十八 もうひとつの暗号
コイツを解いてくれないか、と内ポケットから財布を取り出す。なんの皮かは知らないが、素人目にもいかにもお高そうなブランド物で、二、三十枚入っている紙幣はすべて万札なのだろう。この五十億ドル男が、とひがみっぽい視線を向けていると、隆はカード類のあいだから紙片を抜いた。手渡された四つ折りのそれは変哲のない紙きれ。金持ちの財布から出てくるには不相応の安っぽさだ。広げると手のひら大。絵と文字、数字、記号が書かれている。
小半久美子の部屋のように雑然とした、どうにもとっ散らかった構図、との印象をいだいたとき。
「ちょっと!」悲鳴にも似た大声にびくと顔を上げる。とっ散らかった部屋のぬしが、とっちめる勢いで詰め寄る。「みみみ、人に見せないでよっ」
耳に水を流し込まれ飛び起きたようなあわてぶり。ああ、実際に本人が作ったものだったか。
久美子の抗議に隆は涼やかだ。
「キミが言ったンだヨ、どうしてもワカらないときは助けを借りてもイイって」
「それは、必要になった場合、最後の最後にかぎって」
「そんなときに悠長に解いてなんかいられないヨ」
メイド・イン・ハーバードにひとりで対抗なんてどだいムリってもんサ、とあっけらかんの隆に対して、久美子は「だけどっ」ちょっと涙目ですらある。
「あの、これは?」
なんとなく予想がつくが聞いてみると、
「クミコの暗号サ」
やはりか。この人はどうも暗号が好きらしい。そして意図せず、人目にさらされてしまうことが。澄まし顔のイメージをくずすキョドりようは、先ほど、玄関前でみせたときにも通じる。玄関が鬼門なのか?
「コレはね、クミコがいなくなったときの手がかり」
「もういいでしょ、しまって」
いよいよ赤面しそうな彼女にかまわず隆は続ける。
「もしも、いつか自分が姿を消すコトがあったらココにいる、コレは事前の置き手紙だ、ってネ」
ううう、と小半久美子はおもてをふせる。ついに言葉をなくしたらしい。
つまるところ、彼女に予知能力があるだとか、私がこの世を去ってもここに行けば会えるよ的な(およそ彼女に似つかわしくない)オカルトチックでメルヘンチックな話、などではなく、単に「ケンカしてどこかに行っちゃったらここにいてあげるから、一生懸命、暗号を解いて迎えにきなさいよね!」との、これはこれで小半久美子らしくないというか、逆に完璧なまでに彼女らしいというか。こんなひねくれたツンデレ、ノロケ話。見られたほうも見せられたほうもどうしろというのか。気まずくてかなわない。なぜ、当人のかたわれにもかかわらず、この人はにこやかに突っ立っていられるのだろう。そういうところだぞ、三重隆。
「どうだい、答えがワカりそうカナ?」
そういうところな御曹司は、本人の前で無遠慮に尋ねる。せめて、見ていない場所で聞いたらどうなのだ。
そもそも、彼の言葉をもちいるなら〝メイド・イン・ハーバード〟。二〇二〇年に出まわっている暗号が、その道の権威がさじを投げるレベルであることを考えれば、数秒で解いたらそれこそ誰かの言うチートスキルだ。自分は火星人ではない、との返答を逆意訳し首を振る。「私、一般人なので、ちょっと」
ヤングエグゼクティブは「ボクだってクミコとは違うただの凡人サ」と朗笑。ただの凡人に何千億もあつかう機会はない。
リアルエグゼクティブのポジションはともかく、小半久美子の暗号強度をよく理解している身からすると、ぱっと見でも、常人に解きおおせるたぐいでないことは明白だった。絵や象形の比率の高さは、理詰めで正解を導く試みを打ち砕こうとの姿勢のあらわれ。ロジカル世界の住人がみせる態度として最悪クラスであり、手に負えないしろものであることの証左にほかならない。いったい、迎えにきてほしいのかほしくないのか。
