壱噺「露に濡れつつ」
日差しが暖かく、空は蒼く、桜が咲き始める頃。
ここ、祈人町にも春が来つつある。
その祈人町の中央に聳える傀儡山の入口には、春に似合わぬ浮かない顔をした少女が立っていた。
名前を大津 舞と云ったこの少女には一つの悩みがあった。
それは、次第に大きくなり、舞や両親だけでは手に負えず、医者にいけども匙を投げられる始末だ。
そんな打つ手のない悩みにもはや耐えきれず、家庭や精神の崩壊はすぐそこに迫っていた。
どこにでも付きまとう悩みに心が疲弊していく日々の中、このままではいけない、気分転換に散歩にでも行こうと外に出た。
そんな中、ふと通りかかった傀儡山に足を止めた。
街の真ん中に壁のようにそびえるその山は、ちょっとした登山道として普段使われているものの、整備されている道以外は地盤が不安定で、オマケに夕方にもなれば5歩先も見えない程辺りが暗くなるため、毎年子供や高齢者の事故が後を絶たない場所であり、舞も小さな頃から「1人では行くな」ときつく言われてきた。
然し、この山には七不思議や都市伝説のような、不思議な噂がある。
『傀儡山に住む鬼神様は、敬意を持って崇める者の願いを叶える』と。
なんでも、山の奥の灯篭の二つ並んだ見上げる程の石造りの階段、そこを昇った先に鬼神様の住む社があり、そこに御参りに行き、願い事をすれば、鬼神様が表れ、叶えてくれると言われていた。
しかし、ここは先程もあったように危険区域とされる程険しい山。
整備された登山道にはそのような灯篭も石造りの階段もなく、入口の案内板にもそのような場所は記されていない。
ましてや手付かずの場所にはうっかり足を踏み外せば命を落としかねない崖がわんさかとある山だ。
わざわざ胡散臭い噂の為に命をやすやすと危険に晒す馬鹿は居ない。
いくら実際に願いが叶ったと言っている人間が一定数いるからと言って、普通の人間ならそんなものは探さないのだ。
普通の人間ならば。
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舞は自分でも己を馬鹿だとは思った。
登山ルートを一通り見て回ったが、当然灯篭も石造りの階段も見当たらなかった。
そこで引き返せば良かったものを、ならばと思い道を区切る柵を越え、今は森の奥へぐんぐんと進んでいた。
足場はすこぶる悪く、足を何度も捻ったものの、うっすらと出来ている獣道を進むと足場の悪さは気にならなくなった。
気がつけば、山に入るまで昼過ぎだった街は夕日の朱に染められ、建物の影が黒く伸びている。
さすがにもう引き返そう。そう思い後ろを見るも、道はなく、似たり寄ったりの木が鬱蒼と茂るばかり。
横を見渡しても、景色は同じでもはや元の道に戻ることすら叶わないことを悟った。
仕方が無いと携帯を取り出し地図を開こうとするも、何故か電源が入らない。
「えっうそっ、ちょっと…!」
何度も電源ボタンを押し、長押ししたりするものの、役目を忘れたそれは文明機器からただの板に成り下がっていた。
「最悪…」
舞は携帯をポケットにしまい、項垂れ盛大にため息をついた。そうする他なかった。
傍にあった木に力なくもたれ掛かると、ポケットから出ていた携帯のチャームが小さく音を立てる。
しかし、春先とはいえ日の入りは早い。こうして途方に暮れている内にも太陽は地平線に沈んでゆき、辺りの夕闇はより一層深さを増す。
こんな所で野宿はごめんだと思い、とりあえずは道を探そうと舞はまた歩を進めた。
もうどれくらい歩いただろうか。
もう目の前は暗く、陽は完全に沈んでしまった。
体感ではかれこれ3時間はさまよったように感じる。
というのも正確な時間を調べようにも本来ただ散歩に出かけただけの舞の腕には時計などついておらず、依然として携帯は起動しない。
スニーカーは土で汚れ、服のあちこちに葉の屑や汚れがついている。
転ばないように踏みしみて歩いていた足にも疲労が纏わりつく。
舞は泣きたくなった。いくら追い詰められていたからと言って、どうして迷信など信じたのか。
どうして一瞬でも噂だけの社を探してみようなど思ったのか。
「何が鬼神様なの…ほんとにいるなら、助けてよ……」
情けなさで声が震えた。
もうこの際なんでもよかった。もしこの山に鬼神様という神様が本当に居るなら、助けて欲しい。
