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二十二

「あまりの剣幕にさしものわたくしも驚きました。元来、若旦那様はご自分をとおそうとおそうとなさる、ひとすじ縄ではまいらぬおかたではありますが、有無をいわさぬ頭ごなしのご命令は一度たりとなさいませんでした」


 君子豹変。俗用は本来の意味と異なるようだが、今はそのイメージがよくあった。小半久美子の前でも〝豹変〟したのかな、とよけいごとがよぎった。話に集中する。


「若旦那様はお声を荒らげになりました。戻れ、病院に行け、赤ちゃんを探せ、連れてこい。金切り声のかぎりをつくされ、ご要求をなさいました」


 つたない声と言葉で命じる小さな暴君。坊やの隆君は、なりふりかまわずせがんだのだ。


「あのときの若旦那様にできるせいいっぱいの抵抗でございましたのでしょう。大人でも途方にくれる非常時に、どうにかしてあらがおうと、お小さいなりに必死でいらしたのです」


 隣に小さな男の子が座っている。

 粛々と語り聞かせる初老の男に、坊やは怒鳴る。真っ赤な顔で。懸命に。得体のしれない、なにか恐ろしいものからのがれようと。あんなに底抜けに明るい人が。


「わたくしは断腸の思いでお諌めいたしました。『お口をお慎みなさいませ』と。『そのようなふるまいはしてはなりません』と。心を鬼にし、厳しい口調でお叱りいたしました」


 回顧する声づかいはあくまでもの静か。それでも、しみ出る心苦しげな響きは、ぴしゃり一喝するさまをよみがえらせる。隣の男の子はびくとすくみあがる。千尋も、自身が叱責されたかの居心地の悪さをおぼえる。


「泣きだされました。それはそれはきわめて大きなお声で。わあわあと、火がついたように激しく、激しく」


 泣きわめいている。千尋の横で、小さな男の子は大声、喉が張り裂けんばかりの絶叫をあげる。


「ずっとがまんなさっていらしたのでしょう。寿(ことほ)ぎのひとときが突然、奪われ、大旦那様も大奥様も、ご覧になったことのない狼狽ぶりをお隠しになれず、大人たちは大わらわ。不吉な空気に飲み込まれまいと張りつめておられたものの、進退きわまり、ついに糸が切れてしまわれた」


 泣きじゃくる男の子のわきには、ちぎれた糸。手足を放りだし大泣きする小さな体には、のしかかる不吉はあまりに大きく、重たい。


「許されるなら戻ってさしあげたかった。若旦那様にもわたくしにも、できることはなにひとつないでしょう。それでも、お気持ちがいささかでもまぎれるなら、まったく無意味ではないと」


 同じ思いだった。時空のむらなどに頼らない、万能のタイムマシンがあるならば、仮想の男の子のいる時代に飛び、事件を未然のものにとどめることができる。歴史が大きく変わってしまうことを承服できるのであれば。


「わたくしになしえたのは、与えられた職務を忠実に遂げることのみでございました」


 千尋もまた同じ。都合のいい装置もなければ、歴史改変に踏みきる覚悟もない。起きてしまい変えようのない昭和(かこ)に耳を傾けるのみ。――いや、平成(かこ)は変えられる。平成(ここ)なら――


「三重家は、大旦那様の代で急成長した、新興のご一家でございます。人のつながりいかんで繁栄と衰亡は左右される。尊大と傲慢は大敵とせよ。大旦那様は常々そのようにおっしゃり、若旦那様にも徹底しておられました」


 三重一族の独特な家風は千尋も聞きおよんでいる。関東有数の資産家であり、隆の父親の価値観による一風変わった指針を、なにかで見た記憶がある。


「子供の範疇、少々のきかん坊ぶりにはわりあい寛大でおられるいっぽう、領分を超える尊大な身持ちにはきわめて手厳しい。大旦那様の方針にのっとり、心細くてたまらない若旦那様へ鞭打たねばならぬ身は、実につろうございました」


 まるでハンドルがその鞭であるかのように握りしめる。二度とそんな気持ちは味わいたくなかっただろうなと千尋は同情する。


「新聞やテレビは、ブルジョワを狙った誘拐事件などと大々的に報じ、おもしろおかしく書きたてる週刊誌もあって、大旦那様、大奥様はたいそうお心をお痛めでした。結局、誘拐犯から連絡がくることもなく、お子様はみつからぬまま。こんにちにいたっております」


 一族についてのWikipediaの記事でも、迷宮入りのできごととして記載されていた。〝五億円の身代金をことわった〟のような、根も葉もない噂が当時は飛び交ったらしい。

 それにしてもあまりに赤裸々に内情を話しすぎなのでは。千尋はようやく口をひらく。


「あの、個人情報とか守秘義務とか大丈夫なんですか?」

「はて、コジン情報とおっしゃいますと?」

「ええと、プライバシーという意味です」

「さようでございますか。はい、ご心配にはおよびません。『口の戸に身は通ず。たてれば持ちくずし、ひらかれれば正される』。三重家の家訓にございます」


 そうだった。これもWikipediaにあったなと千尋は思いあたる。三重隆はそうとうに持ちくずしているようだが。


「まもなく到着いたします。お嬢様、お支度を」


 はっと外の景色を見やる。夜の街に駅が見えていた。


 タクシー乗り場につける。何時間か前に訪れた場所に戻り、人心地がつく。昭和(かこ)から平成(かこ)にたどりついた。不思議な気分だ。


 降車する運転手に、千尋はドアへかけそうになった手を引っ込める。みずからあけるのは逆にマナー違反だ。機敏にまわり込む紳士にゆだねる。


 後部座席が外界とつながる。入り込む生ぬるい空気に、夏であることを再認識させられる。これも妙な心地。


 千尋に先じて、見えない男の子が彼女をすり抜け、車外へ出る。まだ泣きぬれる幼い隆は、執事か家政婦に手を引かれ(やしき)へ見えなくなる。複雑な思いで見送る千尋に、深々、家人へこうべをたれていたはずの紳士が声がける。「いかがなさいましたか?」


「いえ」


 軽く首を振り、千尋も車を降りる。もう、泣き声は聞こえない。


「貴重なお話をありがとうございました」

「とんでもないことです。お嬢様のご好意に甘えるあまり、昔話におつきあいをいただいてしまったこと、僭越にございました」


 目を伏せわびる壮年に、こちらこそとんでもない、と面映ゆく苦笑う。運転手つきの車での送迎といい、こんな経験はあとにも先にもないだろう。お嬢様呼びも。万一、執事喫茶に目覚めでもしたらどうしてくれるのだ。


「それでは、くれぐれもお気をつけて」


 深い一礼にぺこりとおじぎ。駅構内へ向かう。〝花金〟の夜を出歩く平成人に混和しつつ振り返る。一分の隙もなく、車の横で背すじを伸ばす初老の運転手。最後まで見届けるのが彼の仕事なのだ。ありがとうございました――もう一度だけぺこと会釈する。返されるかしこまった黙礼。

 〝お嬢様〟は屋敷(えき)へと、消えた。

【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】


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