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ただいま、おかえり

 世間は、七十五年目の終戦記念日を迎えていた。


 八月は、この国の人々が、戦争というものについて、少しだけ考え、振り返る月。

 あらゆるたいせつなものを無視し、蛮勇と勇猛を履き違え、熱狂し、驀進し、たいせつなものの多くを失った。

 バブル景気もそれになぞらえることができようか。規模も質もまったく異にするが。似て非なるもの。同列には語れるものではないのだろう。

 完膚なきまで叩きつぶされ、落ちるところまで地に落ち、なにもかもを失ったかの国が、焦土のなかから立ち上がり、驚くほど短期のうちに這い上がり、世界のひと角の存在に返り咲いた。

 ひるがえって正反対のバブル崩壊後。頂点から転落してこっち、じわじわと国力を落とし続け、十年、二十年と、失われた何十年の年数だけが積み重なり、凋落の一途を驀進中だ。敗戦の洗礼に比べればたいそうぬるかろうに。皮肉なものだ。

 ともかく、現在、二〇二〇年八月十五日現在において、日本の安全は、けして穏当とは言いがたい国際情勢下にあって、ひとまずの保障をたもち続けていた。






 都内、昼さがり。

 艾草(もぐさ)(ひろし)は、自宅へ送り届ける(あおい)と並んで座り、列車内でゆられていた。ほとんどすべての乗客がスマートフォンを手にする光景。SNSに画面をスワイプし、動画を視聴し、漫画を読み、あるいはSwitchでゲームに興じる。それらがない時代にいたのが、まるで長い夢をみていたような感覚にとらわれる。


『チートスキルっ、時間遡行(ぜんぶなかったこと)発動(はっつど)ぉ〜!』


 左隣の娘は、さっそくつないだネットゲームに夢中になっている。ログインボーナスでレアチートスキルが当たったとかなんとか言って大はしゃぎだ。もうそれでじゅうぶんだろうと言うと、五十連ガチャはしっかり要求された。やれやれ。

 ちなみに、暗号解読の賞金だが、改変された世界において新薬・エクリプセはとうに実用化されており、五百万円は水の泡と消えていた。新型コロナウイルスの封じ込めも本来の歴史より迅速に進んだようで、車内でマスクをつけている数はまばら。景気浮揚の鳴りもの入りで登場する予定だった徳川綱吉こと五万円札の発行は、いつのまにか黒歴史(なかったこと)にされていた。


 乗客に混じり、久しぶりに接続したキャリアで検索する。

 検索窓に打ち込む〝大正島事件〟の五文字。二〇二〇年(ことし)の四月から世間を、世界を賑わしたセンセーショナルの事案。果たして歴史は変わったのか。読み込まれる検索結果に固唾をのむ。


 〝Wikipedia - 尖閣諸島中国漁船衝突事件〟

 〝内閣官房 - 領土・主権対策企画調整室〟

 〝旭原大学国際政治学部 - 尖閣諸島の今〟


 どこにも、なかった。


 Googleを五ページぶんまでひらいてみたが、YouTubeで探そうが、Twitterで検索しようが、その五文字はついぞみつかることはなかった。

 念のため〝防衛出動〟についても調べてみたが、八月時点でこれがおこなわれたことは、過去に一例も存在しないと、あらゆるソースが論じていた。


 ――事件は、未然に防がれた。


 ほうと、深く、博は吐息を漏らし、修正された世界(みらい)を、得もいわれぬ色あいの相貌に、映した。






 立花(たちばな)千尋(ちひろ)は少しめんどうなことを経験せねばならなかった。

 自宅マンション、住み慣れた部屋に帰宅してぎょっとした。そこに住んでいたのは見ず知らずの中年男性。いったい誰だ。相手も見知らぬ女性が訪ねてきてたいそう困惑した。尋ねてみると、彼は五年前からそこに住んでいると。