どうか、お願いだから。
そう思うのは諦めもあったが、本心でもあった。
人間とは、窮地に立たされればどんなに信憑性のない話でも縋ってしまうものなのだと感じた。
そうでなければ、人は元来の弱さに負けてしまう生き物なのだと。
伏せていた顔を上げると、視界の斜め上にぼんやりと光を見つけた。
舞はハッと息を呑む。
目を凝らすと、その光は見間違いなどではなく、その場所をはっきりと照らしていることがわかった。
舞は明かりを目掛けてよたつく足で近づく。
きっと登山道の街灯だろう。良かった、これでやっと帰れる。
土の壁をよじのぼり、岩場を飛び越え、何度も転けそうになりながら、何とか明かりの元へとたどり着いた。
最後の土の壁を登り終えたところで、舞は辺りの景色に違和感を感じた。
ここは、どこだろうか。
道の脇に広がる森と違い、舞が今膝をついている道は、確かに道として整備されている物だが、そこは舞の知る傀儡山の登山道とは違い、道脇に柵はなく、オマケに道は石畳で作られていた。
極めつけは目の前にそびえる、見上げるほどの石造りの階段だった。
階段の登り口には二つ灯篭が並び、中で火が揺れている。
階段の上からはぼんやりと明かりが見え、そこが無人ではないことを表しているように感じた。
灯篭に火が点っているという事は、ここに人がいるかもしれない。とりあえず電話を使わせてもらおう。家に連絡を入れなければ。
舞は石造りの階段を登り始めた。
階段の上までつくと、開けた場所に出た。
右の手前には日本家屋のような家が立っており、奥には社のような建物と塔が見える。
ここは神社かなにかだろうか。
とりあえず舞は日本家屋の方へと近づいた。
家の窓からは明かりが漏れており、玄関先の明かりも着いている。
きっと神社を管理している神主の家だろう。
「あの、こんばんはー。すみません、誰かいませんか?」
声をかけ、玄関の磨り硝子の引戸を軽くノックする(インターホンがないのだ)。
しばらくの沈黙の後、「はーい!」と奥から明るい声が聞こえた。子供の声だ。
良かった人がいた。舞は目を伏せほっと息をつく。
扉の向こうの人物は引き戸の鍵をカチカチと開けると、「こんばんは~!どちらさま?」と尋ねた。
「夜分にすみません。ちょっと道に迷ってしまって、電話をお借りしたいんですけ………」
舞の言葉は目線があげられると同時に消えた。
目の前の光景に戸惑い何も言えなくなったのだ。
舞の目に飛び込んできたのは、年端もいかない女の子だった。丈の短い着物を来ており、髪の毛をツインテールでまとめている。
さすがにそれだけでは驚きはするが言葉に詰まるほどでは無い。
舞を1番困惑させたのは、少女の額から伸びる2本の大きな角のようなもの。
そのあまりの非現実的な光景に、舞は動けなくなった。
少女は固まってしまった舞をみてきょとんと首を傾げる。
「お客さん?」
その言葉にも舞は「は……ぇ……」と言葉にならない声を発することしか出来ない。
少女は、舞の視線に気づいたのか、自分の額の角に触れ
「あっ、もしかしてびっくりしちゃった?ごめんね、怖くないよ。」と笑ってみせた。
舞はハッと我に返ると、夢でも見ているのかと思い、自分の手の甲を抓ってみた。じんわりと痛い。
「ここに来れたってことはお客さんでしょ?入って入って~」
少女は戸惑う舞の手を引き、中へと招き入れた。
立派な作りの広い玄関は、旅館を思わせるような佇まいで、目の前の左右正面に長く伸びる廊下の横には、襖がずらりと続いていた。
少女は玄関に鍵をかけると、舞に靴を脱いで上がるよう促し、「ちょっと待ってて」と走って奥へと消えていった。
言われるがまま、靴を脱ぎ玄関の縁に腰掛けて待っていると少女が小さなタオルを持って戻り「お姉ちゃんどろんこだからこれつかって」とタオルを舞に差し出した。
舞は少女に感謝を言いつつタオルで泥や汚れた部分を軽く払うと、少女は舞の羽織っていたパーカーを預かった。
「ごめんね~、わかりづらかったでしょ?」
と、2人で長い廊下を歩きながら少女は舞に申し訳なさそうに言った。まるで舞がここに来る事を前提としていたかのような言葉だ。
「えっ…と、まぁ…。なんで、私がここに来るって……」
「えっ?ここに来たかったんじゃないの?
