十六
ことの始まりは自作のフリーソフトだった。
何年か前だ。現在の好況の前夜、財テクブームが起きたときに、マスコミが株式投資をとりあげた。当時、大学生だった千田に株を買う金や伝などはなかったが、流行に乗って株価予想のフリーソフトを作成してみた。株式相場に明るいわけでもない学生が作ったジョークソフトのようなもので、当たるも八卦。アップロードした先、パソコン通信のフォーラムでの反応は悲喜こもごもで『コワイぐらいズバリ的中 (^^;;;;;』『コレはオドロキ桃の木でアリマス』という賛辞から『インチキ!カネ返せ!(怒)』『シスオペは詐欺ソフトを削除せよ!!』との罵倒までさまざまだった。
そのなかで、オフラインで千田へ連絡をとってきた者があった。
のちに彼が忘れることのできなくなる名前、萬谷勝利なる人物だ。
都内で商売をしているという四十男は、頭髪はいささか寂しいが愛想はよく、千田を呼び出した行きつけの喫茶店で、好きなものを注文していい、と恰幅のよさに似つかわしい太っ腹ぶりをみせた。ただ、満面の笑顔でも隠しきれないぐらいには悪い人相。それが、千田の受けた第一印象だった。
風のウワサでキミの株価予想ソフトを耳にした、ぜひ会ってみたかった、とほころばせる口もとにタバコをくわえる萬谷を、千田はおおいに警戒した。多くのパソ通ユーザーがそうであるように、千田も、基本的にオンラインで素性は明かしていない。大手のゴフティー、市内の草の根BBSをとわず、ハンドルネームしか名乗っていないし、人づきあいの不得手な千田はオフラインミーティングのたぐいに参加したこともない。
ほぼパソコン通信のためだけに引いている電話が、ある日曜の昼過ぎに鳴ったときも、セールス関係だろうと初めは無視した。が、あまりにしつこく鳴り続けるのでしかたなく出たところ、妙なことを言う男からこんな申し出があった。「特注の株価予想ソフトを作ってほしい」「頼まれてくれたらじゅうぶんな謝礼をしよう」
千田は馬鹿ではないつもりだった。怪しさきわまりない人物・持ちかけに、本来なら応じはしなかっただろう。しかし話は、何百万、何千万の金が平気でやりとりされる界隈からの引く手。謝礼とやらはいったい、いかほどの額なのか。間の悪いことに、そのころ千田は、大学のマイコン同好会の悪い先輩に風俗遊びをおぼえさせられていた。
吉原で童貞を脱した彼はあっさり深みにはまり、パソコン通信の電話料金にもこと欠くようになる。もともと、裕福でない親もとからの仕送りでは学費のすべてをまかなえず、週末は秋葉原にあるパソコンのパーツショップでアルバイトをしていた。とても色町へかようにはたりない。かけ持ちを始め、平日の夜もバイトを入れだし、やがて講義も休みがちになり、しまいには、単位が危ういどころか仕送りに手をつけようかというところまでいきついていた。
そこへ降って湧いた誘いだ。賢明を自負する頭脳は、へその下方面からの突きあげに折れるかたちで、いちおう、聞くだけ話を聞いてから判断しても遅くはない、と己と妥協。萬谷と会うことにした。
都内の平凡な喫茶店で待ちかまえていた中年は、案の定、いかがわしい男だった。いくつか事業を経営していると話すが、スーツも着ておらずラフなポロシャツ姿。左右の手には合計五つも下品な指輪がはまっており、くわえタバコでしゃべるその奥には金歯が覗いた。先ほどはウエイトレスの尻をなでてにらまれていた。内心でちょっとうらやみつつ、なぜ自分のことや電話番号まで知っているのか尋ねた。
萬谷によると、パソコン通信で配布されているソフトウェアのことを人づてに知り、個人的な情報網を使って作成者を探したところ、千田の大学の同好会メンバーが教えてくれたのだと。例の〝悪い先輩〟だ。
吸うかね、とゴールデンゴッドを差し出されて、喉が弱いンで、とことわった。成金ふうのくせにしみったれた銘がらだ。本当に〝じゅうぶんな謝礼〟とやらはでるのだろうか。
「ボク、株式投資のコトは素人同然ですヨ。パソ通にアップロードしたモノは半分ジョークソフトで……」
「いいンだ、いいンだ。アップルロードでもオレンジロードでもソフトボールでも。ワシはマイコンのコトはよくわからん」
「ハア……」
困惑とあきれの混じった相づちをさえぎるように「ネエチャン、冷コーのおかわりを頼む」と大声でカウンターへ呼びかけた。ウエイトレスふたりが、アンタが行ってヨ、とでも押しつけあっているのか揉めているようだ。
