三十三
つまり、この三人とは、事実は小説より奇なりを地でいくかたちで遭遇したと。
小半久美子はまだ釈然としないながらも、渋々、このタチバナなる女の話と、勝手にオーダーされたミルクティーとを飲み込む。
かいつまんで整理すると、どうやらこういうことらしい。
タチバナはプログラマーで、職業がら、数学界隈への関心が高い。プログラミングに応用可能な理論を継続的に探しており、久美子については同業者づてに知った。彼女が最近、発表した論文は非常に画期的な理論で、人工知能への応用の可能性があらしいと聞いている。同じ女ということもあって、彼女に関心を持っていたと。
いくつか引っかかる部分はある。〝双曲幾何的環状モデルにおける多元解およびε-加群の写像と抽象性の一般化〟は公表してまだ日が浅い。にもかかわらず、異分野の業界で応用について注目されている。不自然な話だ。
数学の世界でも、同分野の研究者でもなければこの情報にたどりつくことはあまり考えられない。専門外の数学者の目にとまるとして、よくて数年後。数学の研究者レベルにない人間なら生涯、知る機会などない理論だ。まして理解となると、現時点でこれを真に解する人間がこの世にどれだけあることか。
それに、本理論は現実世界での実用性は皆無。フェルマーの大定理を筆頭とする〝純粋数学〟のひとつだ。人工知能へどのようにもちいるのか皆目検討がつかない。
もっとも、プログラマーの世界が専門外である点では、こちらも似たようなものではある。
コンピューター業界では、素人のあずかり知らぬ独自の情報網があるのかもしれない。BITNETやJUNETのような、世界規模でやりとり可能なネットワークが一般企業にも存在しているのはじゅうぶん考えられる。タチバナが少なからず数学への造詣を有しているように、プログラマーが高度な数学者と協力関係にあることもありえるだろう。その方面について門外漢である以上、でたらめと断じるのは早計にすぎる。
久美子は、硬質な眼光を留保し、褐色の紅茶を吸い上げる。自分の飲みものであって、なかばそうではない居心地の悪さ。しかし、心地を整えなおすには飲まぬわけにいかない。ジレンマにおかれた囚人だ。
タチバナを見やる。久美子の目線を正面から受けとめる。これが本来の自分だと言いたげな、自信を帯びた顔つき。初めはおどおどしていたのに妙な女だ。
妙な女といえば、前・右・斜め右の三方向を囲む三人全員がそうだった。正面に座りなおした娘は、妹から〝ママ〟と呼ばれているし、久美子を押しやるかたちで右隣にまわりこんできた当人は言うまでもなし。「最強。昭和スイーツ、ヤバすぎ」などとデザートをぱくついている。
昭和《《スイート》》ってなんだ。この店のプリン・ア・ラ・モードは不味いのか。言いつつ嬉々としてふたつめをたいらげようとしているが。というか普通、ふたつも食べるか。それも初対面の人前で。
初対面。
そう、このプリン娘が、パソコン通信で知りあった自分と会うとのことで、姉のヨーコが心配しついていくことになり――なにしろ通称名の〝葵〟は本名という不用心さだった――この話を聞いたタチバナも、念のため保護者として同行するにいたる。
以前からタチバナは、〝フラン〟とのやりとりについて葵から聞かされており、電子メールも見せてもらっていた。フランの返信にタチバナは「もしかして小半助教授だったりして」と冗談めかして葵に語り、小半久美子がいかなる人物か話していた。
これが瓢箪から駒。ヨーコとともに手近の席につき様子をうかがっていると、どこかで見た顔がやってくるではないか。大学の広報誌に載っていた小半久美子助教授にそっくり。タチバナは目を疑い、なりゆきを見守る。
しかし、そこはプリンな少女。葵の放蕩な言動は、おおいに場の空気を冷え込ませる。今にも助教授が席をたちかねない気まずさをみかねて、ヨーコが救援に馳せ参じる。これにより、しばらくは持ちなおした。
よい雰囲気が醸成されるなか、タチバナが、果たしてここにいるのは本当に小半久美子助教授なのか、嘘から出たまこともほどがあるのではないか、そのようなことをめぐらせているときに耳に跳び込んでくる、ア・ラ・モード娘のあらぬ発言、「小半助教授」。
保護者はあわてふためき跳び出すはめになる。
つきそいの女は、初めこそミーハーぶりをみせていたが――アイドル歌手じゃあるまいし、いち研究者、それも世間一般には無名の者が、キャーキャー騒がれるがごとき注目を浴びるのは腑に落ちななかった――ナゴヤファンとしての興味を久美子に示す。
「私も、今年度のナゴヤは、NHKでの白眉の先鞭をつけるアニメとみて追っています」「作品のテーマに底流するのは、科学は強力であるが、けして万能、魔法の鍵ではない」「今後、より深刻な困難が待ちかまえていることに疑いの余地はない」
タチバナは、葵にみた幻、そしてヨーコに顕現した同志の交流を、より深く、高次の俯瞰で語らわせてくれる。
「――つまり、ナゴヤは古典的な〝おとなしくて健気なヒロイン〟を踏襲していない」
「雑誌の投稿欄に寄せられる、彼女への批判的評価も、そこに立脚していると?」
「ええ。読者層の多くを占める男性視点からすると、遠慮なく意見を示すキャラクター像は〝頑固〟〝わがまま〟とネガティブな印象を与え、拒絶反応を起こす」
「なるほど。パソ通でのラジカルな非難におぼえた違和感、その正体。〝庇護されるべき対象としての少女・女〟との男優位の思想にあったとの説か。興味深い」
五つの臓と六つの腑に落ち、よくなじむ私論を、タチバナは述べる。なんという満ちたりた時間か。
そうだ、この至福の意見交換。これこそが望んでいた経験だったのだ。
久美子は、ミルクティーの華やかな風味が、高き次元で昇華されるのを今、たしかに感じとっていた。
「ヤバい。プリン最強モード、五つぐらい余裕で完食するチートスキル、ゲットしそう」
わきの低次の娘は、高低うんぬん以前のなにごとかを吐いて、店員に挙手した。
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