ここはね、ここに住んでる酒呑童子って鬼を信じた人しかたどり着けないところなの。
お姉ちゃん、酒呑に何かお願いしなかった?」
「お願い…」
舞は記憶を辿る。言われてみれば、迷った時に「鬼神様が本当にいるなら助けて」と思った瞬間があった。
しかし、「酒呑童子」という者は知らないと話すと、少女は「言い伝えだと鬼神様って呼ばれてるの」と答えた。
舞は『言い伝え』『鬼神』という言葉に引っかかるものを感じた。
それは時間を置くこと無くすぐに答えになった。
舞が迷ったのは傀儡山、そして迷った先に見つけた石造りの階段と並んだふたつの灯篭、その先にいた頭に角の生えた少女。酒呑童子という鬼。
愕然とした。まさか本当だったなんて。
舞は少女の見た目のインパクトでそんな簡単な違和感にも気づけていなかったのだ。
「おーい、お姉ちゃん大丈夫?」
驚きのあまり立ち尽くしていると、少女が舞の顔を下から覗き込んでいた。
「う、うん。大丈夫」
「よかった。じゃあちょっと待っててね」
そう言うと、少女は目の前の右手にある襖に声をかけた。
「しゅてーん?お客さんだよー!」
舞は襖を眺める。そこの襖はほかの部屋と違い、薄緑色の襖紙が貼られており、竹が水墨画で大きく描かれていた。
「入れ」
中からは低い女の声が帰ってきた。
少女は襖を開けると、「おいで」と舞を促した。
中にいたのは、大人の女性だった。
長い髪に、片方だけ脱がれた着物。ここの王だと言わんばかりの貫禄で肘掛けにもたれ煙管を蒸かしていた。
女性には、少女と違い、頭の左右に角が生えていた。
「座るがいい」
酒呑と呼ばれたその鬼は、舞の方を見ることも無く、机を挟んだ向かいにある座布団を顎でくいと指した。
舞は恐る恐る部屋に入る。部屋には香が焚かれており、良い香りが漂っていた。
舞が向かいに座ると、酒呑童子は煙管を最後にひと吸いすると、傍にあった竹筒のようなものに煙管の先をカン!と打ち付け火種を落とした。中から火の消える小さな音がした。
酒呑は少女に「僅、筆と紙を持ってきてくれ」と頼む。少女の名前は僅と言うらしい。
「名は?」
「大津 舞です…」
「ほう。では悩みを言ってみろ。
お前が社を探すきっかけの悩みを。山を降りたいと願う前の悩みをな」
どうして迷っていた時のことがバレているのか、と顔に出ていた舞に、酒呑は「この山に社を探して来た人間の考えは儂には筒抜けなんだよ」と僅の持ってきた筆に墨を染み込ませながら答えた。
「はい…あの、本当に、叶えて下さるんですか…?」
舞が消え入りそうな声で聞くと、酒呑は短く息を吐き、「物によるさ」と答えた。
「お前らは儂を勝手に神だと言っているが、儂は只の鬼だ。万能じゃ無い。お前達の悩みが儂に解決できる事であれば協力してやると云うだけの話だ」
「解決出来る悩み…?」
「例えるなら、妖や悪霊の悪さによる悩みだな。それ以外は儂に持ってこられたところでどうも出来ん」
酒呑童子は困惑する舞の目を見据える。
「何にせよ、お前が話さん事には始まらんのだ。言うてみろ」
「はい……。」
舞の表情が曇り始める。
僅がその様子に声をかけようとしたが、酒呑童子により止められた。
「私の…姉が、自殺行為をやめないんです。
首を吊ろうとしたり、飛び降りようとしたり、道路に飛び出そうとしたり…手首を切ってお風呂に着けている時もありました…。
姉は明るい人で、滅多に悩みを打ち明けたりしない人だから、私や両親も、きっと余程なにかに追い詰められたんだと思って、病院やカウンセリングに連れて行ったり、姉に寄り添ってきました」