懸命に解読することを愛の――陳腐な言葉だ――証明とみなそうとの意図によるのかもしれないが、愛だ情熱だの精神論でどうにかなる水準ではない。人の知恵を借りることが前提にあるとしても、三人寄れば小半久美子の知恵が出るとでも? 無理だ無理。小半久美子に少なからず通じ、わずかばかりながら暗号へのたしなみがある、この条件を満たしてなお、まったくもってさっぱり意味不明。ちょっと頭のいい人間を三人だ五人だ集めてどうこうなる次元をはみ出していた。三重隆も三重隆だが、小半久美子の感覚はやはり少々、一般のそれと乖離している。これを破れ鍋に綴じ蓋といってよいのか。
「ま、もし解けたら教えてヨ」
暗号を預ける相方に久美子は黙っていられない。「人にあげてしまうの?」
いくらわからないからといって手放すなんて、と心外な顔ばせの彼女に、隆は飄々、肩をすぼめる。「チカサンのはコピーだヨ」
え、と虚をつかれる交際相手に、お高い皮財布からもう一枚、同じ紙片を出してみせる。
「そしてコッチは予備用のコピー。クミコからもらった原本は、家の金庫で厳重に保管中」
したり顔でのウインクがそこはかとないうっとうしさをかもすが、小半久美子にはてきめんだった。
「だいいち、くれたのはA4サイズだったじゃないか」
「でも、でも」動揺を隠せない彼女は、どうにか覆いかぶせごまかそうと食ってかかる。「そうやって、会う人、会う人にばらまいて聞いてまわるのは――」
「チカサンが初めてだヨ」
「えっ……」
今度こそクリーンヒットだったらしい。才女の目は大きく見ひらかれる。
気どりはしても気負いはしない伊達男は、さらさらと言いひらく。
「もしもに備えて、助言を乞えそうな相手はずっと探していたンだケドネ、クミコの感性と知力にマッチするヒトってめったにいるモンじゃアなくてサ。ソコにチカサンの登場。クミコが友達として認めたという時点でビビビッとくるモノがあったケド、話してて確信したネ。アア、このヒトだ、って」
手放しで持ちあげられて、どうも、と顎を引く。たしかに、とっかかりとしてつける見当を持っていなくはないが、それが解読に結びつくかどうかは別問題。ずいぶんと買いかぶられたものだ、としばたたく。その横で、小半久美子は完膚なきまで打ちのめされていた。「まあ、そういうことなら……」
でも立花さん以外にはもう人に見せないでほしい、とけなげな要望。彼女の知っている小半久美子がみせる《《しな》》ではなかった。双子の姉妹がいるとの情報はつかんでいないが。女史の公認にもなった女子は半笑う。この時代の経済のごとき実態のともなわない高評価が、無駄に膨れあがっているのではないか、と。
ワカった、チカサンほどにビビッとくるヒトもそういないだろうしネ、との返事で久美子は収まりをみせた。切り替えは案外早い。照れ隠しに長けているだけかもしれないが。
改めてアパートを辞去する。
「じゃっ、ボクも近いウチにまた顔出すヨ」
左手をポケットに突っ込み、三重隆は、そろえた人差し指と中指で右手を上げる。小半久美子は、女らしい笑顔をみせるでもなく、ええ、とただうなずく。基本は淡白な人だ。
階段を降りると、隆が顔を上げ手を振る。見上げた先、手すり越しに久美子がたたずんでいた。見送るのだ、と意外に感じる。早々に部屋へひきあげるものだと思った。
ひとつ、こく、とうなずいて、彼女はドアの向こうに消えた。
第1の解読前に早くも第2の暗号が登場です。
この時点でこれを解ける人は万にひとりもいないと思いますが、1億人にひとりぐらいなら常軌を逸した規格外がいるかも。普通は不可能。
【12/25の最終話公開まで毎日2話 投稿中】
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