二十一 おっぱいがいっぱい
ゴンの夢をみていた。
より正確には、ゴンがみていた夢。
母犬の多数の乳を、兄弟の子犬たちといっしょに吸っている。横たわり授乳する親犬。たらふく飲み、兄弟たちとともに眠りに落ちる。至福のとき。
やがてゴンは艾草家へとやってくる。ここを終生の地と定めたのか、飼い犬としての生活にすぐになじむ。初めは怖がっていた陽子も、しだいに慣れてゆき、犬嫌いを克服。家族の一員として認めるようになる。
あるとき、いつものようになにげなく与えられた菓子パン。自身が手ずからちぎって投げながら、これを傍観していた博は叫ぶ。
「《《やるんじゃあないっ》》!!」
跳ね起きる。
嫌な寝汗をかいての起床。悪い夢見に起こされた朝。ほうと息をつく。なんだってあんな夢を。かぶりを振って怖気を払う。
それが悪夢の原因であるかのような話し声が、廊下から漏れ聞こえてくる。
「千尋サンは《《オレ》》からナニか聞いてないか?」
「昔、犬を飼ってたって話はちらと聞いたことがあるぐらいで、詳しいことはなにも」
平成の自身が嗅ぎまわっているようだ。まさに犬のような。なにかひとことケチをつけてやろうかとにらんでいると、戻りぎわに目があった。相手は一瞬、たじろぐが、すぐにとりなおし博へケチをつけてくる。
「ゴンの件はカタがついていないからな。それと拓海の犬についてもだ」
廊下から見下ろす博と、布団の上から見上げる博。視線と視線がぶつかりあい、火花が散る。フンッ、とそっぽを向き博は行ってしまう。なぜ自分自身といさかわねばならぬのか。クソ、と舌打つ。
夢をみていたタイミングからいえば、平成博のしていた話が影響したわけではないことは明らかであるものの、要因になったようなかっこうで気分が悪い。悪夢とは称したが、最後のほうでよからぬ展開とはなったものの、全体的には心の安らぐ内容だった。
実際は見たことのない、母親とふれあう姿。犬は多産だ。兄弟と過ごした時期があったのだろう。多数の乳に吸いつく子犬たち。おっぱいがいっぱい。
珍妙なフレーズが浮かんで博は口をすぼめる。ほのぼのとした、いい場面に思いを馳せていて、なにを言っているのか。残念ながらも、韻を踏んだ、妙にキャッチーな響き。そういえば昔、そういう曲があったような。
馬鹿げたことを想起したものだ、と自嘲気味に両頬をぴしゃぴしゃ叩く手が、止まる。
点P。
昨晩、眠る前に意識上にのぼってきた語。なぜ、今朝もこれが出てきた?
博は連想する。
点P。おっぱいがいっぱい。P。オッパイがイッパイ。パイ。PAI。π。
「πだ!」
叫ぶ。突然、がなりたてた声に、廊下に出てきた葵は、ひゃっ、と悲鳴をあげた。
「どしたの、おじさんっ。とうとう、おかしくなっちゃったの??」
とうとうってどういう意味だ。
「πだよ、πっ」
「どうしよう、たくみん。おじさんが壊れたようにパイパイ言ってる」
「いつかこうなると思ってたんだ」
どういう目でみられてるのか。壊れたようには言っとらんわ。
朝食の場。博はもりもりと食い食い、ひらめきを披露する。
「つまり、〝P〟は円周率のπをあらわしているんだ。いかにも数学者が考えそうなことだ」
世紀の大発見とばかりに打ちあげるが、メンバーの響きは鈍い。
「Pのあとに数字が続いてたが、ソレは?」
たくあんをぽりぽり食べる博に、博は箸先を振るう。
「数学の表記によるならかけ算だ。Pの次は4896。4896×3.14だ」
「その3.14はどっから出てきたの?」
耳を疑うような発言が、白米を運ぶ姪の口から飛び出すので「よし、千尋、あとで説明してやれ」とプログラマーに任せスルーを図る。が。
「専門家の教師にもできない無茶振りをしないで。それと円周率は3.14じゃない」
〝円周率は3〟とでも言い出すのかと思いきや。
「3.1415926535897932384626433...と、《《ほんのごくわずか》》近似させただけでもこれだけの桁になる」
「ウッソォー! 千尋サン、スッゴイ……」
巻いた舌で口もとのご飯粒を陽子はなめとる。