度重なる姉の自殺行為に、舞や両親は日々心をすり減らしていた。
何度も止めて説得して、それでも尚止まらないその攻防戦は、始まってから早1年が経過していた。
「心を病んでいるということか?」
「そう…思っていたんですけど…」
舞は一瞬口篭ったものの、また口を開いた。
「姉は……今までの自殺行為を、何一つ覚えていないんです」
酒呑童子の眉がぴくりと動いた。
「覚えていない?」
「おかしいですよね…自分で縄をかけたり、ビルの屋上に行ったり、道路に飛び出したり、手首を切り刻んでいたのに、その事について問いただしても、何も覚えてないんです」
舞の声が涙混じりになり震える。
「最初、は、隠してるのかなって、私や両親に迷惑をかけないようにしてるのかと思って、いつかは話してくれるだろうって、思ってたんです。でも、全然理由を話してくれないし、今までしてきた自殺行為も全部覚えていない、そんなことしてないの一点張りで、お医者さんに連れて行っても、うつ病でも精神疾患でもないって言われて…でも姉が嘘ついてるようになんて見えなくて……、どうしたらいいのか…」
舞の握りしめた拳に涙が落ちる。
しゃくり上げる声は、姉の死という恐怖にいつも脅えながら生きてきた舞の心の叫びのようにも聞こえた。
僅はいてもたっても居られず、舞の背中を摩り、「辛かったねぇ、怖かったねぇ」とティッシュを差し出す。
酒呑童子は舞の話を聞きながら筆を走らせた巻物をじっと見つめている。
「わかった。確かに噂話にも頼りたくなる悩みではあるな。
さて、舞と言ったな。姉の私物などは持ってないか。私物でなくても、姉がおかしくなってから触ったものでもいい。何かないか」
「私物…」
舞は衣服を上から軽くポンポンと叩く、ふと、ポケットに携帯電話があるのを見つけた。
取り出してみると、携帯の端には『まい』と書かれたネームプレートと星型のビーズが着いたチャームがぶらさがっている。
「あ、これ…」
舞は携帯からチャームを取り外し、酒呑童子に差し出した。
「これは、姉が自殺行為を始めた頃にお揃いで買ったんです。気分転換に旅行に行った先のお土産屋さんで…。姉が選んでくれた物なので、一応触った物では…あります」
「ほう」
酒呑童子はチャームを指先でつまみあげ、じっと眺める。
「よかろう。少し借りるぞ」
そう言うと、酒呑童子は巻物を伸ばし、白紙の部分になにやら図形のようなものを描いた。
「確かにお前の姉の行動には少し気になる部分がある。その部分についての儂の読みが当たるかどうか、今から見てやろう」
酒呑童子はチャームをその図形の上に置いた。
するとどうだ。
図形の模様が変わり、なにやら禍々しい模様へと変わったではないか。
様々な線が折り重なった模様の上に現れた目のような図形は、素人の舞から見ても、不吉な物であることが手に取るようにわかった。
「当たりだな」
酒呑童子はチャームを紙から持ち上げ、「返そう」と舞に差し出した。
不思議な事に墨で書かれた紙の上に乗っていたはずのチャームには、墨どころか汚れ1つなかった。
「人間に対処出来ん筈さ。お前の姉は憑かれておる」
「つかれて…?」
「悪いものがつきまとってるって事だよ!」
「僅、お前は言わんでよろしい」
なんでー!と声を上げる隣に座っている僅をやかましいと軽くど突くと酒呑童子は続ける。
「何が憑いているかは今の段階ではわからん。ただ、このまま放っておけば一年持つかも分からん」
「そんな…じゃあどうしたら…」
青ざめて震えだす舞に酒呑童子は口の端をにっと上げて笑う。
「怯えるな小娘。お前はなんの為にここに来た。