 歴史が変わってしまったのか。途方に暮れながらだめもとで職場に顔を出すと、拍子抜けするほど、普段どおりに迎えられた。後輩の千田(ちだ)に声がけられて噴く。


小半(こなから)先輩、有給消化中じゃなかったんですか?」


 なぜ旧姓を彼が知っているのか。というかその名で呼ぶのか。

 総務へゆき、登録情報にまちがいがあるかもしれないとの口実で出力してもらった紙。そこに印字されてある〝小半千尋〟との名前。なにがどうなっている。


 自分の住所を勤務先で確認するという妙な行動に自身で首をかしげながら、横浜市内の一戸建てを訪ねる。向かう電車内で調べたGoogleマップやストリートビューで見るかぎり、小さくはないかまえ。車庫には、そこそこ高いグレードらしき車が五台も写っていた。自分は、(だれか)みたいにひとり暮らしにもかかわらず戸建てにこだわるようなタイプではなく、免許もペーパードライバーだ。つまり、《《そういうこと》》なのか。

 家の前に立つ。市内でも指折りの高級住宅街。それなりに貯蓄はあるほうだが、こんな上等なエリア、家宅に住めるほどの高級とりではない。出てくるのは果たして。緊張し押すインターホン。聞こえた「はい」との覚えのある声。まさか。やはり。背反の思いがまぜこぜになるなか、玄関のドアから現れる中年の女性。それは面影をおおいに残した姿。検索したとおりの〝教授〟。



―――――

Wikipedia


小半 久美子(こなから くみこ、1965年5月25日 - )は、日本の数学者。

旭原大学教授。旭原大学、ハーバード大学卒。理学博士。

修正・小半理論、無限昇降法、小半定理、小半数、小半予想で知られる。

―――――



 案内される瀟洒なたたずまいの室内。違和を感じて気づく。《《かたづいている》》。散らかし魔の彼女とその血を存分に受け継いだ自身が住まうには、ひどく整然としてある。


「徹底的に矯正された」


 写真立てにある、三人の姿。

 撮った記憶はない自身をふくむ、家族の肖像。左がわに立つ、面影を残す〝父〟。

 ――そうか、ふたりはそういう道を選んだのだと。

 三重(みえ)の名と家を放棄してほしい――わけを言わず頼んだ女史に、わけも聞かずすべてを捨てた彼。彼女の秘密は、墓場まで持ってゆかれるのだと。


 まったく新しい生活への不安と期待をないまぜに、千尋――小半千尋は、万感の思いをもって伝える。


「ただいま」






 期待はしないことにしていた。

 二葉(ふたば)拓海(たくみ)は、自宅、二階建ての足もとに立つ。

 変に寄せて、かなわなかったときの落胆はこたえるから。

 それにゴンは、十年以上もからっぽになっていた心のかたすみを、たった一カ月ちょっとのあいだでじゅうぶんすぎるぐらい埋めてくれた。あのあとのゴンが救われたなら、それでたくさんだから。


 玄関前に寄る。なにも変わらない犬小屋。いなくなったときからずっと、そのままにしてある、古びたたたずまい。住むものをなくして時間が止まったきりの、小さな家。

 ちょっとだけ、してはいけない期待をほんのちょっとだけ、いだいて、呼んでみる。


「ゴロー」


 そう、なにも出てはこない。

 自分は見た。彼の最期を。この目ではっきりと。この手で抱えた。あんなにぬくもりの抜けた、ぐったりとした体を。あの事実が変わるわけはないのだ。

 ないのだ。

 ないはず、なのに。

 じゃら、と重たそうに鎖を引きずって出てくる、老犬。

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。

 ないはずの、あるはずのない、姿。


「ゴロー……………」


 飛びつく。抱きしめる。力のかぎり。


「ゴロー、ゴロー……ゴロおぉーっ!!」


 老いた犬は、若者の塩からい頬をしげしげと舐めあげる。生温かい舌が、濡れる頬を濡らす。

 夢だったら、もしもこれが夢なのだったら永久に覚めないでほしい。永遠に眠ったままになってもいい。

 夢は、だけれども、覚めなかった。体温を失った重たい体の記憶が、温かに血のかよう寄り添いで上書きされる。夢まぼろしで終わらないよう、しっかりと、上書き保存。

 ごめんな。ごめんな。ずっと会えなくて。本当に、ごめん。


 彼は彼に誓う。


「もう、今度は、絶対に離さないから」






 歴史から消失した〝大正島事件〟に関して、博よりも、もう少し詳細に確認した者があった。当事者たる不藁(ふわら)(つよし)である。

 彼の知る、もとい、直接関与した同事件では、現実的な脅威として必ずしもじゅうぶんな認識が関係省庁で認識されていなかった間隙を突くかたちで強行され、勃発した。

 いっぽう、〝修正〟されたこの世界の歴史における、大正島をふくむ島嶼防衛の環境は、〝史実〟とはおおいに異なる様相に変貌していた。

 まず、ことの舞台、中心となった大正島であるが、この二〇二〇年現在においては、南鳥島同様、海上自衛隊が常駐する拠点のひとつであり、民間の立ち入りは禁じられていた。これにいたるまでの影の立役者こそが五十嵐(いがらし)皐月(さつき)だった。