「円周率は無理数。乗算して出てくるのは無限に続く近似値だから正確な値は得られない。それに〝T〟と〝e〟の目星はついてるわけ?」
痛いところを突かれ、いや、とトーンダウン。
「数学者ならPではなくギリシャ文字のπを使うだろうし、有限の数値しかあつかえないコンピューターに、無限に続く定数をもちいるのは不自然。もうしわけないけど見当外れと私は考える」
つらつらと言いふくめられて消沈。復刻の呪文内に仕込まれているとみるのが妥当、その検証を進めているから待っていてほしい、と言われてすごすごひきさがるしかない、ところであったが、今朝の博は変に冴えていた。沈み込むなかで、ふっとヒントをつかむ。
「それだっ、無限に続く数字」箸から人差し指を伸ばして、葵越しに千尋を指す。「円周率の4896桁目に答えがある!」
ごほっ、と千尋は噴き出す。かまぼこが気管に入りそうになってむせたか。げほげほ咳き込む彼女に、節子が水を差し出す。彼女の息が整うのを待って、博は問う。
「円周率、4896桁目の数字はなんだ?」
「わかるわけないでしょっ」
てっきり、即答できるのかと思った。先ほど十数桁ほどそらんじてみせたので。冷静に考えて、ないな、と気づく。
「なら、計算して求めてくれ」
「あのねえ、円周率を計算するのってとんでもなく時間がかかの。CPUのベンチマークテストにももちいられるぐらい、膨大なリソースを食う」
「だが、まさにそういうフリーソフトがなかったか? 百万桁ぐらい計算できるやつ」
「あれは……東大のコンピューター科学を専門とする研究者が開発した、かなり高度なアプリケーションよ。プログラミングと数学、双方を専門レベルで熟知しているから叩き出せるめちゃくちゃな速度。ソースコードをちょっと見たことあるけど、独自の理論に基づいた特殊な設計になっていて、なぜそれで求まるのかちっとも理解できなかった。円周率を高速で算出するのは難易度が高いのよ。私ぐらいの一介の開発者じゃとてもじゃないけど無理」
まくしたてられ、あっさり道は絶たれる。本職が無理と言うのだからどうしようもない。
「くっ、二〇二〇年ならネットにいくらでも転がっているんだが」
悔しがる博に博は目をむく。
「未来じゃア、パソコン通信はそこまで調べられるようになるのか」
パソコン通信ではないが。
せっかく見いだした活路が閉ざされ落胆する息子、歳上の博に、しかし、父親が助言を与える。
「大学の図書館に行けばナニか資料があるンじゃないかナア」
清の言葉に何人かが、はっ、と反応する。箸で切り干し大根をつまみ上げながら、彼は続けた。
「学生のころは、調べモノをしに足しげくかよったモンだ。普通の本屋には置いてないような専門書を収蔵していたりする」
「しかし、円周率を何千桁も調べられるような本が存在するとは……」
「いやいや、わかりませんぞ」遠慮がちに意見する千尋に、清は首を振る。「世のなかには、誰が必要とするのか皆目見当がつかないような風変わりの本があるものです。探してみる価値はある」
「だめでもともとだ。いい機会だから、小半助教授の旭原大学に行ってみよう。なにか情報がつかめるかもしれん」
「だけど、不用意に助教授について尋ねるのはどうかと」
「大丈夫だ」千尋の懸念に博も首を振った。「うかつなことは口にしないよう、じゅうぶん注意する」
案外、女史のたちまわり先が判明したりしてな、と楽観視するリーダーに「でも……」千尋は煮えきらない様子だ。たて続けに意見がとおらずおもしろくないといったところか。ひっそりと博は笑う。つんと澄まし顔でいるようで、ときどき、ぽろとこういう面をのぞかせる。そういうところだ、いい意味で。
「予想外の成果をひっさげて戻ってきてやる。期待せず待ってろ」
【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】
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