さあ言ってみろ、儂にどうして欲しいかを」
舞は射抜くような酒呑童子の緑色の瞳に見据えられ、促されるままに懇願した。
「姉を…、姉を助けて下さい…!」
酒呑童子は顔に強かな笑みを浮かべた。
「幸運な人間よ。お前の悩み、この酒呑童子が引き受けた」
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舞は先程の巻物(酒呑童子曰く契約書)に名前を書くと一時的に帰路につくことになった。
姉の乃に憑いているものを払うために、乃本人をあの社に呼ばなければならないからだ。
帰り道を僅に案内してもらいながら、舞はチャームに貼られた小さな札を眺める。
『この札で暫しお前の家族を化かさせて貰うぞ。騒がれると面倒なのでな。
これがついている間、お前とお前の姉は人間から見えなくなる。その変わり、幻影がお前らの代わりを務める。
あと念の為お前はこの山で迷い始めた頃には家に着いていると札を通じて刷り込ませておいたから安心しろ。』
と先刻酒呑童子から貼られたものだ。
「さてと、お家どっち?」
気づけば山の登山道の入口まで降りてきていた。
「あっ、こっち。祝人小学校の近くなの」
「祝人小学校…おっけー!いこ!」
今度は先導を舞に変わり、僅はルンルンと後ろからついて行った。
大通りを過ぎて、角を三つ曲がり、踏切を渡り、歩道橋を渡り、祝人小学校の近くまで辿り着いた。
いつの間にか復活していた携帯で時刻を確認すると、ディスプレイには23:26と表示されていた。
祝人小学校の横、道路を挟んだ角から三番目の一軒家が、大津家である。
もう家の明かりは消えており、誰も起きている気配はない。
舞は家の鍵を出そうとパーカーのポケットを漁る。
すると僅が不思議そうに「さっきのに御札貼ってるから鍵いらないよー?」と、声をかける。
見た方が早いと言うように、僅が玄関の扉へ手を触れようとすると、不思議な事にその手は玄関の扉をすり抜けてしまった。
舞が目を丸くして驚いていると、「酒呑がはってくれたお札ね、おねえちゃんの姿も見えなくなるし、壁とか扉もすり抜けちゃうんだよ」と教えてくれた。
なんとも不思議な札だ。
家の中に入り、二階にある姉の部屋へと進む。
すると、ガタン!と物音がした。
姉の部屋からだ。
「乃!」その物音に舞は血相を変え、姉の部屋へ急いだ。僅もそれに続く。
乃の部屋の扉が乱暴に開かれると、そこには部屋の真ん中で首を吊る女性の姿があった。
「乃!!!」
先程とは比べ物にならないほどの悲痛な叫びを上げ、舞は乃の首に巻き付くビニール紐を引きちぎろうとするが、ピンと張った紐はなかなか切れない。
「どいて!」
舞は考える間もなく僅の叫ぶままに姉から離れると、僅の方から小さな光が素早く乃のビニール紐を掠めた。ビニール紐はブチッと音を立てて千切れる。
その瞬間、乃の体は支えを失い、力なく床にばたりと倒れる。
「乃…!乃!」
舞は必死に姉の体を揺さぶる。すると、小さな呻き声と共に、乃はゆっくりと目を開けた。
「乃…!」
「あれ…舞…?」
「何してんの!!大丈夫!?」
舞は涙混じりに怒鳴るが、乃は何が起きたかわからないと言うような顔をする。
「私…また何かしたの…?」
「そうだよ…また首吊ろうとしてたの……」
「……そっか……」
乃は自身の首に巻きついたビニール紐の残骸にそっと触れる。
その視線は不安と舞への申し訳なさで伏せられていた。
「ねぇ、舞。あの子誰?」
乃は目の前に立つ僅に気づく。
「あの子はね…、乃。あの子見えるの?私も?」
「え?どういう事?」
