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二十     思い出はぽろぽろと

 エッ、と惑いながらも道わきに停車する。迅速にしてスムーズ。たまに当たる雑なタクシーとは違うなと感じさせられる。


「どうかなさいましたか?」


 運転手が振り向き、尋ねる。言葉づかい、トーンもしかり。これがお抱え運転手というものなのか。多少の惜しさがわいて、もう少しぐらいは感激にひたっていたい、そのような庶民じみた感情が頭をもたげたのは否定できない。しかしながら、心情的な事情にくわえ、不藁を待たせてもいる。千尋は、後ろ髪を引かれるように意思表示。「ここで降ります」

 唐突の申し出に、格調高い紳士も驚きを隠しきれない。


「なにか粗相がございましたでしょうか?」


 もしもそうであればたいへんもうしわけございません、そうわびる年長者に恐縮する。


「そうでなくて。寄っていきたいところが」

「さようでございましたら、そちらを経由いたしましょう」

「時間がかかるかもしれないので」

「いかほどでいらっしゃろうとも、わたくしどもはお待ちいたします」

「かなり遅くなりそうですし」

「もし終電にまにあわないようでしたら、ご自宅までお送りさせていただきますので、ご安心くださいませ」


 慇懃でとても穏やかな口調だが、絶対の使命を果たそうとの強固な意志がにじむ。千尋は少々、苦慮する。


「ここで降ろしてもらうわけにはいきませんか?」

「おそれながら、たいせつなお客様であると若旦那様よりおおせつかっております。お嬢様にもしものことがございましたら、わたくしではとりかえしのつきようもございません」


 お嬢様て。生まれてこのかた呼ばれたことないわ。てか若旦那様って。映画やドラマか。


 千尋は弱る。どうしても降りるのだと言えば無理強いはできないだろう。しかし、この人あたりのよい男性があとで責任を問われるのは忍びない。


「すみません、少しだけ前を向いてもらってていいですか?」

「ア、ハイ、承知いたしました」


 正面へ向きなおると、彼は、後部座席が視界に入らぬようミラーの角度を変える。こまやかな心配りだ。やはり迷惑はかけたくない。

 ポケットから携帯端末を出し、すばやく画面をフリックする。


『駅に移動して 事情はあとで説明する』


 LINEのクローンアプリでメッセージを送信。返信は五秒ほどとおそろしく早かった。


『了解』


 ひとまず、これでよし。端末をしまう。


「では、駅までお願いします。わがままを言ってすみませんでした」

「とんでもないことです。お嬢様にお気づかいをいただいてしまったこと、わたくしこそ、おわびのしようもございません」


 おみとおしというわけか。さすがはお抱え運転手。タクシーとはレベルが違う。でも、お嬢様はちょっと気恥ずかしい。


 ミラーを整え、改めて発進する。窓の外の住宅が再度、流れだす。

 千尋は前方の景色と運転手とを見つつ尋ねる。


「このお仕事は長いんですか?」

「かれこれ二十五年あまりになります」


 へえ、と千尋は感心する。思ったとおりのベテランだ。言葉のはしばしに漂う貫禄が物語る。


「三重家の専属ドライバーですか?」

「さようにございます。ありがたいことに、わたくしは格別のごひいきをいただいております」

「隆さんとのつきあいも長く?」

「若旦那様がご幼少のころより、ねんごろにさせていただいてまいりました」

「昔から《《あんな》》感じでしたか?」

「ハハハ。たいへんにわんぱくなお坊ちゃまでいらっしゃいました。たとえば、羽田に向かっている際に、当時まだ建設中だった成田空港を見にいきたいとおっしゃってお聞き入れいただけず、ほとほと弱ったことなど数しれず」


 イメージどおりのやんちゃ坊主と。実はおとなしい子だった、との意外な一面はなしか。


「今では五つの会社で重役を兼任されておられる。たくましい男性にご成長なさいました」


 あっちのほうもたくましすぎて、女をとっかえひっかえしていたようだが。

 お懐かしい、とやわらかに笑む運転手に「ははは……」やや引きつり気味に返す。


「隆さんについて初期の、いちばん印象に残っていることにはなにがありますか?」

「そうですねえ……」


 初老の運転手は、少し脳裏を探る。最初期の記憶をさらえて「これはあまり愉快でないお話ではあるのですが」口調が改まり、トーンダウンする。千尋の意識のリソース、フロントガラスの先へ割りあてられていた領域が解放され、聴覚で確保される。


「わたくしがまだタクシーあがり、駆け出しのころでございました」「妻と、五人ももうけた子供を養おうと、実入りを求めて専属運転手に職変えをいたしました」「一流のドライバーになろうとしゃにむにだったわたくしを、大旦那様はよく名指しでお呼びになられまして」「運転手としての礼節、機知、矜持。それはもう数多くのご鞭撻をたまわり、たいそう目をかけていただきました」


 穏当な話にも、紳士の口調には陰りが差した。千尋の背筋は自然と正される。


「早くからご信用をいただけまして、若旦那様おひとりをお預かりさせていただくこともしばしばございました。あの日も、お迎えにあがった病院からご自宅へお送りしておりました」


 病院。偶然にも小さな医院の前をとおる。無意識に目が追ったが、フレームの向こうへすぐ流れた。車は幹線に出る。


「大奥様がご出産のためご入院なさってらっしゃいました。お母様思いの若旦那様は、幼稚園をお休みされておつきそいになられていました。しかし、宵の口、病院で騒ぎが起こりまして。日が暮れた時分になって、若旦那様はお宅へお戻りいただくことに」


 その日も三重隆は、今、自分が座っているように、暗いなか、彼に送られていたのだろうか。


「しばらく走ったころ、若旦那様はぽつりとお尋ねになられました。『赤ちゃん、どこ行ったの』と」

【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】


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