弐噺 「白妙の」
春うらら。
小鳥の囀りが晴天に散らばる昼間。
祈人町は傀儡山。
その山にひっそりと佇む、人間世界から隔たれたこの場所、鬼神の社にも、季節は平等に訪れる。
春風が桜の木を揺らし、花びらがはらはらと散る。
きっとふうりゅうとはこういう事なのだろうと、僅はおやつの団子を頬張る。
腰掛ける縁側には緑茶の入った湯のみが置いてあり、気づけば桜の花びらが一枚船のように浮いていた。
「まーた食っとるのか。肥えるぞ」
背後からかかる低い声に、団子を頬張ったまま振り向く。
「あたし酒呑みたいにぐーたらじゃないから太んないもーん」
「誰がぐうたらだ、ちびすけ」
僅の頬を両方からむいっと少し抓ると酒呑童子は僅の横へどさっと腰を下ろす。
「良う晴れたな」
「ね。だから今日お布団干したんだよ。夕方取りこんでね」
「えー…」
「もー!あたしより力もちなんだから!それくらいやって!」
「夕餉を肉料理にするなら考えてやっても良いぞ」
「昨日ハンバーグにしたでしょ!今日はお魚!」
「じゃあこいつで聞いてやろう」
酒呑童子は縁側に置かれた皿から最後の1本の団子を取ると、二口で平らげてしまった。
「あーっ!あたしのお団子!」
「いいだろ一本くらい。そう怒るな」
「んむむ…わかったあげる。その代わりお布団ちゃんと取りこんでよね」
解った解ったとむくれる僅を宥める酒呑童子だったが、突然何かに気づいたようにピクリと動きを止めた。
「…酒呑?」
「僅、片付けろ。客だ」
酒呑童子はそれだけ言うと、来客用の部屋でもある自身の部屋へ向かった。
「あーん!待ってよぉ!」
「儂が待った所で客は来るぞ。早う片せ」
僅は串に刺さった最後の一つを急いで口に入れると、パタパタと食器を台所へ持っていった。
「騒がしい奴だ」
慌てふためく弟子の後ろ姿を見つめ、酒呑童子はふ、と笑みを零した。
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それから社に来客の姿が見えたのは、わずか十分後だった。
僅が玄関を開けると、その向こうには少年がちょこんと立っていた。
数えて五つほどだろうか。九歳の僅よりも小さく見えるその少年は、通過儀礼とでも言うように僅の額から伸びた日本の角をみて口をぽかんと開けていた。
「えーっと、大丈夫だよー。お姉ちゃん鬼だけどキミのこと食べたりしないから」
「ほんとにいたんだ…」
少年は蚊の鳴くような声で呟いた。
「ひとりでここまで来たのー?えらいねー!大変だったでしょ?」
少年を家にあげ、酒呑童子の部屋まで案内する途中、僅は少年に明るく話かけると少年は短い返事だが「うん」とか「ううん」と返事をくれていた。
「よし、じゃあちょっとまっててね」
酒呑童子の部屋の前まで来ると「しゅてーん。入るよー」と声をかける。
「ああ」と言う返事を聞き、襖を開けると、酒呑童子は既に巻物と筆を準備した状態で待っていた。
(前に「なんでいちいちあたしが持ってこなきゃいけないの!お部屋においてて!」と抗議した結果、酒呑童子の部屋に常備されることになったのだ)
そして、これまた通過儀礼のように酒呑童子の存在と見た目にぽかんと棒立ちになってしまっていた少年に「入るがいい」と酒呑童子は入室を促す。
酒呑童子の向かいに座った少年は、酒呑童子の威圧感もあってか(威嚇してる訳では無い、ただ身長2メートルの角の生えた女性がいればそうなるのだ)、蛇に睨まれた蛙の様に縮こまり、話そうとしない。
「さて、ではお前の悩みを聞こうか。言うてみろ」
