一 EINSTEINS;CAT
目が、嘘をついた。
あるいは、物理法則がひねられ、ありえない角度にねじ曲がったか。
そうでなければ、たった今、眼前に鎮座していたキジサバが、そっくりそのままかき消えるわけがない。目でないなら脳だ。こいつがバグった。なにしろ自分には〝神様(自称)〟の声が聞こえるのだ。猫の一匹や二匹ぐらい消失もしよう。
目でも脳でもないというのであれば、イカレたのは物理のほう。原理原則。
宇宙の法則を乱しねじ曲げた張本人――マイナスイオンを売りにしたドライヤー、これを改造し、夜の公園、人気のない遊具のそば、ひとりしゃがみ土の上に送風口を向け、全身をせわしくめぐるその血液とは対照的に、固まっていた。
本当に。本当にだ。《《本当に消えた》》。
いるはずもない神サマにしたがって、取説に逆らって家電を改造し、ようやく手なづいてきた野良に浴びせた人工の風は、あろうはずのない事象をおこした。グリップを握る手が小刻みにゆれる。まだ肌寒い空の下で、右の手のうちは汗ばんでいた。
*
「タイムマシン?」
新型コロナウイルスと大正島事件の情報を追っていた艾草博は、モニターから顔を上げた。
声の主にして世界の主は、正確には違うけれど、と部分否定。「君たち、人類にわかりやすいように、ね」
自称・神――博いわく〝オバケもどき〟――ことaDiosは、神あるいはオバケもどきの呼びならわしにふさわしい姿、無色透明を、宙空を見すえる博に笑む。
「バカバカしい」
一瞬、真に受けかけた単語を払うように首を振り、PCに目線を戻す。ネット上では、ふってわいた防衛出動の事案に騒然となり、コロナ騒動と話題を二分している。その後者を解決する手段として、時空を越え、暗号のパスワードを入手してくるようにと。冗談は神様だけにしてくれ。最初はまるでとりあわなかった。それが。
*
《《俺が消した》》。俺が野良を消した。あいつを、《《この手で》》。
罪深くなるやもしれないその手よりかは、努めて震えをおさえて男は問う。「おい」
水銀灯がおとしていたしなやかなシルエットは影も形も失せ、人影もないその先をにらむ。住宅地の一角にもうけられた敷地、その内外は男を除けば無人。彼はかまわず宙空に詰問する。
「《《戻ってくるんだろうな?》》」
疑念と不安、後悔と驚嘆、そしてまさに藁にもすがる思いで――彼にとって神仏など、ありえない奇跡で長者になれるかそれ以下の認識だった――疑問と感情をぶつけた。神は、場違いに朗々と「それは不正確な表現だね」答える。
「君が追いつくんだ。十五日後の早朝にもう猫はいる」
「へりくつはよけいだ」一、二度、頭を振り博は立ちあがる。「出てきたはいいが化けた姿だった、なんてオチがつかなきゃいいがね」
二叉やら九尾やらになってとり憑かれでもしたらかなわない。こちとら、もうすでにわけのわからない神に魅入られているのだ。
その張本人たる神・aDiosは、博の文脈を無視して、そう、と指摘する。「人は、信じがたいものごとに直面したとき、自身でも驚くほどすみやかに順応する」
つまり、軽口がでるていどには、猫での実験を受け入れている、と言いたいのか。腹のうちを見透かす《《したり顔》》の言いようがおもしろくない。改造ドライヤーを左手に持ち換え、右手をズボンのポケットに突っ込む。携帯端末をひっこ抜いて通話のポーズをとる。「まだ実験台は〝重ねあわせ〟の状態だ」
二週間以上先となる、猫の無事を観測するまでは事象は確定しない、と博は断じる。視界に入る窓明かりを漫然とにらむ彼に、温度差をみせつけるかのような、どこか茶化したそぶりで、幼な声は言う。「外ではいつもそれだね」
言外に、『EINSTEINS;GOTH』の主人公よろしく架空の仲間と連絡をとっているようだ、とおもしろがっている。自宅ならともかく、近所でひとりぶつぶつ話しているのを人に見られるのはまずい。いや、飛んでもいない電波を受信して会話をしていれば、それこそ〝電波系〟の変人か。誰のせいでこんなまねごとをしているとおもっているのか。
この神様気どりの子供然とした〝なにか〟は、べつに声にだして話す必要はない。内心で毒づけばじゅうぶん嫌味は伝わる。だが、この意地の悪いなにかは、博の脳内でご信託を発しない。右や左、前後ろ、上下にと、自由気ままな方向から語りかける。脳内、つまり博の意識の中央で聞こえるなら、口を閉ざしてもまだ脳内会話の《《てい》》で雑言をぶつけられる。だが、中心外からの声がけに心中で応じるのはどうも違和感がある。今みたいに、『シュタゴ』のようだ、との軽口に、心のなかでしか言い返せないヘタレの気分になる。人前やいちいち返すのがめんどうなときを除いて、けしかけられたら受けてたつ。煽り耐性の低さが艾草の血統なのだ。(余談ながら、嫁にやってきた母親はのんびり屋かつしっかり者。父親ももともと息子・娘のような沸点の低い気質ではないうえ、妻に感化され、より穏和な気性である)
〝シュレディンガーの猫〟役に勝手に抜擢された野良の命運をみさだめるまで、タイムトラベルの実現性を認めるわけにはいかない。あの映画とは正反対だな、と博は心のうちで舌打ちする。〝アインシュタイン〟の名をもらった犬なら、五分とたたず戻ってくるのだが。現実は映画のように都合よくいかないものだ。
「さて、聞こうか」神託の聞こえる方向をあおいで問う。「なぜ、俺なんだ?」
おもしろかったら応援をぜひ。
ブックマークでにやにや、ポイントで小躍り、感想で狂喜乱舞、レビューで失神して喜びます!
 




