八 一炊の一睡
誰かが呼びに来た。「お昼、できたって」
目をあける。
仮住まいの客間、ややカビ臭い六畳間の入口に立つ、長い黒髪姿があった。千尋だ。
わかった、と博は応じ半身を起こす。居間の食卓へ戻る足音を、ぼうっとする頭で聞く。臥していた畳から剥がした背中が、少しひんやりした。いやに体がべたつく。七月中旬、夏本番の始まろうという午前中の寝汗にしてはかきすぎだ。左手首の情報端末は、正午を五分まわった時刻を示す。
半時間前、変に眠気をもよおし仮眠をとった。二十分か二十五分そこらの夢は、しかし、仮眠で見る内容らしからぬ、濃密でシリアスな悪夢。千尋の声がけで現実世界に切り替わった夢幻の世界、そこでのやりとりを反芻する。
――政府は、係争中や係争外もふくめた最北の島々への武力行使を画策。不藁はその対立国のエージェント。大正島には〝A-dios〟なる秘宝が存在。各国が狙っており、不藁もそのひとり。自分はなにかに首を突っ込んだようで、凶弾に倒れる――
ありえないことをかき集めた大行進。実に夢らしい、滅裂な設定と展開だ。みずからしゃべっておきながら〝おまえは知りすぎた〟みたいな不条理があるか。なんだ、A-diosって。
だいいち、あの国ならともかく、いちおうはまともな日本が実力行使をふっかけるなど万にひとつもない。レム睡眠にある脳は往々にして、どんなに荒唐無稽の内容であろうと現実のものとして受けとめてしまう。
バカバカしくも恐ろしげな夢を見てしまったものだ。後ろ頭をかきつつ廊下に出て、博はぎょっとした。
不藁が、いる。
のそりと、同じタイミングで部屋から出てきた。
不意に熊と遭遇したかのように、全身が硬直する。
「眠れたか、モグさん」
北海道産のヒグマは、一瞥をくれ、食卓へ向かう。心臓が、にわかに早鐘と化す。食べものの匂いにつられて出没したヒグマから――いや、ホッキョクグマか――家族を守ろうとでもいわんばかりに、博は、ついて出る言葉にまかせ呼びとめる。「――ブルーノ少佐」
白熊が足をとめ、振り向く。「うん?」
しまった、と口に手をあてかけた。うかつな名前をだした。
向きなおる極北の獣。無意識に一歩、あとじさる。
「なんのネタだ?」
ギャグだと思ったらしい。もしくは、そしらぬ態度を決め込んでいるか。
企図せず踏み込んだ、安易に越えてはならない一線。なりゆきでレッドラインの先へ足を突っ込んだ。博は、だが、ここしかない、とも。
流れに身をまかせる。不藁の正体を暴くタイミングは今しかないと。もしも、その鉄仮面の下が、鉄面皮の国家の差しむけた〝外国の代理人〟だとでもいうならば、仮面を引き剥がすチャンスはこの一度しかないと。そんな気がした。そうとらえるしかなかった。
「まさか、外国籍の人間が自衛隊に入れるとはな」
静かで、重い弾劾。見えない聴衆に向け、おもむろに告発する。
さあ、もうあとにはひけんぞ。
自身に向けた腹のなかの覚悟は、不藁に対してもいえるか。
果たして〝外国の白熊〟は、動揺というよりも日常範囲の困惑を示す。「ううん? 俺のことを言っているのか?」
投げたボールは「なんだかよくわからんが、もちろん採用されんぞ」拍子ぬけするほどの軽さで投げ返された。
不藁は「本人も知らない親戚にいてもアウトだ。まあ、場合にもよるが」「それぐらいはモグさんも知ってるだろう」とばっさり。会話のキャッチボールは、あさっての方向への暴投でも、頭部・胸部のどまんなかを狙うがごときドッジボールばりの全力投球でもなく、ただの一往復で終了した。
対・小半助教授の腹ごしらえをしよう、とヒグマの皮をかぶったホッキョクグマ(たぶん)はのしのしと、古い家屋を窮屈そうにゆく。その背中は、悔しいぐらいに実に頼もしげで、もしかしたら、というかもしかしなくても、己のまぬけなひとり相撲、醜態をさらしただけなのではと。
緊張がとけ脱力。博は、ぽつねんととり残される。
――願わくば、そうであってくれ。
鉄仮面を剥がさんとの捨て身の飛び込みは、なんなくいなされ、無駄に警戒させた失態でないことを、aDiosにでも祈る。
くすぶり続ける疑念の煙を消しそこなったまま、さほどすいていない胃袋へ昼食を詰め込むため、廊下をきしませた。
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