その様子を受けてか、普段よりも少し柔らかく酒呑童子は声をかける。然し依然として少年は縮こまったまま、たまに前を向きなにか言おうとする動作は見せるが、すぐに諦めたように声も出さずまた俯いてしまう。
そんな動作を何度も繰り返していた。
「えっと…大丈夫?安心して、こわくないよ」
僅が声をかけるも、少年は黙りだった。
その様子を見ていた酒呑童子は、突然立ち上がり、部屋の隅にある書棚の方へ向かうと、巻物と筆を持ち、それらを少年の前へ置いた。
「喋れぬのなら、無理に喋れとは言わん。
しかしお前はここに辿り着けるほど追い詰められた身。
儂に敬意を払いわざわざ山の中の社を見つけだした人間を無下にする程儂は非道ではない。
ゆっくりと、お前の速さでいい。その紙に書いてくれるか。
何があって、何を儂に頼みたいのか」
酒呑童子は少年へゆっくりと、言い聞かせるようにそう告げた。
すると、少年はこくんと頷き、筆を使い拙い文字をつづり始めた。
慣れない筆で書かれた文字が酒呑童子に読めるよう向きが変えられる。
『ママをたすけて』
酒呑童子はその文字を見、次に少年を見つめ問うた。
「お前の母親が、一体どうした」
『くるしんでる。からだじゅうにへんなもようがいっぱいでた』
「変な模様…」
酒呑童子はそこまで少年から聞くと、ふむ…と考える。
『ママつらそう。おねがいします、たすけてください』
「まあ待て。その体にでてきた模様は、ただの模様か?それとも文字か?」
『ことば』
「何が書かれてあった?全部でなくて良い。思い出せるものを教えてくれ」
その言葉を聞くと、少年は記憶を探っているのか、首を傾げ悩んでいた。
ふと、酒呑童子は少年のこめかみにある傷に気づき、そして目を伏せた。
少年は思い出したのか、すらすらと言葉を書き連ねていく。
「書けたか。見せてみろ」
酒呑童子は少年から巻物を受け取ると、言葉を失った。
『ばか、ろくでなし、できそこない、くず、しね、きえろ…』
他にも、言葉に出すには億劫な罵詈雑言が散りばめられていた。
「なにこれ…」
横から見ていた僅は思わず青ざめる。
「…少年。母親の持ち物か、触れたものは今あるか。それか、お前が母親から貰ったものだ」
酒呑童子は先程と変わらず、ゆっくりと、少年に話しかける。
否、先程とは少し違う。優しい声色から、それは低い声へと変わった。
その変化は、紙面に連なった罵詈雑言に対する酒呑童子の感情によるものだった。
少年はズボンのポケットを弄ると、鍵を取り出した。
恐らく少年の家の鍵だろう。ビーズで作られたクマが紐に繋げられぶら下がっている。
酒呑童子は巻物に紋を描く。
依頼が妖や霊の類による物か判断するための紋だ。
酒呑童子はその鍵を受け取ると、紋の上に置く寸前、少し躊躇うように呟く。
「儂の予想が、外れていればいいが…」
鍵がそっと紋の上へ置かれると、紋は形を変え、『呪』の一文字を編み出した。
その後ろにぼんやりと漢字二文字が浮かんでいる。
人の名前のようだ。
「奇子…これが誰の名前か、わかるか少年」
『ママ』
少年は紙面にそう書いた。
すると酒呑童子は一層深く眉間に皺を刻み、チッと舌打ちした。
「少年。悪いがこの依頼は降りさせてもらうぞ」
そう言うと酒呑童子は鍵を少年に返し、帰るように言った。
「はぁ!?ちょっと!酒呑何言ってんの!?」
そのまま部屋から去ろうとする酒呑童子の背中に、声を荒らげたのは僅だった。
僅の大声に少年は少しびくりと躰を震わせる。
「降りさせてもらうと言ったんだ。儂はこの依頼は受けん」
「何で!?あれって呪いの紋でしょ?呪われてるんでしょ!?早く助けてあげないと!」
「…あの紋の意味を理解しておるのにまだ解らんのかお前は」