 ネットで追えるかぎりの情報では、その名が直接的に表舞台にあらわれる機会はきわめてかぎられる。しかし、九〇年代という、当時の常識としては異例の早期から、離島への低強度侵入に対する問題提起が、陸自内でおこなわれていたという。九〇年代の前半からすでに発足していた研究会・内部勉強会は時代がくだるとともに徐々に発展していき、冷戦終結からまもなく島嶼向けの訓練が強化。法制度が整備されてゆくなか、〇〇(ゼロ)年代の終盤には初動部隊として海自の常設化が実現する。

 不藁をふくむ博たちの生きた歴史では、統合幕僚長まで登りつめた生え抜きのエリートであった五十嵐だが、書き換えられた新たな世界において、その昇進は陸上幕僚長にとどまる。彼の名が直接には出ないものの、ある軍事ルポライターが「名前を出せないのが悔しくてならないが、過去に取材したなかで最大と断言する大物フィクサー」と評する取材先の人物は、このようなやりとりを残している。


『――現在でも離島防衛をめぐっては必要性に疑問がていされ、与野党間でたびたび予算削減の議題があがる。この懸案に深く関わらなければ、より高次の栄典にあずかれたのではと振り返ることはないか?』『まったくない。そもそもにして、防衛とはむやみやたらに意識されるべきものではない。人しれぬところできちんと機能することがなにより肝要なのである』


 他国の侵攻を経験することのなかった現体制は、不藁個人に換言すると、平成初頭の時代へゆく動機の喪失となる。現役の自衛隊幹部として、三週間もの長期間、しかも、ゆき先を明示せずしての休暇はとるべくもない。つまりは、この時代(せかい)において、彼の帰る場所はないことを意味する。

 さて、帰ってはきたものの、どのようにここで暮らしてゆくか。ひとまずは、艾草邸に転がり込んで、これからの足がかりを模索していくのがとりうる選択肢か。


 山下公園、ひとりベンチに腰かけ、沖あいをゆく商船をながめて思案する。その懐で振動するもの。こちらから頼み入れるより先に、艾草博(あいて)がたから打診がきたのか。

 取り出した端末の画面を点灯させる。容易なことでは動かない眉が、ぴくりと脈動する。メッセージ、送信者の名前、『智子(ともこ)』。


 ひらく。


『もうこっちに帰った? 早く連絡して』


 あるはずのない、妻からのLINE。妻子は、もうひとりの己に任せたつもりでいた。この世界での自分(かれ)もまた、平成に発ったというのか。

 その理由も、隊に示した休暇の理由も今は判然としない。それはおいおい確認すればよいこと。彼は、日ごろからそうであるように、すばやく返信する。


『これから帰宅する』






 葵を送り届けた先、彼女の自宅マンションで妹・陽子(ようこ)から妙なものを渡された。


「平成に行く前、兄貴から預かったもの」


 受けとる封筒を「俺から?」と怪訝な顔でひらく。なかには一通の手紙があった。したためたのは博ではなく、彼・彼らの両親であった。



『今年で十年目になります。あなたに教えられた五月二十五日に、一九九一年から毎年、夫婦で旅行に出かけています。ともに感謝をしあう、たいせつな日として、私たちのあいだではすっかり定着しました。あなたが来て、教えてくれたおかげです。なにも特別に飾ったことはいえませんが、ただ、ありがとう、と感謝をしたい。もしかしたら、本来は会うことのできなかった葵ちゃんにも会わせてもらえて、なによりも、成長したあなたの顔をみせてもらうことができて。本当にありがとう。

 この手紙は、無事、帰宅できたら処分します。今年もそうできることを祈って、行ってきます。


 平成十二年五月吉日

 艾草 (きよし)節子(せつこ)