「大阪じゃア、アイスコーヒーのコトを〝冷コー〟って言うンだよ」萬谷はかまわず豆知識をひけらかす。「詳しいだろ? 商売で関東とよく往復してるからな」
ニコチンで黄ばんだ歯をにっと見せる中年男に、ハア、とまた気のない返事をした。マイペースだな、このオッサン。
心の声が聞こえたのか、萬谷は脈絡なく、ある言葉を口にする。
「〝五目均衡表〟というモノがある」
ゴモクキンピラヒョー? 五目ご飯の仲間かなにかだろうか。
当惑する千田をよそに萬谷は新しいタバコに火をつけ、吹かしながら語る。
「半世紀前、〝五目五人〟という名前の相場師が作った、相場の分析手法だ。戦前のカビの生えたモンが役にたつのかって思うだろ? ところがどっこい、コイツがコワイぐらいピッタシカンカン大当たりの連続だ」
オマエさんの作った、アップルマイコンのカセットとは大違いだよ、とぶ厚い唇から煙を吹きかける。むせる千田は、Macintoshはアップルコンピューター製だし、アップしたフリーソフトはMS-DOS用だ、ソフトウェアと〝カセット〟も同義じゃない、と心の中で訂正した。
「それだったらボクは必要ないンじゃア……」
「問題が五つある」萬谷はタバコを指に挟んだ右手を広げ突き出した。「まず、コイツは精度が抜群の代わりに、チャートを引くのがやたらメンドくさい。マイコンでオートメーション化すればいいンだが、五目均衡表の高精度をフル発揮するには、独自に集めたデータをブチ込む必要がある。知りあいのコンピューター会社に依頼したところ、ワシの考える手法だと都度都度、プ《《ラ》》グラムを変更しないといけないらしい。立ち会い中や場が始まる直前などいつでもすぐ請けてくれと頼んだら、それは少々難儀だと言うし、手数料もけっこうな額をふっかけてくる。まったく、マイコンをチョロっとピコピコするだけのクセして、コッチが素人だと思って足もとをみやがる――まァ、ソコでオマエさんのアップルマイコンの出番というわけだ」
ひと息にまくしたてた喉を萬谷はアイスコーヒーでうるおす。千田は、漫才ばりにツッコミを入れたくてしかたなかった。
とりあえず、今どきマイコンだなんて言わないのと、あげた問題点が本当に五つだったのかよくわからなかったこと――べらべらしゃべっているあいだ、コーヒーを運んできたウエイトレスの悲鳴がまたあがったことは置いておくとして――ようは、金欠病の学生をいいように安く使ってやろうという魂胆らしい。他人のことを〝足もとをみやがる〟とよく言えたものだ。
いくつも会社を持つ事業家と豪語するわりに安いゴールデンゴッドを吸っているし、行き来して影響されたのか関西人のように節操がないし、聞こえてきたウエイトレスのひそひそ話によると、尻をさわるのは先ほどで五回目だとか――今日はまだ少ないほうらしい――どうにもうさんくさい。
――帰ろう。なにより煙たくてかなわない。
席をたちかける若者に、萬谷が、わきのセカンドバッグからおもむろに封筒を取り出した。「コレは手つけ金と考えてほしいンだが」
テーブルのアイスコーヒーの前へ一枚一枚、無造作に並べられる――最近は福澤諭吉にとって代わられ目にしなくなった――聖徳太子。
五枚目が置かれると同時に、千田の尻はぺたんと合成皮革の上へ戻った。
「無論、コレとは別に謝礼は都度都度、支払うつもりだ。この手つけ金に相応の額をな」
五万。
五百五十五円の時給なら――千田はさっと計算する――九十時間ぶんだ。
どのような仕様を求めているのか話を聞いてみないとわからないが、片手間に作ったジョークソフトまがいでも流用はできるだろう。シビアな処理速度を要求されても、そうとうな水準でないかぎり、自分のC言語の技量ならじゅうぶん対応可能のはず。必要とあらば専用機を組んで提供だってできる。マイコン、マイコンと連呼する男のことだ。鈍亀のようなPC-8805を使っているのかもしれない。だとしたら文明社会の起動音を聞かせてやるのも一興。ついでに、こちらのほうが足もとをみてやるのもまたよし。
「ボクなんかで役にたてるなら」
千田にしてはめずらしく笑顔を浮かべる。へその下方面が歓楽街へ連れていけと騒ぎたてるのを抑えて、五人囃子ならぬ五人太子へ手を伸ばした。
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