「解るよ!呪われてるんでしょ!この子のお母さんが!」
「だから何故そこまで解るのにその先の意味が解らんのだ!!」
酒呑童子の部屋を揺らすほどの怒号に僅は少し怯むが、それでも酒呑童子をきっと睨み、ハッキリとした口調で言い返す。
「…もういい!酒呑がやらないならあたしが行く!酒呑のバカ!困ってる人がいるのに助けないなんて!むげにしないなんて嘘つき!」
僅は怒鳴ったあと、口を引き結び酒呑を睨んでいた。その表情は、どこか辛そうにも見えた。
然し、酒呑童子は振り返ることも無く言葉を吐き捨て去っていった。
「勝手にしろ」
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「ごめんね~!おまたせ!じゃあお母さん助けに行こっか!」
道着に着替え、腰に愛刀の槍雨と初雪携えた僅は、玄関前で少年に明るく声をかける。
「…ごめんなさい。ぼくのせいで、けんかになっちゃって」
少年は消え入りそうな声で呟く。
「大丈夫だよ!酒呑が意地っ張りなだけだから、気にしないで!それにあたし一人でも呪いぐらいなら解けれるから!」
僅は少年ににっこりと笑いかけた。
「じゃあお母さんの所に案内してもらってもいい?」
山を降り、左手に進み、ボロボロの無人駅から繋がる踏切を越える。
僅は少年と手を繋ぎながらその道を進み、ここは少し、少年のような小さな子が進むには危ないと感じていた。
「あ、そういえば君、お名前は?」
「…みずき」
「みずきくんか~。いい名前だね。あたしは僅だよ」
じゃあみっくんって呼ぶね!と言う僅の言葉に、みずきは頷きながら繋がれた手に少し力を入れた。
「みっくんはお母さんの事好き?」
「すきだよ。ママ、おこるとこわいけど、いつもはやさしいから」
「そっか~」
少し嬉しそうな顔で母親の話をするみずきの顔を、僅は微笑みながら眺めていた。
みずきの家は、踏切を越え、道路を渡り、交差点を渡り、線路沿いの集合住宅にあった。
「すごい……」
僅は唖然とする。そこはいっけん何も無い閑静な集合住宅だが、妖である僅の目には、その一室がどす黒い呪気に包まれているのがわかった。
あまりの禍々しさに、鳥すらその部屋には近づかない。
そしてそれは僅と手を繋いでいたみずきの目にも見えており、みずきは思わず僅の後ろに隠れる。
「大丈夫だよみっくん。お姉ちゃんが助けてあげるから!ここからお家まで案内出来る?」
みずきは先程の光景に依然として青ざめたままであるものの、こくりと頷いた。
僅は怯えるみずきを後ろに匿いつつ、部屋へと近づく。
棟を見つけ、階段を上るが、5階にあるその部屋に近づこうとする度に足が重くなり、頭が何者かに上から押し付けられるような感覚がする。
4階にまで辿り着くと、上の階から小さく女性の呻き声のようなものが聞こえた。
「ママ……」
みずきは縋るように呟く。
この声の主は呪いに苦しむみずきの母親の物なのだろう。
すすり泣き、時折苦しみに耐えかね叫ぶ声を聞く度に、僅の中にはこの依頼を降りた酒呑童子への腹立たしさが混み上げる。
僅にとって、母とは、親とは無くてはならないものだった。
まだ幼い自分を導き、正し、育み、共に笑ってくれる家族だ。
ましてや僅よりも幼いみずきにとっては、その母親の価値はさらに重みを増す。
呪いは、命を簡単に奪う。
人は勿論、その威力は動植物を問わない。
この幼い少年から母親を奪うことがどれ程非道か解らぬ酒呑童子ではない。
だからこそ何故酒呑童子が動かなかったのか僅には解らない。
(酒呑のバカ!お母さんを亡くすのがどれだけ辛いのか、わかってるくせに!!)
