二十一
軽い渋滞に巻き込まれた。
道路の流れは鈍め。歩道を行き交う、すっかり見慣れたバブルファッションが、ゆるく人混みをなす。華やぐ週末の夜。
過去世界の壮年は、さらなる過去へと千尋をいざなう。
「もともと難産が見込まれていたそうです。実際、夜半に病院に向かわれてから、半日以上を要したとのこと。なにはともあれ、無事、元気なお子様がお生まれになり、関係者一同が安堵しました」
黄色から赤信号に切り替わる。白熱電球の信号機が車を止める。LED式がまだ存在しない時代。その発光ダイオードが実用化もしていない時代のできごとを、彼は続ける。
「『赤ちゃんがいない』。辺りがだいぶ薄暗くなったころ、血相を変えた看護婦の知らせで騒動は始まりました。新生児室の赤ん坊がひとりたりない。大旦那様と大奥様のお子様でした。何者かが連れ去った。病院じゅうが、蜂の巣をつついたような騒ぎとなりました」
信号が変わる。車はまた動きだす。
「烈火のごとくお怒りになる大旦那様、平謝りで窮する院長や婦長たち、魂が抜けたように放心なさり、おいたわしいお姿の大奥様。人生で指折りのおめでたい日が、奈落の底に突き落とされた病室。正視に耐えない痛ましい場、人々のかたわらで、小さな若旦那様はぽつんと立っていたそうです」
祝賀ムードが一変し大人たちがうろたえるなか、年端もいかない男の子は、ひとり、どんな気持ちでそれを見ていたのだろう。今日、会った彼からは、どんな様子も想像できない。車窓に映る、夏の夜にこの世の春と浮かれる人々が、長い冬が足もとまで近づいていると思いもよらないように。
多少の負荷のかかった交通状況は、牛よりは速いていど、馬の歩みだった。
せっかちなタクシーが車間をぬう。抜き去っていくとき、通話中の乗客を見た。固定電話の受話器よりも大きな携帯電話だった。
携帯もPHSもない一九九〇年。さらに二十年以上も前の病院内に、防犯カメラなど設置されていなかっただろう。少子化の二〇二〇年とでは、意識もセキュリティー体制も牧歌的だった時代の悲劇。
「およそ若旦那様のいらっしゃる場ではなく、お引きとりいただくため、わたくしがお迎えにあがりました。そうして、若旦那様は先ほどもうしあげた問い『赤ちゃん、どこ行ったの』と。わたくしはお答えいたしました。お子様は誰かにさらわれてしまった、どこにおられるのかわからない、警察とともに皆が懸命にお探ししている、そのようなむねを。若旦那様はこうおっしゃいました。赤ちゃんを探しにいこう、と」
今度はすっと浮かんだ。まっすぐな、小さな目。混じりけのない、決意のあらわれ。今しがた見てきたばかりだ。黒歴史を平然とさらけ出す人物に釣りあわぬ、まごころを宿した双眼。
みつかったと。この世界に生を受けて何時間もたたない嬰児は、無事みつかったのだと。そのような結末を、できることなら聞きたかった。
薄く白髪の交じる紳士は、そのときもそうであったように、丁寧なハンドルさばきと答えを示す。
「いたしかねます、と。わたくしは坊ちゃまをお宅へお送りするようもうしつかっております、これに背くことはいたせません、と。そのようにもうしあげ、おわびいたしました。若旦那様はご幼少のころより、一度おっしゃい始めると容易にはお聞き入れをいただけないおかたです。赤ちゃんを探そう、探したい、帰りたくない。何度となく、繰り返し繰り返し、ご要求をなさいました。わたくしは丁重におことわりとおわびをもうしあげるほかございませんでした」
聞きたくなかった。
千尋は窓ガラスに側頭部をあて、一九九〇年のうわついた時代に逃避する。あざやかなモノトーンに身をつつみ、はしゃぎあう女たち。結果はみえている。ほとんど終始、闊達に破顔していた彼。三重隆が味わった悲しみはもうじゅうぶんだ。もうおしまいでいい。それでも千尋には、この話を結末まで聞くことが自身の義務のように思えた。小半久美子をめぐって三十年後の世界から来た自分は、聞いてしまった以上、さけてはとおれないできごとなのだと。
押し黙る女をどのようにとらえているのか。彼は淡々と、しかし、感情を込め、起こったことをありのまま伝える。
「若旦那様は爆発なさいました。『止めろ!』と」
【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】
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