十八 真夏の前夜の悪夢
ローマのスタジアムの何万もの大観衆が、世界中の何億という視聴者が、同時に熱狂していた。
西ドイツとアルゼンチン。ワールドカップの頂点を争うにふさわしい両者の攻防は互いに譲らず、無得点のままPK戦を迎える。
ゴレーヌがアルゼンチンのゴールを見すえる。潮がひくように観客席が静まる。決着を見守る誰もが、拳のうちの汗を握りつぶしていることだろう。月曜の未明にもかかわらず、夜どおしテレビをつけている日本の観戦者の中に、若き艾草博もふくまれていた。
勝敗のゆくすえを見届けようと固唾を飲んでいるのは同じだったが、彼にとって試合の行方は特別の意味があった。
――いいや、《《もう結果は出ている》》。
二重の意味で、博は腹のうちにひとりごちる。
勝者は始めから決まっていたのだ。もうこの時点、西ドイツとアルゼンチンが〇対〇でPKにもつれ込み、ゴレーヌが決勝をかけて対峙している、それだけですでに結果は出たも同然。ゴールが決まればダメ押し、外してもゆうべの三位決定戦とあわせればじゅうぶん〝予言〟は的中している。
あと五秒のうちに、統一ドイツ前、最後の英雄のひとりに名を連ねると約束された男が、駆けた。
一瞬の静寂のなか、ボールの弾かれる小気味いい音がフィールドに響く。
「――入った」
思わず博は漏らした。
大歓声が競技場をゆさぶる。駆けまわる生まれ落ちたばかりのヒーローに、チームメイトが群がり飛びつく。実況アナウンサーが興奮気味に西ドイツの勝利を伝える。
二十五インチのブラウン管の中で起こった、予定された奇跡。
若者はただ呆然と、箱の表面に映し出される像を眺めるだけだった。
この試合の結末は、彼にふたつの大きな事実を受け入れるよう迫る。
ひとつは、時間旅行が現実に可能であること。
青色のタヌキ型ロボットの道具か高級車か知らないが、あと三十年でタイムマシンが完成するらしい。
そしてもうひとつは――
オレも将来は、《《あんなふうにちょっとオッサンになってしまう》》のか。
ある意味、後者のほうが衝撃的な、成人後、最初の夏の一夜であった。
*
客人は先日と同様、平日の朝っぱらから襲来した。
和室の居間で、ワイシャツにネクタイを締めた父親、中学の制服姿の妹、博の三人で食卓を囲んでいると、呼び鈴が鳴った。台所で弁当の支度をしていた母親が、はーい、と返事をし出ようとするのを制して、博は立ちあがる。「俺が行く」
前回はたまたま玄関そばの廊下を通りかかったので応対に出たが、この日は率先して動いた。ものぐさな兄に、めずらし、と陽子がつぶやく。
そういえば今朝は、まだアルバイトに出る時間ではないのに、外着用のチェックシャツを着、バンダナを巻いている。庭のほうでは飼い犬が吠えだした。妙な人みしりをする犬で、家族には吠えるのに、知らない人間が来ると鳴きやむのだ。
めずらし、と心の中でもう一度つぶやき、ぽりとたくあんを噛んだ。
ガラス戸の錠をあげ、がららとあける。曇りガラスに映った複数の人影のとおり、庭先に数人の男女――下は中学生ぐらいとおぼしき少女から、上は三十代から四十代ほどの男たち――片方は計算上、五十代に達してるはずだが――この前の朝と同じく、大小のバッグを携え立っていた。裏庭から、しきりに吠える犬の声が聞こえる。
一行の代表者なのかひとり前に出た中年男と、向かいあう。
博は、ささやかにしわの走る張りのとぼしい顔をまじまじと、しかし、心もちそらしがちに見入った。
似ている。
前回、艾草博を名乗ったこの男は、よくよく見てみると、気味が悪いぐらいに艾草博の面影をたたえている。今の倍以上の歳をとるとこんな顔になるのだろうか。中年男の背後で、高校生か博と同じほどの男と、中学生ぐらいに見える女の子が、なにごとかひそひそ話をしている。
先手必勝、相手がなにか言う前にこちらから迎え撃たねばと思った。別段、なにかの対決をするわけではない。ただ、人数も経験も情報力も優勢の相手に主導権を握らせたくなかった。なにせ、不良のような髪と、暴力団みたいなガタイ・顔つきが向こうにはいるのだ。
出るにまかせて先制のひとことを放つ。
「ヨ、ヨォ……未来人」
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