思わず下唇を噛み締めた。
僅には、肉親を喪う痛みが解る。
それがどれ程の後悔や悲しみに侵されるのかも知っている。
その悲劇を黙って見ているわけにはいかなかったのだ。
みずきが暮らす部屋の扉の前へたどり着くと、そこは辺り一面がどろどろとした呪気に包まれていた。
僅は恐る恐る鉄でできたドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
扉を開けると、そこから煙のように呪気が這い出てくる。
足を取られないようにそろりと中へ入った。
奥の方から母親の呻き声が止むことなく響いてくる。
「ママ…」
みずきが部屋の奥へと呼びかける。
しかし、帰ってくるのは呻き声だけだった。
中に進むと、僅は愕然とした。
リビングの真ん中に母親は蹲るように倒れていた。
その上から呪気が文字となって鎖を成し、母親を雁字搦めにしているのだ。
その呪気は母親の肌にまで侵食し、様々な言葉が母親の肌を這い回っている。
「ひどい……」
僅は固唾を飲みこみ、懐に忍ばせた瓢箪を取り出す。中に入っている聖水が静かに揺れた。
「みっくん大丈夫。もうこれで良くなるからね」
そう言うと、僅は瓢箪の栓を抜き、聖水を母親へ撒いた。
然し、聖水は鎖に触れた途端、音を立てて蒸発したではないか。
「えっ…!?」
もう一度聖水を撒くも変わらず、呪気にも変化がない。
ならばと今度は袂から札を取りだし、清めの呪文。精印の呪いを唱える。
忽ち札は円錐に列を組み、母親を呪気ごと覆う。
「これできっと…!」
札が力を増そうと光を放ち、僅も勝利を確信した。
だが、それは直ぐに砕かれる。
白かった札はまるで染み入るように黒く染まり、ぼろぼろと崩れ始めたのだ。
「なんで!?いつもはこれで…っ!」
僅は今迄も何度か呪いを解く為の依頼に酒呑童子と同行した事があった。
その時はいつも聖水を撒き、清印を結べば呪いは解けるのだ。
だが目の前のみずきの母親を縛る呪いは一向に解ける気配もなければ、渦を巻き、さらにそのどす黒さを増している。
「なんで…?」
母親は息も絶え絶えで、最早呻くことすら叶わない。
僅は己の無力さに視界が滲んだ。
「そんな物で解ける訳がなかろうが」
突然、背後から降ってきた聞き慣れた低い声に僅は振り返る。
「酒呑…!」
「泣くな。先ずは母親の呪いを解くぞ。手伝え」
僅は心が軽くなるのを感じながら、酒呑童子の顔を見上げるが、酒呑童子は呪いに苦しむ母親から視線を逸らさず、ただ難しい顔をしていた。
酒呑童子は母親の元へ歩み寄る。
呪気は酒呑童子を避けるように道を作り、尚も母親から離れようとはしない。
酒呑童子は蹲る母親の前に屈んだ。
「お前か。奇子と云うのは」
母親から返事はない。
しかし、酒呑童子は最初から返事など期待していなかった様に続ける。
「何故お前は自分の息子を認めてやらん」
酒呑童子の瞳は、冷たく母親に突き刺さる。
またも、母親から返事はない。(出来ないとも言う。意識さえ危うい)
「お前は此奴が人前で話せない事を解っていたんだろう。何故それを認めて寄り添えんのだ」
僅は合点がいかず、どういう事…?とぼやく。
「何処までも鈍い奴だ。まぁいい。
奇子よ、いいか。
お前が息子を殴り、怒鳴りつけた所で何も変わらん。ただ変わるとすれば、悪い方へ転がるだけさ」
伏せていた母親の手がぴくりと動く。
顔は振り乱れた髪で見えないが、口元が微かに動いている。
何かを話そうとするその口から洩れるのは、言葉にならない呻きと、黒い煙の様な呪気。
『……ぁ゛………ぃ』
「何?」
『わたしは…、ま、ちがっ、て……ない……、』
人の声とは思えなかった。
幾層にも別々の声が重なり合ったような不気味な声音だ。
「何故そう思う」
『あの、こが……しゃ…べらな、い、から…………
言、う事を……きかない……か、ら……』
