十一
なんだ、これは?
薄暗い一室、ブラウン管のほの暗い光に照らされる彼女は、困惑する。
昨夜、熟慮に熟慮を、重ねに重ねて、何度も何度も書いては消し書いては消しをするうちに夜が明け、出勤時間のぎりぎりまで推敲した末にRETURNキーを叩いて電子メールを送信。同時に電源ボタンを押し、朝食も化粧も睡眠も省いた状態で飛び出す。発車するバスに追いすがって乗ると、運転手に舌打ちされた。
一日じゅう、退勤時間を今か今かとじれにじれた。
仕事を終えるとまっすぐに帰宅――これは普段どおりだ――鍵を取り出しノブを引くまでのたった五秒さえも惜しむ剣幕で、まっさきにPCを起動。BBSにアクセスする。返信はない。
大口をあけてため息を吐き出す。彼女の神経はおおいにぴりついた。
数分おきに接続してはチェックするが、敵からの返信は遅々として来ず。
PCの前で一時間近く、五十分は待ちかまえて、彼女は、積んだ小さな〝地層〟のひとつから書籍を抜き出す。パソコン通信のクライアントソフトの解説書だ。音をたててページをたぐり、五分ごとに自動でメールを読み込むよう設定した。
気分をまぎらわせようと、紅茶を入れたり、散らかっている部屋をかたづけようと無駄な抵抗を試みたり、〝双曲幾何的環状モデルにおける多元解およびε-加群の写像と抽象性の一般化〟のかかえる欠陥と向きあってみたり、わずかの空腹感に対し、感情にまかせて五つも玉子を投じたインスタント麺を無理やり胃袋に流し込んでみたり、解けるはずもない〝フェルマーの大定理〟の証明にとりくんでノートへ数式を書き連ねたのち、見ひらきの紙面、半分以上残る余白いっぱいに〝CUIUS REI DEMONSTRATIONEM MIRABILEM SANE DETEXI, HANC MARGINIS EXIGUITAS NON CAPERET!!!!!〟と乱雑に書きなぐってみたり。
なにをしても気は休まらず、結局、PC前に座り込み、暗い部屋で、暗い画面を、暗い目で、にらみ続けた。
ふっと目をあける。
いつのまにか、うたた寝をしていた。徹夜で寝不足だった。
寄りかかった壁から半身を離す。粥も炊けぬほどのうちになにか夢をみていた。思い出す間を、だが、《《それ》》は与えなかった。
返信が来ている。
キーボードに跳びつく。まどろっこしげにすばやくキーを叩く。電話代をいとわずつなぎっぱなしにしていた回線により、ホストサーバーはクライアントの要求へ即時に応じた。読み込まれた文面に、彼女は先日、強いられた脳のハングアップにまたしてもみまわれかける。
『初めましてw
あたし葵w
イラストの感想くれてありがとw
ナゴヤ初めてかいてみたw
うまくかけてると思う?w
ほんとはナゴヤよりキニエンタスをかきたかったんだけどね、おじさんたちがナゴヤかけっていうからしょうがなくかいたwwwww
キニエンタスは異世界に転生しててチートスキル555個持ってて最強だしナゴヤより絶対いいと思うんだけどナゴヤじゃないと50連ガチャまわさしてもらえないからキニちゃんにごめんねって言ってナゴヤの絵をいっぱい見ていっぱいがんばってかいたw
ほんとはあんなちっちゃい画像じゃなくてちゃんとした大きいやつなんだけど昭和の残念パソコンだとちっちゃいのしか上げれないっていう謎の逆チートでしかも絵が横になっ』
……なんだ、これ?
なんなんだ、《《これ》》は?
まったくの、想定も想像もしなかった、しようもなかった、わけのわからない長文に、目が、すべる。
日本語、なのだろう。それもそうとうに平易な文体のはずだ。なのに、海外の高度な文献にあたるときのほうがはるかに容易なほど、まともに頭に入ってこない。
キニエンタス? チートスキル? なにかの専門用語? もしくは符牒? 誰だ〝おじさんたち〟って。
脳裏に《《もや》》がかかって思考が追いつかない。頭脳のメモリーが、意味不明の文字列に読込拒否を起こす。なぜ、ほとんどすべての行末に〝w〟がある? 文字化け? だいたい〝イラストの感想〟ってなんだ? そんなものひとことも書いていないが?
別のユーザーとまちがって送信したのでは、といぶかるが、昨日のメールに対する返信であると画面には表示されている。なにより、文中に彼女のハンドルネーム〝フラン〟がふくまれていた。誤送信ではない。
頭痛に耐えつつなんとか最後まで読んでみたが、首尾一貫して中身のない内容だった。
彼女は、めまいをどうにかしようと紅茶を入れに立つ。読んでいて知能が二十五ぐらい下がる感覚さえあった。馬鹿を装って書いたのだろうか。ケトルを火にかけ首を振る。いいや、《《あれ》》はまっとうな知性を持つ人間が書ける駄文ではない。独特の語彙からして特異な感性はみいだせるものの、馬鹿に違いはなかろう。
ティーバッグを三角コーナーへ落とす。流しに寄りかかり、立ったままカップをすする。いつもそそぐクリームはあえて入れない。汚染された頭をすすぐには、澄んだ液体と風味が必要だった。
昨晩、入浴していなかったことを思い出し、浴室にゆく。脱いでは放り、放っては脱ぐと、飲みほした紅茶のように熱いシャワーを思いきり浴びる。脳の汚れを落とさんばかりの念入りな洗髪。できることなら頭蓋から取り出して洗いたいぐらいだ。
湯の雨でおびただしい量の泡を流す――リンスをするのがめんどうな彼女は、昨年、発売されたリンスインシャンプー、〝ソフトインファイブ〟の愛好家だ。
体が火照る。湯温を少し下げる。温かなスコールの中で、彼女は改めて〝敵〟の意図を考察した。
なぜ、あのような毒にも薬にもならない長文を――ある意味において自分には猛毒だったが――よこしてきたのか。
昨日、送信した一文は、頭骨にひびが入り部屋じゅうに文字が飛び散るほどの熟考のすえ、濃縮した結晶。いうなれば〝ガラスの剣〟。
相対論や|オイラーの等式《e ^ i π + 1 = 0》をひきあいにだすのはあまりにおこがましいが、必要にして最小限、極限まで無駄をそぎ落とした問いと称して憚からない。痛恨の一撃だ。
さあ、来てみろ、どのような釈明・弁明に追い込まれるか、とくとみさだめてくれよう。そう待ちかまえた。
だのに。
《《あのような》》、《《でたらめな》》返信《《が来るか》》、《《普通》》?
業腹にまかせてシャワーのコックをめいっぱいひねる。痛いほどのしぶきが肌を打つ。
〝しょうがなくかいた〟とは、ぜんたい、どういう了見だ。〝ナゴヤ愛〟ってなんだ? ためらわず、かようの駄言をぬけぬけと、長々、書きおおせることか? それとも自身の吐き散らした世迷いごとに振り向きもしない幼さか? ふざけるんじゃない。そのていたらくで、よく〝無限昇降法〟をちらつかせることができたものだ。
洗いたての脳を自身で汚してしまい、かきむしる。
――まったく、わけがわからない。
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