ひさかたの 光のどけき 春の〝日〟に しづ心なく 花の散るらむ
よく晴れた、気持ちのいい日だった。
五月の下旬、保土ケ谷区狩場町。
艾草博はブッカのブーケをぶら下げ、そよ風に吹かれていた。
顔をなぜる初夏の風は暖かく、優しげ。髪を、幼子の頭をなでつける手つきのような。しばし、立ちつくす。
月曜の真昼。人影はほとんどない。ちょうどひと月前、アンザックデーには、近場は混みあっていたのだろう。ひるがえって、こちらは人混み知らず。寒暑のない、いい季節を選んだものだ。
妹の陽子はいなかった。新感染症の対応に追われ、日々、仕事の激化する看護師は体があかない。その娘だけが、代理もかねるかのように随伴する。休校中の彼女は、伯父同様、時間はいくらでもあった。
「そこも丘谷にあるんだよね?」
葵が見上げる。背の順では小学生以来、前から五番以内をたもつ小柄。小動物の愛嬌で、メンバー間でもマスコットの位置づけだ。
「行ったことないから楽しみ」
安気な笑みに、遊びじゃないんだ、と言いかけて、やめた。そこまで口やかましく言うようなことでも料地でもない。くれぐれも口を慎んでくれよと釘を刺すにとどめる。
「わかってるって」
大丈夫、大丈夫。姪のこの安請けあいほどあてにならないものはない。今から頭を痛くする博は、襟もとをひらいたシャツ、ポケットから一本取り出し、火をつける。くゆらす煙が風で流れ、葵の鼻先をくすぐる。
「いい天気だね」
楽しげに空へ深呼吸。ほのかに目を細める姪っ子に、ああ、と天をあおぐ。問うべき先はそちらがわか、それともこちらがわか。問うべきは、なにか。
そこにいるのだろう。
天上の空、楽園を空にしている世界のあるじを内心で呼ばる。
神と称してはばからない正体不明の存在、aDiosの返事はない。用のないときにばかり無駄に話しかけてくるくせに。
今は答えがほしかった。どちらへ問えばいいのか。なにを聞けばいいのか。鬼の絶好の棲家とみて悪魔はささやいたのか。よこしまな神でもなんでもいい。答えてくれと。
よこしまな神は横浜を留守にしているのか、啓示はない。
今さら雲隠れするたまでもあるまい。どれだ、どの雲にひそんで、新居をあてがった鬼になにごとかをささやきでもしている。
いくつか、大小、五つばかりの雲をねめつけて吐く。天啓はない。
今日は答えが得られると思った。いや、答えでも得るのでもない。魂と胆に背く魂胆への踏んぎりを、あるいはあきらめをつけようと。今日という日は、キリシタンの心境、セイボの絵を踏むには、またとない日だと。
いっそ土砂降りであってくれたなら。罪も汚れもいくばくか、鬼の居間は洗濯われたのだろうか。うららかな日差しなど浴びる資格は持ちあわせていない。
「なに、おじさん?」
ぎゅっと、後ろから抱きしめる。柔い小さな体。いいや、立ったまま抱けるほどに大きくなった。遊んでもらえると思ってはしゃいだり、ふざけているものとみて茶化したりの歳のころを過ぎ、
「どうかしたの?」
肩を包み込む腕にそっと手を置き、少女は聞く。まるで、だだっ子をあやすような。――これじゃあ、歳があべこべだ。
今はかまうものか。博は、湧き出す黒髪の源泉、頭頂に頬をあてがう。そこはほの温かく、洗髪剤の柔らかな匂いがよしよしと壮年の男をなだめる。
大丈夫。大丈夫だから。あたしがついてる。
無言のうちにそう元気づけてくれているようで、ほんの少しだけ、心が、なぐさんだ。
ひとしきりすがって解放した姪は、にっこりほほえむ。
もう、大丈夫? そう確かめるような、満面の笑顔。ああ、大丈夫だ。言葉なき問いかけに、返答。
「このあと、どうするの?」
少女は、駅前に遊びにいこうよ、と伯父の手を引く。いつもの葵だ。
博も、いつもの己に帰る。
「金は出してやらんぞ。自宅学習をさぼるばかりするからなにも買ってやるな、連れてくなと陽子に言われてる」
「ママ、ひっど。おじさんにも言ってるの?」
いいじゃん、ないしょでGOALに行こ、『転生したら(略)しまいました』のコラボやってて毎月二十五日は限定チートスキルがもらえるんだって、と騒ぐ。なんだ、限定チートスキルって。
「なら、ちゃんと勉強しろ」
「するからあ」
「しないだろ。してから言え」
するってば、したためしがない、なんでもいいから二十五個買ってよー、多いわ。
ちょこまかまわる姪に、にべのない返事で引き返す。
せめて。
葵がせめてもの罪滅ぼしになれば。
その一点、ただのひとつだけでも、彼女をともないゆく理由たりえる。どのみち、自身には用意できなかったもの。根なし草の性分だ。しかたがない。
風がそよぐ。
博の背後、チューリップは陽の光のもと、静かに、白く、横たわる。
【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】
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