『だから……』
母親の消え入るような声に酒呑童子の眉間の皺は一層濃くなる。
「其れが、我が子に手を上げる理由になるのか。
お前はお前の気持ちで動くのに、我が子の気持ちは汲めなんだか」
「お前が怒鳴りつけ、此奴を打って、何が解決した。
知らん訳では無かろう。此奴の喋れん理由を。
子は、親の理想を叶える為の人形では無い。
お前がどれ程現実から逃げた所で変わらない」
リビングのゴミ箱には病院名の記載された封筒が無造作に捨てられていた。
その封筒は一通ではなく、何個も入っており、病院名もあらゆる病院の名が書かれていた。
「奇子。
儂はこのままお前を見殺しにしても構わん。
だがお前に幾ら非道な仕打ちを受けても尚、お前を救いたいと願う者がおる。
お前次第だ。お前が今まで我が子にした仕打ちを悔い、詫びるなら、儂はお前を救おう」
酒呑童子のその言葉に、部屋を取り巻く呪気が次第に穏やかになって行く。
『…ぃ……ごめ、ん、なさい……ごめんなさい……』
「向き合え。そして導き、支え合え。
お前の掌は理不尽な支配の為にあるのでは無い」
酒呑童子は立ち上がり、懐から小さい瓢箪を取り出し、上に向けて放った。
瓢箪に向けて指を鳴らせば、緑の光の欠片が瓢箪目掛けて飛び、その瞬間爆ぜた。
瓢箪の中に入っていた聖水が撒かれ、呪いが昇華されてゆく。
ものの十秒程で呪気は完全に消え失せた。
床に横たわる母親の左手には、包丁が握られていた。
「惨いことを考えるものだ。愚かな人間は」
酒呑童子は母親の手から包丁を取り上げると、ふっと息を吹きかける。
呪いで黒く染っていた包丁は灰のようにぼろぼろと崩れ去った。
酒呑童子は母親の首に手を当て、脈があるのを確認すると、部屋の隅で震えていたみずきの元へ歩み寄る。
「少年」
みずきがおそるおそる振り返ると、そこには目線を合わせるため屈んだ酒呑童子がいた。
「お前の母は助かったぞ。良かったな」
そう言うと、酒呑童子はみずきの頭を乱暴に撫でた。
「僅。もう用はない。帰るぞ」
「えっ!でも……」
「母親なら心配いらん。よく眠っとるだけさ。直目も覚める」
「うん……」
僅はみずきにばいばいと手を振ると、足早に立ち去ろうとする酒呑童子の後を追いかけた。
「ありがとね」
夜、昼間は団子を頬張っていた縁側で僅は酒呑の盃に酒を注ぎながら小さく告げた。
「ん?」
「助けてくれたじゃん。ありがとう」
「あぁ…」
酒呑童子は注がれた酒に映る月を少し眺めた。
「勘違いをするなよ。儂としてはあの母親を見殺しにしてやっても良かったんだ」
「でも助けてくれた」
「助けなければ、お前が自分のせいだと思い込むのは目に見えていた。だから助ける形になった迄の事だ」
そう言うと酒をぐいっと煽る。今日の酒は辛口で、酒精の香りと共にぴりりとした刺激が舌から喉へ駆け抜けた。
「そう言えば、なんで最初助けないって言ったの?」
僅がそう聞けば、酒呑童子は盃から口を離し少し悩む素振りを見せた。
「……お前に云うのは…気が引けるな」
「なにそれ!言うまで言い続けるかんね」
僅は摘みのあられをぽりぽり齧りながら言った。
酒呑童子は少しの間悩むと、溜息を着いた。
「あの母親が、理不尽に我が子に酷く当っていたからさ」
僅は「どういうこと?」と首を傾げる。
「あの少年。お前と居る時は喋っていたか?」
「うん、お喋りしてたよ」
「そうか…。奴はな、特定の条件が揃った場所だと、喋りたくても喋れんのだ」
「喋れない?」
「儂に依頼を頼みに来た時、声が出とらんかっただろ。恐らく大人と面と向かった状況になると喋れんのだろうな」
僅はそこで少し合点が行った。確かにみずきは酒呑童子と対面した瞬間喋らなくなっていた。
「あの母親も恐らくその事は知っていたんだろう。だが受け入れられなかった。受け入れられぬ故に正しく導けなかった。
