げています」
そう言って注がれたワインはやはり適温だ。
「凄いですね、こんな事が出来るなんて」
「確かに便利です。便利ですけど魔導に出来る事は再現出来る事がほとんどですから、あったら楽できるくらいで、えぇとその」
「気を遣わせてしまいましたね」
「い、いえ、私こそすいません」
そこで会話が途切れ、静かにグラスを傾ける時間が流れる。気まずくても美味しい物は美味しい、グラスを傾ける手は途切れず、気がつくとボトルが空になっていた。
「あっ」
「今日は素晴らしいワインをありがとうございました」
「いえ、楽しんでいただけてこの子も幸せです」
ぎこちなく微笑む。。
「本当に気にしないでください。羨ましくはありますが、さっき仰ったように確かに無くても困るものではありません」
「はい、これからは私がしっかりお支えします」
「ありがとう、明日の晩餐会もよろしくお願いしますね」
「はい!市場に出ているものですが、明日も当家よりワインを出させていただきますので楽しみにしていてください!」
「やはり今日の物は市場には出ていない物でしたか」
「はい、120本しか作っていないんです。皆様にお渡しするにはとても数が」
と申し訳なさそうな顔をするエルフリーデ。
「貴重な体験でした。ありがとうございます」
「喜んでいただけてこの子も嬉しいと思います」
先程より自然な笑顔を浮かべたエルフリーデが空になったボトルを優しく撫ぜる。きらりと光る酒石がどこか誇らしげに見える。
ふふっと笑い声を溢すエルフリーデはとても眩しく見えた。マクシミリアンの顔に影が降りる。
「さて、今日はお疲れでしょう。部屋を用意してますから、ゆっくり休んでください」
「お心遣いありがとうございます」
マクシミリアンが鈴を鳴らすと、音もなく扉が開いた。
すっと礼をして退出するエルフリーデの後ろ姿を見送る顔には隠しきれない羨望と嫉妬が見えた。
「本日より身の回りをお世話いたしますサスキアです。どうぞこちらへ」
部屋を出たエルフリーデに深く腰を折る女性は年は同じくらいに見えるが、凛とした雰囲気のせいか、丁寧な物腰の割に好意的に感じられない。
「エルフリーデです。よろしくお願いします」
目礼で答えると侍女は先導を始めた。
「この城には転移術式を施したタイルがいくつかあります。王太子妃様の部屋へも何度か使いますのでご了承くださいませ」
「ありがとうございます。早く覚えないといけませんね」
「私を呼んで頂ければいつでもお連れ致しますので、覚えずとも問題ありません」
マクシミリアンにも感じてはいたが、サスキアも随分とよそよそしい。他人行儀に慣れていないエルフリーデは息が詰まりそうだった。
「こちらが一つ目のタイルです」
サスキアの立つタイルには馴染みのある術式が刻まれていた。実直かつ効率的な無駄のない綺麗な術式。
無口だが丁寧に仕事をこなすマーフレット翁の顔が目に浮かぶ。
窮屈さを感じていたエルフリーデに笑顔が戻る。
上の階へ上の階へ、タイルは刻まれたとおりに2人を運ぶ。移動の負荷が全くないのは流石マーフレットさんと思うエルフリーデだが、同時に訝しさを覚えていた。
上へ上へと動いているようだが、実際は北へも動いているこの動き方はまるで城の尖塔へ向かうかのような、、、。
「こちらで御座います」
その部屋は予想とおり先程の部屋から見て北の端に位置する塔の先端だった。
これではまるで幽閉である。
本当にここですかと振り返るエルフリーデの目に飛び込んできたのはピンクがかったゴールドの髪。直後、体当たりの衝撃と鋭い胸の痛み。胸元は薔薇が咲いたように真っ赤に染まり深々と刃物が突き立っている。
治癒をかける間もない完全な致命傷。くず折れる体、下がる視点。遠のく痛みに薄れる意識。
見上げる視界は急速に闇に呑まれていき、恍惚とした笑みを最後に漆黒に沈んだ。