 陽子に確認する。彼らの両親は、《《歴史どおりに》》二〇〇〇年五月二十五日、午後五時半ごろ、高速道路を走行中、居眠り運転の車に追突されて車線をはみ出し、後続の大型トラックが衝突。ふたりとも即死であったという。


 ――なにが〝吉日〟だ。


 くしゃと便箋を握りしめ、博は宙空へ呼ばわる。


aDios(アディオス)っ、二〇〇〇年へ飛ぶ時空の《《むら》》を教えろ! 歴史が、世界がなにをしてこようとかまうものか。こんなかたちで旅を終えられるかっ」


 激する兄・伯父に母子は困惑するが、ここでの神もまた、沈黙。聞いているのかいないのか、あるいは存在()るのか不在(いな)いのか。とうてい、おさまりがつかない。

 たかぶる兄の片腕にそっと手をそえて陽子はなだめる。


「たぶん、これが最大公約数的な、求められるなかでの最適の結果なんだと思う」


 三倍以上の離れた歳から、五つ違いに戻った彼女は、ゆるゆると首を振る。


「兄貴も葵も無事に――まあ、その傷は無事とはいえないけど――ともかく、ちゃんと帰ってこられた。千尋さんと拓海君からのLINEからもわかるように、歴史は、よりよいほうに少しだけ修正された。不藁さんも、大正島の事件が起こらなかったことで救われたはずだと思う。アタシだって、あのとき、遠野(とおの)君がケガをしなかったら、もしも結ばれていたら、って考えることはある。だけど――」


 彼女は娘を引き寄せ、両腕のなかに抱く。


「それは葵が生まれてこなかった世界。アタシにはとても考えられない」

「ママ……」


 抱く腕に左手をあてがい、彼女は母親を見上げる。


「遠野君は助かった。それだけでもうじゅうぶん救われてるとアタシは思う。もともとは、もっと救いのない世界のはずだった。お母さんたちはそのなかに取り残されてしまったかたちになったかもしれない。だけれど、その手紙」


 陽子の視線に従うように、手のなかに握りつぶしたものを見下ろす。


「お父さんとお母さんの幸せそうな様子がとてもにじんでるように思える。あの日から十年間、ふたりは一日、一日をたいせつに生きることができたんじゃないかな、って。それって、兄貴のおかげなんだよ、きっと」


 さとす妹は、あたかも亡き父母の代弁者か。

 多くを望みすぎてはいけないのだと。

 ほどほどのところで充足を知ることが人生には必要なのだと。

 彼らはその境地で心穏やかに生きて、逝ったと。


「あのね」ふたりに葵は言う。「あたし、将来、あたしも看護師になろうかなって思った」


 母親と伯父に、おや、と見つめられて、はにかむように少女は続ける。


「誰かがヤバいときに助けられるようになりたいな、って。お医者さんは微妙にハードル高そうだけど、看護師だったらなれるかなって」


 あのねえ、と母親はあきれ気味に娘に説く。


「看護師の仕事を甘くみないでちょうだい。だいたい、あんたの成績じゃ、よっぽどがんばらないと厳しいんだから」


 まあ、急いで決める必要はない、それよりもまずは受験勉強をしっかりやりなさい、とお説教。

 じゃあ、合格したら二百五十連ガチャまわさせてくれる?あのね、自分のための進学でしょ、との日常の風景が戻る。

 いつもの残念ぶりをみせつけつつも、将来について考え、一歩、踏み出した姪。

 教えられた気がした。本来は変えられない、起こったことについて、ああしたい、こうさせろとねだるのではなく、糧として前へ進んでゆくものなのだと。


 ――俺も。

 将来について、今さらながらに考えてみようかな。


 ふ、と五十路の男はゆるく笑む。

 また寄る、と声がけて帰りかけると友人から着信があった。今ごろ親子水入らずで過ごしているのでは。なんだろう。電話に出た彼に告げられる青天の霹靂。


『まずいことになった。《《できたかもしれない》》』


 みようかなではなく、どうも真剣に考えなくてはならない分岐点にさしかかった可能性が。


「aDios! 時空のむらだっ、半年前への!」


 いまだ未熟の者なり。

最後までご愛読くださりありがとうございました。

未読のかたがたに、あるいは筆者に向けたメッセージを残していただければ、より幸いです。

では、次回作、もしくは既存の別作品でお会いしましょう。

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