病ではないと、そう思い込み、喋らないのは息子の性格だと決めつけたんだろう」
「言えば解る筈、言って解らねば叱れば解る筈、叱って解らねば打てば解る筈……。その考えがあったんだろうな。
少年は態とやっている訳でも、ましてや悪い事をしている訳でもない。自分の意思でやっている訳ではないのだからな。
だから言ったところで、打ったところで、解決になんかなる訳がないんだよ」
酒呑童子は盃に酒を注ぎ、一口飲む。
「母親を縛っていた呪い。あれは言霊と言ってな。母親が少年にかけていた言葉の呪いだよ」
「言葉には、微量だが魂がある。それが積もり積もれば怨念にもなる。
今回、その言霊が母親に跳ね返ったのは『天罰』と言う奴だ。神仏が理不尽に幼い命が奪われそうになる事に耐えられんかったんだろうな」
こんなことになっているのは初めて見たが、と酒呑童子は酒を流し込んだ。
「知らぬ事は罪ではない。だが知って尚変わらずにいる事は、罪に当たると儂は思う」
僅は自分の手の中で揺れる盃の中の酒を見つめる。
「…私ね、みっくんのお母さんがいなくなるのが耐えられなかったの」
「あぁ」
「だって、みっくんあんなにちっちゃいんだよ。かわいそうだよ」
「あぁ」
「だから。……ごめんね。ひどいこと言っちゃって」
「気にしてないさ」
僅は少し泣きたいような気持ちだった。
「清印も失敗しちゃった。酒呑に教えて貰ったのに…」
「いや、よく出来ていた。ただあの呪いが強すぎたんだ。儂とて呪いを緩めん限りは厳しかったろうよ」
酒呑童子は僅の頭を撫でる。
「…みっくんのおかあさん、これから大丈夫かなぁ……」
「どうだろうな」
「…酒呑は、みっくんからお母さんがいなくなっても、いいって、思えたの?」
「……」
酒呑童子は少し目を伏せる。
「思ったかもな。
儂はお前の様に親に対して情が湧かん。感覚が違うんだ」
「酒呑は、お母さんが嫌いなの?」
僅のその問いかけに、酒呑童子は言えぬ言葉を飲むように、酒を一口に煽った。
「…儂は」
「親という存在が嫌いだよ」
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一週間後、祈人町は商店街。
時刻は昼過ぎを指していた。
「きょーおのばーんご飯どーしょっかなー」
僅は大きな編みかごを振りながら呟く。
人に化けている為、額に角はなく、服も今の子供が来ているようなワンピースだ。
鬼の姿で山から降りると、姿を見てもらえないため買い物ができないのである。
「久々に洋食にしよっかなー。うーん…スパゲッティにしよっ。ひき肉買わなきゃ」
僅は右手側にある精肉店へ駆け寄る。
「ひき肉くーださい!」
「おや、僅ちゃん。えらいねーまたお使いかい?」
「うん!」
「ひき肉ねぇ、晩御飯かい?何にするの?」
「ミートソースのスパゲッティするのー!」
「いいねぇ。じゃあ合い挽き肉だね。ちょっと待ってて」
すっかり顔見知りな精肉店のおばちゃんから貰った飴を舐めながら店の横で言われたとおりに待っていると
「ママー!」
聞き覚えのある声が僅の耳に飛び込んできた。
そちらの方を見れば、小さな少年が母親に駆け寄っていた。
母親は屈んで少年を受け止め抱きしめる。
「みっくん今日は何食べたい?」
「カレー!」
「じゃあ目玉焼きものせよっか」
「うん!」
少年と母親は手を繋いで僅の目の前を通り過ぎて言った。
きっと、もう僅と酒呑童子の事は、二人とも覚えていないだろう。
鬼神と関わった記憶とは、そういう風に出来ているのだ。
一日でも早く、普通の生活に戻れるよう、酒呑童子の計らいである。
幸せそうでよかった。
僅は顔が綻ぶのを感じる。
りんご味の飴も、もっと美味しく感じた。
「僅ちゃーん。はいお待たせ、合い挽き肉ね」
「ありがとうー!おいくらですか?」
祈人町の春は、桜の散る季節を行く。