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二十八

 薄々、わかっていた。

 フランは、半眼でグラスに目を落とす。ストローに口をつける。わずかに吸いあげたミルクティーをふくんで、紙製のコースターに置いた。口内と鼻腔に広がる、品のよく優しい風味。いい茶葉で丁寧に入れているのだろうなと思った。実際は、こういうしゃれた店とは無縁で、喫茶店に入る機会もあまりなかった。よしあしなどわからない。少なくとも、普段、家で飲んでいるインスタントのそれとはまったく別ものだ。

 ヨーロッパのどこか、街角の店をイメージしてしつらえたのだろうか。レンガと木の壁、その茶系の基調との対比がきわだつ白い天井。内装に溶け込む、舶来品とおぼしき調度品。有線のピアノと踊るかのように談笑に花を咲かせる女性客たちは、今ふうの華やかなファッションを身にまとう。濃厚なメイクやかちりとセットした髪は自信に満ちていた。つまるところ、ここは場違いなのだ。

 目の前にちょこんと腰かける少女。どうやら彼女も、結局は《《そちらがわ》》の世界の一員ということらしい。


 ネクラ・変人・異常性格・変質者・犯罪者予備軍――世間一般からはそのような烙印を押されるオタク趣味。とりわけアニメオタクは、人権などないに等しい日陰者。中世の欧州ならば異端審問にかけられるのもやむなしの、忌み嫌われる存在。アニメ趣味は、人知れず限られた同好の士とのあいだでひっそりとたしなむものだ。

 狭い界隈ゆえファン活動、同人誌にせよパソコン通信へアップロードされる画像にせよ、そこはアマチュア。大半は手習いどまりで、とうていプロにおよぶものではない。――はずだった。〝葵〟のイラストを目のあたりにするまでは。


 洗練されたタッチに、素人らしからぬ画力。見慣れない絵柄は新鮮で魅力にあふれていた。それが〝ナゴヤ〟のイラストというのだから打ちのめされないはずがない。

 あるはずのない不可解な数式が画像上に記述してあったり、興味を持っているのかと出題した数論の問題にはほとんど反応がなかったり、よこしてくるメールもちぐはぐで釣りあいのとれない文面だったり。どうにも腑に落ちない点は多々あった。

 それでも、これが彼女一流の人となりなのだと。子犬や子猫がせわしなくたわむれるさまに深い意味は見いだすものではないと。ナゴヤへの関心が皆無との言いぐささえ、子供特有の、意味もたわいもない悪ふざけ。そのように受けとめることにし、同胞との交流を開始してみた。


 果たして都合のいい解釈は、砂上の楼閣よろしく早々に傾き倒れようとしていた。

 〝葵〟とのメール交換では、あえてナゴヤについて多くをふれないよう努めた。ともすると文字だけのやりとりは齟齬が生じるという。文面からして相手はまだ分別のよくつかない年ごろのようだった。軽率な発言を誘い、同志としてのわかちあいに水が差されてしまうのは避けたい。他人(ひと)には無関心の自分が、めずらしく、対話をしてみたい気持ちがめばえた相手だ。せっかくいだいた心象を、いきちがいで損なってしまうことのないよう慎重につきあおうと。そう心得たはずだった。


 困ったことに、この〝葵〟という娘は、妙に人の心に入り込む。

 初めこそ、そのしっちゃかめっちゃかなメールは、愚にもつかない悪文とばっさり断じた。この世には、読む価値のある文章と、読むべきでない文章の二種類があり、〝葵〟はまごうことなき後者であると。なかでもとりわけ脳に悪い部類。いうなれば文字のダイオキシン。知性に対する猛毒、あるいは挑戦。

 知の清濁の上澄みと称するのもいとわないフランが、下層、未分離の濁りへあえて交わったのは、ひとえにナゴヤのためだった。知恵を代償に絵の才能に恵まれた〝葵〟の描くナゴヤをもっと見たい。あわよくば望みの絵を描いてもらいたい。打算で始めた電子の文通。しかし、相手は存外、天性ともいえる〝人たらし〟であることに、フランは気づかされる。


 よこしてくる内容は、どうでもいい低次の雑多か、意味不明の宇宙語。〝葵〟は、およそ彼女の知的水準に釣りあう世界に住まう住人ではなかった。はずなのに。

 異なる次元からやってきたがごとき異次元な異言。かまうにあたわない放言は、だが、変に味わいがあるというかくせになるというか。やりとりをするたびに少しずつ、そして確実にフランの脳組織をむしばんでゆき、そのことに彼女が気づいたときには、すっかり魅了を完了。ああ、この子は自分が持っていないものをきっと全部持ちあわせているのだろうなと観念させられた。


 会わねばならない。なかば強迫じみた思いにとりつかれて、この席へつくにいたる。結果、振るべきではない(さい)――いやしくも数学に信仰をささげる者としては――を投じた報いを、フランは受けるはめになる。すなわち、〝葵〟はナゴヤを語らうにはたいそう不適当であるという、容赦のない事実。たちの悪い冗談ではなく、少女は本当にナゴヤへの関心を持ちあわせていなかった。断腸の思いで確認してみれば、ありもしないエピソードをでっちあげ――〝葵〟(かのじょ)がしばしば話題にのぼらせる〝キニエンタス〟とやらが登場する作品なのかもしれない。もっとも、練磨のオタクを名乗ることもやぶさかでない自分が知るかぎり、そのような漫画もアニメも聞いたことがないが――かように、容易に露見するでたらめを、この子は平気で吹く。


 〝葵〟に対する好感が急速に冷めていくことがいたたまれなかった。勝手に作りあげた理想像(げんそう)は、灼けた路面のかげろうさながらに、いともたやすく、ゆらぎ滅する。

 いらぬまねをすべきでなかった。虚像をそれと気づかず、あるいは知らんぷりを決め込み、ただ心地よくひたっていればよかったのだ。電話回線の向こうにおとぎ話を幻視するだけにとどめておけば。

 だから対人は困難と苦をともなう。学究のようにはいかない。不用意に真実へ近づけば、羽根は溶け、墜落の罰が与えられる。

 この子が愚蒙(ぐもう)なら自分もまた愚昧(ぐまい)だ。

 ――帰ろう。


 ひとしきりうなだれたフランは、わきのバッグへ手を伸ばした。顔を伏せたまま席をたとうとする彼女に、だが、呼びかける者があった。


「アノっ……、スミマセンっ」


 おもてをあげたその目に、ひとり、緊張気味に見すえる少女が、映り込んだ。

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