六 不可思議のナゴヤ
なに――これ?
PCに映し出された《《それ》》に、彼女の脳は操作不能状態におちいった。
安アパートの一室、豆球の暗い暖色よりは煌々と部屋を照らすCRTモニター。ものぐさな彼女は、あまり電灯をつけない。常夜灯のように豆電球を昼夜とわずつけっぱなしで、電灯のひもを引くのは、人が来るときぐらいだ。もっとも、人づきあいにうとい彼女は、来客の機会も限られるが。
そんな部屋に仕事から帰り、カバンをベッドわきへ放るように置くと、まっさきにPCの電源を入れる。こちらはさすがにつけっぱなしにはできない。
日課となっているパソコン通信をまずはチェック。二大商用サービスのひとつ〝PC-GON〟をはじめとし、いくつかの行きつけの草の根BBSを、巡回ソフトで情報収集。電子メールは基本的に来ない。オンラインでも人づきあいはなきに等しい。
小さな流しで湯を沸かし、インスタントの紅茶を入れて戻るころには自動巡回は終わっており、回線もいったん自動的に切断されている。
巡回ソフトが収集した、掲示板への書き込みや、フリーソフトの差分ファイルのアップロード等を確認しつつ、クリームをたらしたミルクティーをすする。一種、儀式めいたまでのルーチンが、彼女に日々の平穏をもたらす。そこへ、いい意味での、ちょっとしたかき乱しが飛び込む。そう、紅茶をミルクティーへとかき混ぜるような。
五つある巡回先では一番、小規模の草の根BBS。
市内の小さな電気店が運営しているそこへ、画像のアップロードがあった。ファイルサイズは255KB、画像もフルサイズの650×400。【転載禁止】とあるが、人の出入りの少ないこんなBBSにこれだけのボリュームのものをわざわざ? ただの画像ファイルであれば、彼女はそれ以上の関心はいだかなかっただろう。だが、それが〝ナゴヤ〟となれば話は別だ。
『不可思議の海のナゴヤ』は、彼女が今、一番ご執心のアニメだ。
カーペットの上へ乱雑に積まれたアニメ雑誌はどれも同作品の特集が組まれているものばかり。毎週、欠かさず視聴しつつ、ビデオへの録画もおこたらない熱の入れようだ。彼女は、パソコン通信の掲示板では基本的にROM専だが、ナゴヤに関しては書き込みをおこなうことがある。見解の相違から白熱した議論を交わしたことも一度や二度ではない。
さて、この250KB超を落とすとなると数十分はかかる。いったいどれほどのものか、とくと拝ませていただこうではないか。
おざなりな化粧をぱっぱと落とし、パジャマ代わりの部屋着に着替える。夜食をインスタント麺で手早く済ませ――これはべつに今日にかぎらず、しょっちゅうのことだ――ダウンロードの完了を今か今かとじりじり待ちかまえる。
ゆうに小一時間、五十五分は要しただろうか。ようやくファイルを落とし終えた彼女は、ぜんたい、人にどれだけ電話代を支払わせるつもりかとふくみ笑う。モデムを切断し、満を持して画像ビューアーを起動。ファイルをひらく。
「おおっ……!」
ディスプレイをめいっぱい使って描かれたイラストに、感嘆をもって迎える。
まず、こんな過疎BBSに画像ファイルが投稿されることじたいめずらしい。あったとしても、たいていは【習作】との但し書きが枕言葉につく。【転載禁止】も本来なら同義。へたっぴなのでこっそり公開したい、他BBSには上げないで、との意味あいで付加されるものだ。それらはサイズもせいぜい150×250ドットていど。
しかしどうだろう。場違いな画像サイズ・ファイルサイズ、場所にアップロードされた画像は、素人が描いたとは思えない完成度。アニメの制作会社か雑誌のポスターを写したのではと見立てたが、それにしてはあまりにタッチが異なる。というか『ナゴヤ』のそれでないどころか、今どきの絵がらとも違う。昭和の画風? いいや、オタクは十年来やっているが、見たことのない作風だ。過去の漫画やアニメはもちろん、現在の作品にもひけをとらない、頭ひとつ垢抜けた感がある。
著名な作者の手によるものなのか。彼女はイラスト上の署名を探すが、それらしきものはみあたらない。しかし。
彼女に喚起させた興奮と疑問、これをはるかにうわまわるそれを、彼女は、その『不可思議の海のナゴヤ』のイラスト以上に《《不可思議なもの》》を、目にすることになる。
{αn}⇅
「無限昇降法……」
それが五秒だったか五分だったかはわからない。
いくばくかのあいだ、メデューサに見すえられた石像のごとく固まっていた彼女は、渇いた口の中を飲み込み、ひとこと、もらした。
ハングアップした脳のリセットボタンを押す。
ピコッ、との起動音が頭の中で鳴り、FDとは比べものにならない速度で頭脳のHDDがシステムを読み込む。
考えろ、考えろ、考えろ。
誰だ、誰だ、誰だ?
何者、何者、何者?
〝双曲幾何的環状モデルにおける多元解およびε-加群の写像と抽象性の一般化〟は、すでに発表済み。そのなかで、〝無限降下法〟を発展・拡張した〝無限昇降法〟を提唱した。が、ペル方程式の観点から再検証したところ、特定のパラメーターにおいて、導出される解がことごとく発散。根底から理論が瓦解する誤謬にいきづまる。本理論は、無限昇降法から導かれる数列が有界である事実の証明が不可欠となる。
誰だ、誰だ? 何者、何者?
ここまでの数学的知見を有する者が、数学界にどれだけある? まして『ナゴヤ』の画像ファイルに書き記した。こんな250KBを超える、象のような超重量級。自分がこれをダウンロードすることを前提として描いた。しかもそこいらの落書きレベルの絵ではない。どういう意図が? なんの目的でこんな手の込んだまねを?
誰だ? 何者だ? 思いつく者がまったくいない。すべての条件を満たす人物が誰ひとりとして思いあたらない。
そもそも、通称名の〝フラン〟は、オフラインではいっさい明かしていない。にもかかわらず、PC-GONでも有名BBSでもなく場末の草の根、ここへ出入りしていることをつかんだうえでのアップロード。いうなれば、自分について知りおおせている事実をみせつける、デモンストレーション。
画像をアップするのに要する時間、すなわち電話料金を考えれば、より高額となる市外通話の可能性は低い。自身について少なからず把握しているところからしても、市内から接続したとみるのが自然。
得体のしれない化けものじみた人間が近場に……。
いったい誰? 何者? 目的は?
わからない、わからない、わからない、わからない、わからない……!
彼女は、どんなに難解な理論・定理にむきあうときよりも激しく、狂おしく、脳をフル回転させた。焼けつかんばかりに、白煙をたちのぼらせんばかりに酷使し、頭をかきむしった。しかし、だが、その灰色の大脳新皮質を一日二十五時間働かせる勢いでビジネス戦士化させても、合理的な解はなにひとつ得られなかった。
――わからない。
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