四 過去世界《バブルじだい》の第一日目
葵は、胸がどきどきしっぱなしだった。
なにしろ、一九九〇年に来てからのなにもかもが、彼女のたった十数年の人生で、まるで体験したことのないできごとの連続。
無論、ほかの四人もタイムスリップは初めての経験(厳密にいえば二葉拓海は二度目となるが)ではあるものの、九〇年代の初頭など、二十一世紀生まれの中学生にはおおよそ異世界も同然。――残念なことに、彼女のあこがれる最強で無双な世界とは少々違うが。
「もうあたし、びっくりしちゃったよう。不藁さん、いきなり外国人の人、殺そうとするし」
足早に現場の裏通りを立ち去り、どこかしらへ向かう伯父たち大人に置いていかれないよう、とたとた駆け足気味の少女は、興奮冷めやらぬ様子で瞳を輝かせる。
「なんだ〝外国人の人〟って。重複表現だろう」見向きもせず、伯父・艾草博は姪を一蹴した。
「超服?」なにそれ守備力高いの、と葵は首をかしげたが博は相手にせず、今回の計画の右腕――文字どおり彼の右がわを並行していた――不藁剛に、仏頂づらで苦情をたれる。
「不藁、行動るならそう言ってからにしてくれ。俺も、殺ったのかとあせったぞ」
左手のリーダーに「すまん、モグさん」ちらと目をやり、こわもての壮年男は、まだ人気のない早朝の街頭と、その手にたずさえるオーパーツな端末の画面へ抜かりなく目を光らせている。日の出直前、後楽園駅への生活道路に人影は皆無だった。
「風貌や話の内容からして、横須賀基地に着任してまだ日の浅い新兵のようだったから――」不藁は、くだんの米兵など注意を要する者の接近を警戒しつつ言う。「先にひとこと断っても大丈夫だったろうが、万一に備えてな」
相手が日本語にうといとはかぎらない。作戦行動に不測の事態はつきものだ。現に初手から米兵に出くわした。予断は油断と同義だ。
「開幕早々、趣向を凝らした手荒い歓迎ね」
ざんばらの長髪をなびかせる立花千尋が、先ゆきが思いやられること、とシニカルに眉をあげてみせた。
その不安感を増幅させるため《《だけ》》にくっついてきたようなメンバー、若干一、二名が、さっそくその役割を務める。「で、オレらどこに向かってんの?」「そうそう。ここ、どこら辺? 都内?」
後方で、まだこの時代に細胞のひとかけらも存在していない拓海・葵の問題児コンビが、朝っぱらにふさわしい寝言を吐いた。
「行程表を読んでないのか、おまえたちは」壮年のリーダーは端末で経路を確認しつつ苦言をていする。
彼の背中へ両名は「博さんが作ったPDFのやつ? あの五十ページぐらいある」「え、あれ、ネタじゃなかったの? アニメのマジメポジが、ちょっと遊びに行くだけなのにはりきって旅のしおりを作っちゃう的な」
――ネタで何週間もかけて作成するか。
世界の命運をかけたタイムトラベルで、三十年前の時代へ数十日滞在するという一大計画が〝ちょっと遊びに行く〟ていどの感覚とは。緊張感のないリアクションに博のこめかみがざわつく。
「これだから最近の連中は」数千年の昔から言われ続ける愚痴を、博はこぼさずにいられない。
「千尋、このあとの予定をバカどもに教えてやれ」
「営団地下鉄・後楽園駅から、荻窪行きへ乗車。東京駅でJR・横須賀線に乗り換えて保土ケ谷まで行き、路線バスでモグさんの実家へ」
プログラマーは、向かう先、夜明けのビル間に影を浮かべる――二〇二〇年はなき――後楽園ゆうえんちの観覧車を見すえて即答する。
すっご、暗記してるんだ、と驚く葵に博は、驚きたいのはこっちのほうだ、と眉間にしわを寄せた。
「エーダン地下鉄って? 地下鉄?」拓海が、顔をしかめるリーダーの気も知らず、千葉か埼玉にあんの、と能天気に問う。
「帝都高速度交通営団、通称〝営団〟、東京メトロの前身だ、ちゃんと行程表の用語一覧に書いてある」博はまくしたて、画面上のPDFファイルを見せつけた。
「おじさん、どしたの。おこ?」
「ああ、激おこだ」
不思議そうな姪に《《にべ》》もなく答える。
必要な二名のためにわざわざ作成したというのに。この壮大な計画に参加していながら、よくそこまで無関心でいられるものだ。
いっそう歩調を速める彼に、葵と拓海は顔を見あわせ小さく首を振った。
天をつくビル群の背後へ、上昇した陽の裾――三十年後に出現するウイルスがなぞらえられるコロナが、のぞく。
まもなく日本史上最大の好景気が失われ、代わりに人類史上最大のパンデミックが近い将来もたらされる巨大な街が、あかあかと照らされはじめる。
過去世界、第一日目の開始。
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