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十二     ゴロー

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「ゴロー?」唐突な名前に博は惑う。「《《ゴン》》がどうしたって言うんだ」


 拓海が勝手につけて呼んでいる飼い犬の名前だ。この期におよんで茶化すとは、と高ぶりかける博に、拓海は弁解する。


「じゃなくてっ――オレん()にいた(やつ)なんだ」

「おまえの?」


 落とそうとした雷をとどまらせる。うなずくようにうつむきかげんとなる拓海には、ふざけるそぶりは毛先ほどもなし。なにも考えずお気楽に生きている若者(バカもの)には不釣りあいの、どこか思いつめたかの陰り。左右の膝上に固める拳には無念めいたものが宿っていた。少し毒気を抜かれた博は、話してみろ、と弟ぶんをうながす。


「子供のころ、犬を飼ってたんだ。雑種で、ゴローって名前」「五歳のときに親が仕事先でもらってきてさ。オレが名前をつけたんだ」「散歩に連れてくとき、すげー、引っぱる奴でさあ。毎回のように転ばされるし、ひもを離してしまったら勝手に走ってくの。呼んでも戻ってこねえし、散歩、クッソめんどかった」


 宙にその情景を見るように、昨日のことを話すように、拓海は懐かしむ。


「小五のときだった。いつものように散歩に連れてって、いつものようにいきなり引っぱられて、いつものようにすっ転んで、いつものように逃げられて。探してもみつかんなくて、そういうときはだいたいゴローのほうが先に帰ってるか、あとから自分で戻ってくるかするから、オレはいつものようにそのまんま家に帰った」

「ゴローは帰ってなくて、餌の時間になっても戻ってこなくて、でも、たいてい朝にはしれっといるから、あんま気にせず普通に寝て、起きて、犬小屋んとこを見たら、ゴローはいなくて」

「ちょい気になったけど、たまにあることだったし、なんだかんだいって、学校から帰ったら普通に家にいる奴だったし」

「もし万一、下校してもいなかったら探しにいこう、って。そう考えながら登校してたらさ――」


 知らず知らず、博は拳を握っていた。ぎゅっと握りしめる拓海のそれが移ったのか。同じような空気が横の千尋から、廊下の陽子たちからも漂っていた。たぶん、聞いてはいけないことを聞いた。そして今、聞いている。


「ゴローが、道路に倒れてた」


 ひっ、と誰かが息をのんだ。

 当たらなくていい予感は、的中する。


「一瞬、意味がわかんなかった」

「血が、出てた」

「ゴローの体から、道路に」

「意味が全然わからなかった」

「さわったらちっともあたたかくないの」

「いみがわからなかった」

「いつものようにどっかにいったのに、いつものようにはもどってこなかった」

「いたかったのかな、こわかったのかな、さびしかったのかな、ふあんだったのかな、かなしかったのかな、って」

「おれがわるいんだ。おれがてをはなしたから、おれがちゃんとさがさなかったから、おれがかってにかえってくるっておもいこんだから、おれがそのままねてしまったから。そのあいだに、ごろーは」

「おれが、おれが、おれがごろーを」


 小学五年生の男子がいた。

 そこにあるのは、日が浅くも成人を迎えた、黄色く髪を逆立たせるフリーターの若者ではなく、まだ、染めたり抜いたりしていない髪の男子児童。ひとまわりもふたまわりも縮んでしまったかの背中と首すじ。


 この能天気なバカは、きっと子供の時分からバカだったのだろう。バカだから犬に逃げられ、よく探しもせず、あげく、自責の念にとらわれる。大バカだ。こいつも、話させてしまった自分も。

 博は、ぎり、と苦虫を噛みつぶす。

 ごめん、ちょっとお手洗いに、と足早に出ていく千尋がとおりすぎたわきの三人は、中学生女子の母子が肩を寄せあってむせび、もうひとりは博自身と同じ顔をしていた。不藁だけが、彫像のように固く腕を組んでいた。



 ふたたび話をし、また、皆が冷静に聞けるようになるまで、いくらかの時間を要した。拓海は足をくずすよう勧められた。戻ってきた千尋は、目が少し赤かった。


「バブルへ行けることになったとき、思いついたんだ。もしかしたらゴローをなんとかできるんじゃないかって」

「でも、博さんは、過去を変えることは許さん、つってるし、こんなこと言ったら絶対、連れてってもらえないと思って言えなかった」

「それに、なんとかする、っていったって、なにをどうしたらいいかわからなかった。オレは生まれてもいないし、親もまだ子供だから、言っても信じてもらえない。てか、そもそも、誰もまともに聞くわけないし」

「哲也さんにバレたとき、そのこと話したら『俺が伝えてやる』って」

「バブル時代の哲也さんが将来、オレん家へ忠告するようにしてやる、つって。その代わり、哲也さんから哲也さんへの連絡役になれ、って」

「でも、もうだめだ」


 力なくこぼす。

 そこに、底抜けに楽天的な普段の彼はなかった。


 沈痛の沈黙が、死人のように部屋へ横たわる。破るのがためらわれる静けさを、だが、家人のひとりが高らかに、裂いた。


「簡単なハナシだ」若い博が廊下から一歩、部屋へ踏み入る。「オレが伝える」


 あびる注目を、青年は決然としたつらがまえではねつける。


「そうだよ、おじさんがいるじゃん!」

「ウンウンっ。お兄チャンでもイイし、アタシとか、ウチの誰かが言えばイイだけだヨネ!」

「博さん……」


 沸きたつ一同。絶望へ差したひとすじの光を見上げるかのように、拓海の目に色が戻る。うん、うん、と千尋はそっとうなずき、不藁は変わらず腕組み。ひとまずの大団円を、


「だめだ」


 もうひとりの博は、認めない。

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