三 父親《おれ》は悪にでもなる
ふたりの瞳孔が、ひらく。
智子はもちろん、不藁でさえもが、はじかれるように振り向いた。
あるのは、小学五年生のそれというにはあまりに不釣りあいにして、不必要に憔悴した、顔。あらゆる選択のすべてが誤りであるのだと叫んでいるかのような。
「ごめん、蒼空。お母さんたち、きっとなにかまちがえてた」
包丁を放り出しわけもわからぬままひとまず謝る母親と、洗濯ものの処理を即座に中止した父親、歩み寄る彼らに、息子はかぶりを振る。「悪いのはオレだ」
おもてを上げず、上げられずにいる彼は、両親のあいだでとつとつと吐露する。
「わかってる。オレがいけないんだ、って」「颯をめちゃくちゃに叩いた」「わかってたのに。お父さんやお母さんや先生たちが、オレが学校へ行けるように、すごい一生懸命、がんばってくれてたのに」「オレには教えてくれなくてもわかってた。だって、誰も《《あのこと》》を言わないから」「友達も、クラスの奴も、ほかのクラスやほかの学年の奴も、誰も、全然、聞いてこない。本当は聞きたくて聞きたくてしょうがないはずなのに」「みんなが――お父さんが、お母さんが、先生が、学校じゅうのみんなが、オレの、オレひとりのためにやってくれたことを、オレは、オレが、全部、台なしにした」
泣いていた。
息子は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでも懸命に、伝えなければいけないことを、どうにかして、喉奥から、引っぱり出す。見ていられず母親は顔を覆い、父親は鉄の仮面をつらぬいた。
息子は、話すつもりのなかった、秘密にしておくつもりだった、友達による問いを、不本意ながら、涙ながらに、吐き出す。
「聞かれたんだ、颯に」「《《何人》》、《《撃ち殺したんだ》》、って」
息を飲む妻。悲痛の嗚咽が、絞り出される。彼女の横の夫も、じゅうぶんに注意して観察していなければ見逃すほどの微細な動揺がごくわずか目に宿り、それは瞬時に消し去られた。
しゃくりあげる息子は、まるで自身の贖罪を求めるかの後ろめたさをもって、無二の親友から受けた〝絶賛〟をうちあける。
「すげえじゃん、って。ゲームみたいにマシンガンでダダダダダって敵を全滅させたんだろ、って。かっこいいじゃん、って。YouTubeで再生数、五億回超えてた、って。親友なのがマジすげえ、って」
たぶん、そのように話したのだと思う。実際は、つっかえつっかえ、喉を震わせたあやふやな言葉で、それでもどうにか聞きとれたのは、彼の親を十年にわたってやってきたことにつきるのだろうと。
立ちすくみ右の拳で何度も何度も目もとを拭う息子と、そのわきに崩れ落ちわんわん泣きじゃくる妻のかたわらで、不藁は、鉄仮面をかぶり続けた。恥ずかしくて、とても外すことなどできなかった。
よかれと思っていた。
暴力で本当に解決することなどなにひとつありはしないし、力での解決を試みることはけして最良ではなく、とりつくろったところで次善策か必要悪、その実態は愚策であり悪そのものにほかならないこと。また、今回の登校は、現状では大きな困難をともない、好ましい判断ではなく、それを押して環境を整えるにあたって、おおぜいによる多大な協力があったこと。彼の感情にまかせた行動は、関わる人々の尽力と好意を踏みにじる行為であったこと――
そのようなことは言われなくても息子はわかっていると。利発な彼はすべて承知しており、友達と衝突し一方的に殴りつけてしまったことに悩み苦しんでいるのだと。夫妻は、説教めいたことは避けよう、と決めた。今はどんな話をしても、無用の小言になるか、変にそらぞらしくなるだけ。そっとしておこうと。
結果、まったくの言葉たらずが、ただでさえ傷ついている息子の心をさらにえぐりあげる行為となってしまった。
不藁は職務上、よく心得ているはずだった。人の心情など、容易にはうかがい知ることはできない、きわめて深淵の奥底にあるものだと。軽々と憶測で決めつけられるたぐいでないのはもちろんのこと、たとえ膝を突きあわせてこんこんと語らいあおうとも、真に心のうちを覗き込むことはかなわぬものと理解すべしと。
これが、我が子であれば可能であるとの大それた錯覚。思いあがるのもいいかげんにしろ。
今の不藁には、己がもうひとり必要だった。煮えくりかえる腹わたで拳を叩き込む相手としての自分。カウンターで自身を殴り返し、こっぴどく罰してくれる自分。そんなものが用意できない現実が、ひどく歯がゆかった。
蒼空と颯は、それぞれ異なる意味で純粋・無邪気であったのだろう。ゆえにぶつかりあった。
悪意、または自称された善意や正義。子供たちの世界には無用のこれらが用意した、棘まみれの闘技場と鋭利な鈍器で、ふたりの男の子は、心が血だらけになるまで傷つけあった。
傷心の息子を抱擁すべきふたりは、彼に語らせてしまった。自己の胸のうちにしまい込んでおきたかった、剥き出しのイノセントを。
泣きぬれる妻子の前で、大正島帰りの3佐は、その階級や実力はまったくの無意味で、無価値で、無力だった。
*
ふたりが早くに寝静まった夜。
窓の外では少し雨が降っていた。
家電のLEDが人工の星々となって照らす、ほの暗いダイニング。不藁はひとり、食卓を前に座していた。
今夜はばかに冷える。
北国出身であり、仕事でも厳寒の野外行動を何度となく経験した身には、この室温はなまやさしい肌寒さ。だのに、さめざめと泣く空は、芯まで寒からしめる。
ずっと腕を組んでいた。
微動だにせず、無表示のまま。
しかしよく見ると、その双眸はいつになく鬼気迫ることに気がつくだろう。爛々、暗い炎を灯し、ゆらめかせる。
息子だけでなく、今度のことは妻の勤めにも影響がおよんでいる。
めずらしい姓だ。たちどころに話は広まり、レジ打ちからバックヤードに移るも職場では衆人環視。客でない者が店に押しかけてくることもあって、迷惑をかけられず自主的に自宅待機を申し出た。今は不藁と似たような立場にある。
迷い込んでしまった小路は袋。捕らわれた俘虜は袋の中。にらむ強大な猫は形をなさず、噛むことも叶わじ。
仮に、本当に必要であるとするならば、20式5.56mmの使用さえも躊躇しないだろう。実力のかぎりを行使す。代償として、人しれず葬られるというなら、この身なぞ喜んで差し出そう。そんな非現実が実世界で起こりえたならばどんなによかったか。
非常なき世の理は、非情だ。
そうして、世界の慈悲なき理は、まもなく、覆る。
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