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二十九     なごやかはデザートのあとで

 陽子は、おおいに張りつめていた。


 にわかに挑み、挑むこととなった困難の任務。それは、我が子――いまだ信じがたいが、どうも事実らしい――葵にとっての無理難題に勝るとも劣らない、やっかいなトラブル処理。三十年後の全世界を左右する、最重要人物とのいきなりの対峙。期末考査の勉強範囲、二次方程式や因数分解など、居眠りしながらでも解いてしまうであろう、桁違いの才人。文字どおり大人と子供の差がある女史が、今まさに退席しかけている危機的状況。なにも考えていないパープリン顔をこちらへ向ける娘が引っかきまわした壊滅状態を、自分がどうにかしなくてはならない。


「えっ、ママ? どしたの?」


 どしたの、じゃない。

 パーでプリンな子が発した言葉に、


「――ママ?」


 フランが投げかけた視線は、困惑と疑念を帯びる。ああもう、これ以上よけいなことをしないでちょうだい。

 家庭科の針と糸が手もとにあれば口を縫いつけてしまいたかった。とても同い年とは思えないバカ娘をひとにらみし、フランへ向きなおる。


「アー、エーっと……アタシはソノ……、こっ、このコの姉です!」アドリブ上等。出るにまかせて、陽子は糊塗にうってでる。「ひとりで行かせるのが不安だったので、つきそいで来てましたっ」


 こわばる姉もとい母の横で、なんの空気も読むことのできない娘は、小首をかしげる。「なにそれ? なんかのギャグ?」

「アンタは黙ってて!」


 くわっ、ともうひとにらみし、対処にあぐねているフランへ即興の物語を組みあげる。


「アタシたちは小さいときに母をなくしてて、おばあちゃん――祖母の家で育ちました。アタシがお母さん代わりになってあげたので、このコはアタシをこんなふうに呼ぶンです」


 しゃべりながら陽子は、即席の作り話にしては、案外、悪くないなと自画自賛。

 が、横の〝妹〟から横槍がよこされる。


「どゆこと? おばあちゃんはママのおばあちゃんじゃなくない? てか、お母さん代わりとかの急な謎設定って。ママは普通にマ」

「だから黙ってて!」


 鬼の形相で命じる。このおしゃべりな口は本当に縫いあわせないといけないみたいだ。


「ア、アハハ……、見てのとおり、どうしようもない甘えん坊なンです」ホラそっちにどいて、と隣の席へ押しやりフランの正面に陣どる。「このコったら《《中一》》にもなって、コワイ夢を見たって言ってベッドに潜り込んでくるわオネショはするわ――」

「してないしっ! 十歳のときのが最後だし! てか、あたし、中一じゃなくて中三だしっ」


 フランさんにも中三だよって言ったよね、と葵は証言を求める。女性は、え、ええ、と〝姉妹〟を交互に見やった。陽子の右耳に『葵、十歳までおねしょしてて草』との声が聞こえ、


「ちょっ、たくみん! 今の嘘だから! ほんとはキニちゃんのエピだから!」


 真っ赤な顔でテーブルの上、宙空を凝視し、娘は騒ぎたてる。いらぬ捏造はひかえたほうがよさそうだ、と陽子は自戒した。


 耳もとの『不藁、こいつを強めに沈黙させろ』『こうか?』『あがががががっ!』とのやりとりはさておいて、少女は背をただす。どれほど難しい出題よりもはるかに手ごわい数学者(なんもん)()かなくてはならないのだ。よけいごとに気をとられている余裕はない。まずはどう攻めるか。考えなさい、艾草陽子。


「エー、アー……ほ、本日はよいお日がらで」


 結婚式か。言ったそばから陽子は自問する。フランは、ええ、と窓の向こう、曇りがちな空をちらと見た。未来の兄が『大丈夫だ、それは六曜の意味だから天気は関係ない』となにやらはげましてくれるが、さほどありがたくもなかった。


「アノ、ソノ……、ご趣味は?」


 だから、おみあいか。再度の自問。


「……フェルマーの大定理の証明」


 内心で頭を抱える陽子へ、フランは律儀に、ぼそと答える。フェルなんとかの証明? なんだかよくわからないが、数学者という人種ならば誰もがたしなんでいるものなのだろう。たぶん。

