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十二

 呆然と、降らせる雨を受ける。五、六分はじっと浴びただろうか。

 やがて、すべてを洗い流した彼女は、ゆっくりと栓を締める。

 雨が、やむ。

 シャワーヘッドの隣、曇った鏡を右手でぬぐい、己とにらみあう。


 これだ。

 《《これが》》結論(こたえ)《《だ》》。


 彼女は、鏡のなかの自分に説く。


 《《敵など初めからいなかった》》。


 濡れた髪を振るい、水滴をまき散らす。

 そう。鏡に映った自身の姿を外敵と見まがい、ひとり相撲をとるがごとし。

 浴室入口に備えたバスタオルに手をのばし、髪をぬぐう。


 ハンドルネーム〝葵〟は、おそらく〝利口な白痴〟=〝サバン症候群〟に類似する者でろう。

 類をみない卓越した画力を持ついっぽうで、まるで意味の通じかねる、つたない言語能力。このアンバランスさも説明がつく。


 彼女は、キューティクルをいたわるように、注意深く、髪から水分をとり除く。


 数学方面においてもしかり。数論に関して特異的に能力を有していると考えれば納得できよう。

 ナゴヤの画像内に脈絡なく〝{αn}⇅〟との記述があって、たまたま自分がこれを目にした。そこに《《特段の意味はない》》。

 単なる偶然の産物だととらえればすんなり理解できる。

 人の心理として、無作為に打たれた点の集合に意味・意図・図形をみいだそうとする傾向はよく知られる。〝ギャンブラーの誤謬〟でもよい。サイコロを振って五回続けて五の目が出れば「次も五の可能性が高い」と誤解しがちだ。


 思索にふけるあまり石鹸を使い忘れた。めんどうだ。捨て置き、彼女は体を拭く。


 なんのことはない。まったくの偶然の事象に、居もしない敵を認め、右往左往していたにすぎなかった。幽霊の正体みたり枯れ尾花。からくりに気づいてしまえばなんとあっけないことか。

 自嘲的に、鏡の自分に嗤ってみせる。


 幻は消えた。パンドラの箱から飛び出したわずらいごとは消散し、希望だけが残った。彼女はふくみ笑う。今度は期待のにじむ面差しで。


 さて、その独特(いちりゅう)の作風も悪くはないが、原作(アニメ)に即したナゴヤもぜひ見てみたい。〝葵〟氏をどう、その気にさせるか。

 簡単だ、と浴室の外、バスタオルと同じ棚から部屋着をつまみあげ、袖をとおす。


 ふたたび流しで湯を沸かした。

 ティーカップの代わりにグラスへ少量の熱湯を入れる。濃すぎる紅茶へ、よく冷えた牛乳(ミルク)を目分量でたっぷりそそぐ。氷も五個ほど投入。一気に喉へ流し込む。清涼な生乳が心地いい。夏の始まりの夜にはいささか長湯だった。


 鷹揚にPCの前に戻る。

 画面(CRT)に投影されたままの戯れごと。彼女の目は、平常心をもってこれを映す。今しがたまでのうろたえはケシ粒ほどもない。本来の自分をとりもどしていた。


 簡単なことだ。

 キーボードに手をそえる。不敵な面持ちでキーを打ち始める。オレンジのナツメ球がぼんやり落とす灯りのもとで、打鍵(きかい)音が機械的につむがれる。同時にモニター上でつむがれてゆくのは電子の返信。そう、簡単なこと。

 昨晩、床上をのたうちながら、消しては書き書いては消した難産に比ぶれば、文字どおり指先ひとつ――いや、五つ――(とお)か――のたやすさ。犬のお産に例う、つるりとしたもの。(くみ)しやすき〝葵〟氏、恐るるにたらず。

 小気味よい一打で、籠絡(ろうらく)の甘言を返す。送信完了(リザルト)が画面内に出力されたことをみとどけ電源をきった。


 ファンの回転がやむ。

 隣室のテレビ音声、少し離れた県道を走る車、それらをいっときかき消しては遠ざかる暴走族(ていのう)の騒音が、室内の静けさを強調する。

 街なかにあってとりまく多少の環境音(ざつおん)は、彼女の平穏を、いつもそうであるように、さして乱すにはいたらない。日常は戻った。


 卓上の時計を見る。寝るには早いが、と腰をあげる。忘れていた睡眠不足と歯磨きが、彼女の一日にピリオドを打った。

おもしろかったら応援をぜひ。

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