「えっ、だって、僅ちゃん他の人には見えないって…」
僅は混乱した2人に見つめられ、口を開いた。
「こんばんは、おねえちゃんのおねえさん。あたしはあなたの事を助けに来たんだよ!おねえちゃんにお願いされてね。」
きょとんと呆ける二人を他所に僅はにこっと笑い、続ける。
「おねえちゃんがおねえさんに触れるのはね、おねえちゃんがおねえさんを意識したからだよ。今のあたし達の状態とおんなじなの。他の人からは見えないし、他のものには意識しないと触れない」
「ねぇ、おねえさん。今からあなたを助けるために一緒に傀儡山に来てもらうね。詳しいことはそこで教えるから」
僅は乃の首についていたビニール紐を解きながら言う。
乃は舞と顔を見合わせると、舞はその言葉を肯定するように、首を一度縦に振った。
その数分後、一行は傀儡山へと向かった。
傀儡山は鬼神社、その一角にある祓いの間で酒呑童子は客と弟子の戻りを待っていた。
ふと、なにかに気づいたように立ち上がると、扉へと向かう。
「遅いぞ僅」
扉を開けると、幼い弟子が「遅くないもーん」と呑気な声を上げる。
その後ろに着いてきた二人の客人は、2メートルはあろうかという酒呑童子の大きさに気圧されている。
「いいからお前は早く道着に着替えて刀を持ってこい」
「はぁーい」
「それから、おい、お前。姉の方だ。これに着替えろ」
「えっ、あっ、はい…」
僅に着替えるよう促しながら、乃に長襦袢を差し出す。
「そこの間で着替えろ。着替えたら説明してやる」
乃はすごすごと部屋の壁に設けられた扉を開け、その中へと消えた。
数分後、祓いの間の真ん中には酒呑童子と僅に向かい合うように舞と乃が座っていた。
「さて、このちびすけから多少は聞いとるだろ。儂らはお前さんを助ける為にここに呼んだ」
「ちびじゃないし!」
「喧しい。
短刀直入に言うぞ。今、お前さんの体には良くない物が取り憑いとる。悪霊か、はたまたタチの悪い妖か。正体までは今はわからんが、これまでのお前の奇行はそいつによる物で間違いない。ここまでは解るな?」
乃はふざけているとは思えない雰囲気と、目の前の二人の容姿にこの突拍子もない話が事実である事を認めざるを得なかった。
納得ができた訳では無いものの、酒呑童子の言葉にぎこちなく頷く。
「よし、そしてだ。今から、お前の体に憑いた者を引きずり出して退治させてもらう」
「退治…ですか?」
「ああ。なに、心配いらん。お前は何もせんで良い。あそこに塩で作った円があるだろ。あそこに正座して目を閉じとればいい」
酒呑童子は後ろにある床に撒かれた白い円を親指で指差して言った。
「さてと、では始めようか。お前はあちらへ行け。お前は…おい僅。こいつの傍にいろ。結界を張っとけ」
「あいさー!じゃあおねえちゃんはこっちに居てねー。……見る?退治。」
僅が小声で尋ねると、舞はえ?と問い返す。
「うーん…なんて言うか、ちょっとね。この退治、ショックがつよいの。見てる方がね。だから、おねえちゃんがもし見たくないならこの部屋の外にいてもいいよ」
舞は少し困惑したものの、腹を括るように首を横に振る。
「ありがとう。でも、大丈夫」
その言葉を聞くと、僅は「わかった」と、舞から少し離れ前にでた。
『守護の壁よ。其の全てを護りに捧ぐ者よ。無双の鉄壁。無慈悲の鉄槌。鬼神 鬼童丸の名を御前の主とせよ。“尽壁”』
僅がそう唱えると、2人の前に光る半透明の壁が現れた。
舞がその光景に呆気に取られていると、その景色の向こうで、酒呑童子が円の内側に座る乃の元へと歩み寄っていた。
その手には酒呑童子自身にも負けぬ程の大きさの武器を携えている。