 『あー、はいはい、最終定理のやつな』とお調子者が無線の向こうで言うと、右隣の娘があさっての方向を見ながら「なにそれ強そう。チートスキルで無双する的なやつ?」とまた食いつき、兄は『やれ、不藁』と指示。


「いだだだだだ! ギブっ、不藁さんギブ!!」


 右耳はイヤホンから、左耳にはダイレクトに悲鳴が聞こえた。隣と真向かいの両名が店の奥手を見やったが、陽子は無関心のふり。カウンターのウエイトレスをうかがうと、彼女らも「ちょっ、マジ関節ヤバいって。死ぬっ、普通に死ぬ!」と騒がしい一角へ眉をひそめている。席を移るなどずいぶん勝手放題をしている自身も、まとめて店から叩き出されなければいいが。

 目線が戻ったフランに話の水をむける。


「フ、フランさんも『ナゴヤ』の大ファンなんですヨネ?」

「ええ、まあ」


 そっけない返事でストローを吸うが、陽子は手ごたえを感じる。中学生の自分ならいざ知らず、十歳も年上の女性が、人前でアニメファンを認めた。心の扉をひらくチャンスはじゅうぶんある。


「アタシもです! お兄チャン――兄といっしょに第一話を見たとき、ビックリしました。こんなマニアむけのアニメをNHKが放送するンだ!って」


 感情を込め、熱っぽく語る。それは演技ではなく本心によるものだった。

 退屈でお固いイメージのNHK。ニュースと大河ドラマぐらいしか思いうかばず、自分からチャンネルをあわせることはほとんどなかった。放映されるアニメは、中学三年生にもなった陽子には子供むけすぎる。『ナゴヤ』も本来なら気づくことなく視聴していなかっただろう。が、兄と共同で購入しているアニメ誌で異例の特集が組まれる。


 ――『急告!!新年度の金曜ヨルは《《NHK》》を見ろ!』


 大見出しの「《《NHK》》」との強調に、初めはフジかテレ朝とまちがえたのではと疑った。が、記事のなかでも『NHKに決死の潜入取材』『ホメ殺し大作戦により、NHK職員からまんまと㊙資料を強奪』『息も絶え絶えにNHKから生還した取材班・A君(仮名)の最期のコトバは「コイツはドえらいアニメーション……(ガクッ)」』とやたら連呼。誤植ではなさそうだ。誌面に掲載されるカットは、NHKのイメージに反して今どきのビジュアル。新興の制作会社、気鋭の若手が手がける期待作と紹介されていた。

 疑い半分で、ジュースとスナック菓子を用意し、兄とともに完全武装の態勢で占拠したお茶の間。その四十五型テレビの大画面を狭しと繰りひろげられる活劇に、ふたりは圧倒されることになる。ろくに電気もとおってなさそうな時代、百年前が舞台でありながら、オーバーテクノロジーが跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)。なんと鮮烈な幕あけを飾るのだろう。テレビにお守りをしてもらう幼児のように食い入り、三十分がたったあとにはすっかり心を奪われていた。これは本当にドえらいアニメだと。


 言葉の鍵が錠内でまわる。数学者の目が、ごくわずかに見ひらいてゆくさまを、少女は見逃さなかった。――いける。

 確信する彼女は、思いのたけを彼女にぶつけ攻勢をかける。わきのプリン娘による「でも、ナゴヤの絵って死ぬほど古くない?」「塗りが濃すぎだし」「低画質だし」「画面がオンになるときに、毎回、なんか音がするし」「キニエンタスのほうが絶対、かわい――」との雑言・雑音には、

 「痛った! なんでDVすんのママ!」

 尻をつねりあげ、黙るよう無言の制裁をくわえた。


 うん、うん、と前のめりでうなずく女史。先ほどまで陽子のおもざしがたたえていた、おぼつかなくおもねる面持ちは、もはや猛風前(ふうぜん)(もや)かモヤシっ子のごとし。

 小半助教授、恐るるにたらず。

 万策つきたかの盤面、これをあざやかにひっくり返した少女は笑顔満開、喜色満面だった。そう、(あおい)にできた魅惑(こと)母親(じぶん)にできないはずがないのだ。

 陽子の心は、エッフェル塔を見上げ門をくぐり、揚々と凱旋を始めていた。

おもしろかったら応援をぜひ。

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