十九 戦争を知らない陸自たち
平穏無事とは、防衛の職務を預かる者にとってなににもまさる宝のひとつだ。
五十嵐皐月は、ひと昔前の流行り歌に歌われた、戦争を知らずに生まれ育った世代、その初期にあたり、大戦を直接には経験していない。
それでも、おぼろげに残る幼少時分には、そこらじゅうにまだ戦禍の傷跡が残っていたし、記憶の原風景として、かっぱらいで逃げる戦災孤児、手足を二、三本失った物乞い、粗末な小屋の入り交じる街角がある。
少年時代より、二度とこの惨劇を繰り返してはならないとの思いを強固にいだき、自衛官の道を進んできたし、これからも変わるつもりは毛先もない。
そんな五十嵐ではあるが、訓練に明け暮れた駆けだし時代こそは毎日がそれなりに過酷で、実のところ除隊を考えたことは過去、五回ある。
入隊前は、身体面は比較的、不足のないほうだと思っていたが、着隊してみると自分よりはるかに優れた体格・体力の者がごろごろおり、彼らが音をあげるさまを目にして、これは大変なところに入ってしまったぞと気おくれした。
五回辞めようとしたうちの四回は最初の五年に、初めの五週間には二度も届けを出そうとした。そのたびに直属の上官や先輩にいさめられ、殴られ、ときには互いに男泣きに吠え、隊にとどまるよう説得された。「五十嵐、おまえはやる男だ。大蔵省でも通産省でもなく防衛庁に入った。なぜだ。日本の防衛をしょってたつためだ」
自身がめっぽうおだてに弱いともっぱらの評判であることはわかっているが、日ごろ、イジメとしか思えないシゴキを加える先輩たちになだめすかされては踏んばらないわけにはいかない。
曲折はありながらも昇進を重ね、世界大戦はおろかベトナム戦争さえ風化してゆく平成の世を迎えた。四十を過ぎてたくわえはじめた口もとの髭もいつしかさまになり、階級は1佐となっていた。
自衛隊は、就職先の選択肢として、民間企業とは比べるべくもない不人気な職業だ。公務員じたいがそもそも、地味なイメージとぱっとしない月給から敬遠されがちだが、そのなかでも、今どきでいうところの〝3K〟、すなわち〝キツイ・危険・汚い〟の三拍子ぞろい。学生からの評判はすこぶる悪い。
それでも五十嵐は入隊以来、一貫して陸自が好きだった。日本の安全保障を日夜守るこの仕事に誇りとやりがいを感じている。天職といってはばからない。
ではあるのだが、しかし。
どうもこのところ――いや、気づかぬうちのわりと以前からかもしれない――五十嵐はじゅうぶんな張りあいを持てずにいた。
気のゆるみが生じたわけではない。職務に大きな不満をいだいているのでもない。定年まで勤めあげる決意は、最初の五年を過ぎて以降、ゆらいでいない。
ただ――誤解を恐れずにいえば――刺激が少々不足している、というのか。
無論、自衛官たるもの、実戦を欲したりなどしているわけではけしてない。
ソ連をはじめとする周辺国の脅威を未然のうちに防いでいることは真に誇らしい。創設以来、防衛出動はもとより、治安出動・海上警備行動のいずれも一度として発動されていない実績には、隊の一員として胸を張る。
それはそれとして、しかし、年々、現場との関わりが疎遠になることに、もどかしさ、歯がゆさが強まっていた。
幹部自衛官として出世コースを歩む五十嵐が、昇進にともない現場と距離がひらくのはやむをえないことではある。自衛官は公務員だ。定期的な転勤はつきもので、キャリア組であればより頻度も増す。
幹部候補生からスタートした五十嵐は、たたきあげに負けない現場へのこだわりがあった。
現在はハードな訓練の日々から遠のいたものの、入りたての自衛官候補生相手ならひけをとらないていどのトレーニングは欠かさない(自衛隊は体育会系職業の極地だ。体を作っておかねばいまいち説得力が不足する)。
五十嵐は、野外の〝前線〟へたつことに、最も国の防衛を担っているとの実感が湧くタイプだと自認している。ぴんと張りつめる緊張感が心身にあってこそ。事務がた中心はいささかぬるい。いい意味での刺激を必要としていた。
だからかもしれない。多少うさんくさく感じながらも、その話に耳を傾けてみる気になったのは。
それは、夏の本番までまだいくぶん日数のある七月上旬のこと。
延びた日没時間を無粋にかげらせる曇天のもと、本庁のある檜町駐屯地を平常どおり定時で退庁。隣の六本木で軽く一杯ひっかけて帰ろうと足を向けたときだった。
「五十嵐1佐」
庁舎前の道ばたで呼び止める男の声があった。
振り返ると、太くてよく通る低音に似つかわしい長身が立っていた。
精悍な顔が微笑のなかにもたたえる刃物のような目つき、ポロシャツの上からでもわかる厚い胸板によく締まったボディー、刈り込んだ頭髪。
いっけんして自衛官の風体である人物が、
「元・帯広駐屯地、第5後方支援連隊所属、不藁豊陸曹長であります」
びっ、と背筋を張り会釈する。「おひさしぶりです、1佐」
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