酒呑童子は乃のすぐ背後で歩みを止めると、その手に持った武器を大きく振りかぶった。
「え…何して……」
その大きな鉄の塊は真下にいる乃に一直線に振り落とされた。
「待って…っ!ダメぇえええええ!!!」
舞は思わず目を覆った。
しかし、いくら待っても無惨な音は響かない。
恐る恐る目を開けると、酒呑童子の振り落とした金棒は、乃の頭のすぐ上で止まっていた。
よく見れば、その頭には黒い何かがついている。
その黒いモノは煙のように伝い、金棒に絡みつく。
「そうだ…そのまま出てこい」
酒呑童子が金棒を持ち上げると、黒い煙はずるりと乃の体から引きずり出されていく。
まるで人の姿をしているようにも見えた。
「こいつは……悪霊だな。しかしまぁ…よくこんなデカいもんを…っ!?」
乃の体から引きずり出された悪霊は、酒呑童子へ襲いかかった。
酒呑童子は体制を崩し、床へ片膝をつく。
悪霊はその間も絶え間なく酒呑童子にのしかかり続ける。
「酒呑!」
「僅!!結界を破るなよ!こいつ、相当厄介だ!悪霊が何匹も集まって出来ている…怨念の塊だ…!」
悪霊は雄叫びを上げ、酒呑童子の喉に食いつこうと歯を噛み鳴らす。
「チッ…!退け!!」
酒呑童子は悪霊を思い切り蹴り飛ばすと、悪霊は向かいの壁まで鈍い音と煙を立て吹き飛んだ。
酒呑童子は体勢を立て直し、肩で息をしながら金棒を構える。
瞬間、煙の中から金切り声を上げ、悪霊は酒呑童子にまっすぐ向かっていく。
「オラァ!!!」
酒呑童子は頭から突っ込んできた悪霊の頭部を思い切り金棒で殴りつけた。
怯んだ悪霊の首を掴み、ねじ上げる。
「よく聞け、このまま潰されたくなきゃとっとと失せろ。こいつの身体に二度と近づくな」
酒呑童子は緑の瞳で突き刺すように睨みそう告げる。
「んぐっ!?」
しかし、悪霊は煙の腕を酒呑童子の口へと吸い込ませた。
煙に噎せ、咳き込む一瞬、酒呑童子の手が緩んだ隙に逃げ、気を失っている乃の元へと急ぐ。
しかし、いくら乃の体に入ろうとしても、その中には近づけない。
乃を囲う塩が寄せ付けないのだ。
「ゲホッ…ケホッ……このッ…舐めるなァ!!!」
酒呑童子は懐から札を取り出し、悪霊へと放る。
札は檻のように悪霊を囲み、その行く手を阻もうとする。
「久々の退治で少し遊んでやろうかと思ったが撤回だ!!今すぐ殺してやる!!悪霊如きが舐めた真似しやがって!!!」
悪霊に一手とられたのが余程癪に障ったのか酒呑童子は先程の余裕とは打って変わって青筋を額に浮かべながら怒鳴る。
『抹殺の槌よ。御神の裁きの元にある良心よ。無塵の裁き。無情の主君。鬼神 酒呑童子を御前の主とせよ“裁天”』
酒呑童子の手印の結びと共に、檻となっていた札は姿を変え、悪霊の頭上に大きな槌となって現れる。
その槌は悪霊目掛けて大きな衝撃と共に落とされた。
「もー短気なんだから・・・」
ふと、結界を張っていた僅が溜息をつく。
ミシ…という音に目を向ければ、槌を振り下ろされ、床に叩きつけられたはずの悪霊の煙が、薄らと槌に絡んでいた。
「なっ…!?」
「『なっ…!?』じゃないでしょ!当たり前じゃない!あんな煙みたいなやつ潰したってしょうがないでしょ!」
「う、五月蝿い!間違っただけだろうが!」
「もう!見てらんない!」
僅は結界をすり抜けると腰に携えた2本の刀を抜く。
「ばっ、…僅!!お前は結界を張っとけと言っただろうが!!」
「べーっだ!逆ギレして殺印間違えちゃう人の言うことなんて聞きませーん!」
「このっ…!ああもう勝手にしろ!!!」
「言われなくてもするもんねー!
