二十五
スローテンポの軽やかなピアノ曲が、ゆったりとした時間と空間を作り出す。
喫茶店〝セオリィー〟には、おおむね、平穏な昼さがりが戻っていた。
先ほどまでは、疑念を帯びるざわついた静けさとでもいえばいいのだろうか、なんとも形容しがたい空気が漂っていた。
やにわに大声をあげたり、なにやら出たり入ったりをする異質な五、六人連れに、困惑と好奇の目が向けられた。
おかしなことに彼らは、小柄な女の子ひとりを入口付近のテーブルに着座させ、ほかは店の奥に無理やり――隣席のあいている椅子を寄せてまで、ひとつの席についた。
さらにおかしげなことは続き、
「アイストールラテアドキャラメルソース」
「ハイ?」
「え、アイストールのラテで、キャラメルソース」
「エッ?」
「だから、アイストール――あー、冷たいラテ? Mサイズの。キャラメルソース追加で」
「ハイ??」
ひとり別席の少女が注文に苦慮し――田舎から出てきて不慣れなのかもしれない。服装や髪型も今どきの感じではない――いっぽう、離れた席の同行者は、
「スタバじゃあないんだ、葵」
「ヘンなモノ注文せずにレモンスカッシュにでもしときなさい」
と、ぶつぶつ言いあい、
「え? リストカット? なんで? どういうこと?」
「はい?」
少女は少女で、ウエイトレスを無視したようなひとりごとで誰かになにごとかを問い、結局、
「――えーと……アイス?」
ごく普通のオーダーにおちついたようだ。
もとより歓迎ムードではなかったウエイトレスは、ややぶっきらぼうに「アイスですね」と注文を受け、カウンターへ戻っていった。
その後も、運ばれた注文に、
「アイスじゃないじゃんっ、コーヒーが来たよ? 苦っが。普通に苦いしっ」
と、《《店員にではなく》》、見えない誰かしらになにかしらの文句を言っているようだった。かわいそうな子なのかもしれない。右も左もわからない田舎の娘をひとりで座らせて、なんとむごい仕打ちをするのだろう。客たちのあいだでは、この得体のしれないグループに対するささやきあいがしばらく続いた。
*
「しかし、未来ってのはスゴいモンだな」アメリカンをすすって博が感心する。「あんな、コードもついてないイヤホンがトランシーバーだなんて」
「この四角いヤツもトランシーバーだったのネ」《《レスカ》》に差したストローを吸う陽子も、興味深そうに、テーブル上の端末をしげしげと見る。「こんな薄っぺらくてツルツルしてて、マイクもスピーカーもついてないのに、どういう仕組みなの?」
「陽子さんたち、ワイヤレス使ってねーの?」グラスに口をつけてコーラをあおる拓海は、わいやれす?と聞き返される。「いや、だからBluetoothの。――え、BluetoothはWi-Fiみてーなやつ? ――いや、《《ワイファイレス》》じゃなくてWi-Fi――」
「全然違う」喉が渇いていたのか、早くもほとんど氷だけになったミルクティーをストローでかき混ぜて千尋が指摘する。「Bluetoothは、IEEE 802.15.1規格で2.4GHz帯。通信距離はせいぜい五から二十五メートル。いっぽうのWi-FiはIEEE 802.11。2.4GHz帯・5GHz帯・60GHz帯の帯域で、五十メートル以上の――」
「釈迦の前でうかつなことは言えんな」女性客中心のしゃれた店内で、なるべく目だたないよう、店の最奥、壁の角に無理して収まる不藁が、ふふ、と〝ホット〟を味わう。
狭苦しそうに不藁と肩を並べる博は、スマートフォンへちょんっと指先をのばそうとする陽子に遠慮願う。「すまんがさわらないでくれ。精密機器なんだ」
不藁と同じ、〝ホット〟のひとことだけで出てきたコーヒーを喫しながら、卓上に横たえたデバイスを見下ろす。艾草兄妹対策で、操作しないかぎり画面は点灯しないよう設定してある。葵が不用意にメッセージを送ってこないよう、画面はいっさいつけない、やりとりは音声のみ、指示はこちらからの一方通行、と念押ししていた。が、さっきのように平気でこっちに話しかけてきそうで危うげだ。というか絶対やりかねない。やる。
「葵、もうここからは俺たちになにも話しかけるな。特に小半助教授が来たあとは絶対にだ」
『わかってるわかってるって。だいじょーぶ』
まったく大丈夫じゃない。全然わかっていない。
端末から聞こえる能天気な声に、博はこめかみを押さえる。
「しっかりしてくれ。コロナはおまえに全部かかっているんだ。新型コロナ・暗号・エクリプセ・タイムマシン・スマホ。どれも絶対、口にするな」
『おっけ〜、よくわかんないけど』
わかれよ。というかしゃべるな。
「最大の禁句は〝小半助教授〟だ。いや、〝助教授〟と言っただけでも即終了だと思え」
『え、そうなの?』
「おいっ」
肝が、冷える。
博のみならず全員の表情が固まった(一名ほど例外を除いて)。
いったい、斜め上にもほどがある、斜め下、爆弾娘の爆弾発言。助教授の素性についてなんら知らない体で接していることは、再三、しつこく、くどく注意してきた。にもかかわらず、五分も五厘も理解していないとは。
「こりゃマズいんじゃアないか?」「マズいヨネ」「まずいな」「ありえないレベル」「そんなやべー感じなの?」
〝やべー感じ〟なのがこっちの席にもいるが、あっちの超絶天然娘に関しては致命的だ。まさかここまで危機的だったとは。
いたしかたない。助教授には悪印象を与えてしまうが、ここはドタキャンするしかない。リカバリー不能の即死ダメージとでは比較にならない。
「計画中止だ。店を出――」
がたんっ。
五つほどのアイスキューブがテーブルに散らばった。
「ごめん」グラスを倒した千尋がおしぼりをつかむ。幸い、ビニールのマットに跳ねたのは少量だった。
「放っておけ。行くぞ」
「モグさん――」立ちあがる博に、彼女は氷のサイコロよりも冷たい汗をにじませ、薄褐色のしぶきを拭く。「ひとあし遅かったみたい」
「そのようだ」隅に座したまま不藁が冷静に言った。
彼の視線の先を追うかのように、レジカウンターを見やる。
「いらっしゃいませェー」
女の客がひとり、店に現れた。
ChatGPT情報によると〝アド〟はあんまり使われないんだとか(スタバ行ったことない人)
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