十六 名状しがたい者
まじめなまなざしに、隆は軽口をたたくのをやめ、テレビへ向く。衛星放送の番組案内から、雲の中に切り替わる。
サビから入るオープニングテーマ。ほとんどボーカルのみの歌いだしにシンクロして鳥が飛び込む。
雲から作り出されたかの白。海面、青一色を背景に羽ばたき、風にあおられ滑空する。
画面から出てゆくと、入れ替わりに小型飛行機がカットイン。遠景の水平線へと飛んでいくなか、タイトルロゴが中央に映し出される。
小半久美子をうかがう。
あたかも初めて視聴するかのような、あるいは幼児さながらに、見入る横顔。わきのふたりはもはや視界にないとのまなじり。一種、狂信的ともいえる姿勢でのめり込む姿は、ああ、本物だと改めて実感させられる。――葵なんか連れてきていようものなら、どんな事態になっていたことやら。
三重隆を見やる。
立てた右膝に腕を乗せ、ゆったり眺めている。
頭ラノベ娘ほど壊滅的でないにせよ、場違い感はなはだしいバブル脳だ。無駄に大きな声からしても、オタク層との対極、天敵にも等しい存在。空気を読まない自由放埒が次から次に飛び出し、小半久美子の逆さの鱗をべたべたさわるのは容易に想像がつく。そこまでの傍若無人ぶりをみせずとも、横でなにげなく口を挟むだけで、この稀代の数学者は、重要な証明を妨害されたがごとく激昂しかねない。バブル時代のカースト上位にとって、アニメなど千円札ほどの価値もないのだ。オタク世界とはミリもマイクロもわかりえない、天空と深海の隔たりが、この〇・五メートルのあいだに、厳然と横たわる。
文化摩擦のもたらす衝突をどのように防ぎ、両者の仲をとりもてるのか。ギーク界隈では比較的、ジョック寄り、昭和寄りの環境に籍を置いている身として、架け橋となれるポテンシャルはあるはずだ。根性論、精神論。そのような、ロジカルを一顧にしない叙情に対して、センチメンタルをいっさい排した論理の極地たる叙事。この、無重量状態にでも持ち込まないかぎりけして交わることのない双方の境界に立ち、なしうる働きがきっとある。いいや、あるないの問題ではない。できるできないではなく、水と油を融合させる界面活性剤とならなければ、このバブル世界、一九九〇年に――
そのようなことを密かにめぐらせつつ、金あまりの時代を謳歌する青年と、数学とアニメに身を捧げる才媛と、ブラウン管上で深淵を遊弋する艦艇とを見守るうち、エンディングテーマが流れ始める。――ええ?
『不可思議の海のナゴヤ』鑑賞会は平和裡に閉幕。ご来場、ありがとうございました。ビデオデッキが、録画の終了でもってこれを告げる。
消すかい、と尋ね、ええ、との返答。テレビも終幕。消灯。結局、なにも起こらなかった。
「フゥン、こういう番組だったンだネ」
「退屈だった?」
「イヤ。クミコがどういうモノにキョーミあるのか、キョーミ深かったヨ」
真顔の小半久美子に、三重隆はにこり答える。興味深いのはこっちのほうだ。
ボクのと同じ名前の潜水艦だなんてイカしてるネ、あれは万能潜水艦、十九世紀どころか二十世紀の科学をも凌駕する超兵器、ヘエ、百年前のストーリーにかい?――そんなやりとりをはたで目のあたりにする。
近所迷惑をかえりみず大声を平気でたてる、リアルタイムのバブル世代。五分と、いや、五十秒すらおとなしくしていられない人種が、ひとことも発することなく三十分アニメを視聴するとは。苦痛から解放されたとばかりにスルーするか、悪ければあしざまに雑言を吐きさえするであろう風貌が、普通に語らっている。あれか? 愛は国境を越える的なやつか?
名状しがたい現象を、陳腐なひと文字でかたづけるのは抵抗があった。愛など、理の極みを探求する彼女に最も似つかわしくない事象。交際相手――どころか婚約者だ――なぞ、最大限に蓋然性を欠いた存在。その相手が、この夏を大音声に鳴くキリギリスのごとき男性だという。まったくもって、名状しがたい。
しかしながら、目の前で起きているナゴヤトークは現実であり、仮にこれを目撃しなかったとしても、ゆるがしようのない決定的証拠は存在する。まちがえようもない事実が。
そうか、小半久美子は三重隆とこのように――
旺盛に質問と感想を投げかけ、事務作業のように受け答える、男女。たいへん関心のある場面ではあったが、やはり、いづらくもあった。場違いの来客とのポジションは、今や男のがわから自身に移ろっている。じゃま者は退散したほうがよさそうだ。いとまをきりだそうとしたときだった。
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