槍雨、“封じの雨”」
僅は青い刀、槍雨を構えると思い切り悪霊目掛けて突いた。
すると、どこからともなく無数の青い槍が降り、悪霊の周りを囲む。
「初雪、“封じの凍”」
僅は今度は白い刀、初雪の刃を下に構え、床に突き刺した。
すると、突き刺した箇所から白い脈が走り、その脈は悪霊に絡みつき、動きを完全に止めてしまった。
「酒呑!今度は間違えないでよ!」
「余計なお世話だ!
『業火の焔よ。焚べる総てを無に帰す者よ。残酷な灼熱。紅き処刑。鬼神 酒呑童子を御前の主とせよ“終炎”』」
悪霊の周りに赤い印が走り、それは炎となって燃え盛った。
共に燃やされる札や槍、白い脈までもが塵となる。
「そんなに悪霊に反撃されたの嫌だったの?」
「……誰だって口に手突っ込まれたら嫌だろうが」
僅に顔を覗き込まれるように問われると、酒呑童子は顔を背けながら答えた。
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「本当に…ありがとうございました!」
悪霊退治が無事終わり、通された先の酒呑童子の部屋で、
舞と乃は酒呑童子と僅に本日何度目か分からない感謝を述べた。
「おー、よかったな」
「よかったねぇ」
大して興味のなさそうな酒呑童子とは反対に僅はまるでドラマを見る主婦のように顔を綻ばせている。
「もう…もうこれで、あんなこと、しなくなるんですよね…!」
「ああ。もうする事は無かろうよ。とは言っても。そもそもの根本を知らなけりゃ意味が無い。悪霊が憑いた根本をな」
酒呑童子は乃を見つめ続けた。
「何か心当たりはないか。追い詰められていたとか、どこか不吉な場所に行ったとか」
「えっと……」
乃は少し悩む素振りを見せると、小さい呟いた。
「あっ、青木橋かな…」
「青木橋?」
「はい、事故とか、自殺の多い橋で。私、最近そこから職場に通い始めてて、そこからおかしくなったみたいで……」
「だとしたら、そこだろうな。そこであの、悪霊の塊を拾ってきたんだろうよ。地縛霊の類だったんだろうな。
自ら命を絶った霊は、死んだことに気づかず何度も自害を繰り返す。その修正が宿主であるお前にも影響した結果だろう。わかったなら、もうそこに近づくのはやめろ」
「はい…あの、本当にありがとうございました。あの、お礼とかって……」
乃はそろそろと尋ねる。
「そんな物要らん」
「でも!」
「要らんと言うんだ。儂はお前ら人間から見返りを貰うためにしとる訳じゃない」
酒呑童子は煙管に火をつけ、蒸し始めた。
「さ、もう用は済んだろ。さっさと帰れ。僅、山の入口まで送ってやれ」
「はーい」
二人は酒呑童子に促され、部屋の出口へと向かう。
「あの、本当に、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません!」
帰り際、舞は酒呑童子にもう一度頭を下げた。
しかし、酒呑童子はそちらを見ることも無く、煙を吐き、ただ一言「早く忘れろ」とだけぼやいた。
二人を無事山の入口まで送った僅は、すっかり明るくなり始めた空を見上げる。
「よかったね、酒呑。おねえさん助かって」
僅は無邪気に微笑む。
「……僅」
「なぁに?」
酒呑童子は煙管の火種を落とす。
「もう昼前だ」
「うん」
「今回の依頼は昨日の夜からだ」
「そだね」
「……」
「…酒呑?」
「…儂は昨日の夜から何も食っとらんのだが」
「昨日晩ごはんの前に依頼が来たからね」
「……何も食っとらんのだが?」
「もー!素直にお腹空いたって言えばいいじゃん!」
「肉にしてくれ、菜っ葉は要らんぞ」
「だめー!お肉使うならお野菜も入れるからね!」
「頭の固いヤツめ」
「お野菜だけにしようか?」
「何でもないです」
「よろしい」
ここは傀儡山。悩めるものを救う、鬼神の鬼が住まう山。