京の朝
第1章
左近が京に着くと、休む間も無く夏樹に振り回された。筆記試験、実戦演習、机上の模擬演習。わけがわからないまま、左近は夏樹の持ってくる試験をすべてこなしてみせた。
二週間が経過して、左近は初めて自室に腰を落ち着けることができたのだ。
左近に割り当てられた部屋に置かれた家具は、寝台と鏡台だけだ。極めて簡素な作りであったが、置かれている家具はどれも一級品のように見えた。事実、高級品であった。
寝台で睡眠をとっていると、コンコンと扉を叩く音が廊下から聞こえた。左近は寝台から起き上がらず、「入れ」と応じる。扉が開くと、初老の男が入って来た。
彼の名前は犬塚光太郎。元武士であるため名字を持っている。背筋をしっかり伸ばし歩く癖のある、左近専用の家令だ。
左近は寝台から起き上がる。
「おはようございます。左近様。朝食の準備ができております」
犬塚は言った。左近は「ん~」と答えを保留する。寝台の上のお布団が気持ち良すぎて正直、まだ寝ていたい。一方で朝食と聞いたら胃の方が目覚めてしまった。ぐーとお腹がなる。犬塚は家令としての仮面を崩し、クスリと笑った。
「朝食をお持ちいたしましょうか?」
寝台の前に立つ犬塚は尋ねる。夏樹と春香は食卓を囲んで食事をする習慣があった。自室にて食べてもよいが……と左近は少し考えたあと、名残惜しそうに寝台から這い出てくる。
「いや、俺も食堂へ行く……」
這い出してきた左近の着物を犬塚は直す。櫛で髪の毛をすき、温かい蒸し手ぬぐいで顔を拭いてやる。手慣れた動作だった。
左近が何もせずともすっかり身だしなみが整った。
「ありがとう」
「では、参りましょうか」
左近は犬塚の後をついて自室を出る。広い廊下はよく磨き上げられており鏡のようだ。埃ひとつない。
春香と夏樹、二人の屋敷は元々貧乏大名の京屋敷だったそうだ。貧乏大名とはいえ京屋敷だ。それなりに広い。姉妹二人と数人の使用人しか住んでいないため、余計に広く感じるのかもしれない。
春香と夏樹にはもう一人兄弟姉妹がいるらしい。左近が使っている部屋は行方不明の兄弟姉妹のものだ。
「こんなに広いと掃除も大変だろう?」
左近は何気なく犬塚へ尋ねた。犬塚は「お嬢様達のためと思えば苦ではございません」と答える。
犬塚に限らず、この屋敷に住む使用人は仕事以上の忠誠心を夏樹と春香の二人に持っているようだ。その理由は、二人の母親にあるらしいのだが、左近は詳しいことまではまだ聞けないでいる。
夏樹のような人格者だったのだろうか? それとも春香のように放っておけない人物だったのだろうか?
食堂では、薄紅色の着物で、藤の花の髪飾りをつけた春香が静かに椅子に腰掛けていた。彼女は黙っていれば、薄氷のような儚さを持っている。ちょっとした暴力でバラバラになってしまいそうだ。
食堂へ入室した左近に気がつくと、春香の表情は夏の花のように明るくなった。
「おはよう! 遅いぞ! 左近」
「おはよう。夏樹はどうした?」
「寝ていると思う。誰かさんが来てから忙しいみたいだ」
春香はわざと嫌味ったらしく言うと、白い歯を見せて笑った。春香なりの冗談なのだろう。左近は椅子に腰掛ける。
白米と麦飯を混ぜたご飯、味噌汁、漬物、目玉焼き、焼き魚などが犬塚の給仕にて食卓の上にならべられていく。
二人で「いただきます」と言い、朝食を食べ始める。
「食事の後に、姉さんの部屋に行こう」
箸を止めて春香が言った。よく躾が行き届いているのだろう。彼女の食事風景は基本上品だ。汚さがない。左近は魚の身をほぐしながら、「なぜ?」と聞き返す。
「お前に渡すものがあるそうだ」
左近は犬塚へそれとなく視線を送る。訳知り顔の犬塚は静かに頷いた。春香の思いつきではないようだ。断る理由もないので左近は首肯した。
焼き魚を口へ運ぶ。塩加減が絶妙だ。
うまい……。おかわりしたいけどどうしよう……。
左近は少し考える。犬塚を見ると、おひつとしゃもじを持っていた。結局二杯おかわりをすることになる。有能な家令というのも考えものだな。
夏樹の使用人である女が御膳に夏樹用の朝食を乗せ、夏樹の部屋へ向かう。その後ろを、のそのそと春香と左近が着いていく。
「左近、左近、左近! お前に渡すものってなんだと思う?」
「思いつかんなぁ」
左近は顎を撫でながら答えた。春香は不満そうに鼻を鳴らした。
「なんだ、左近も知らないのか……」
春香とは違い、夏樹のことだから変なものじゃないだろう。だが、春香の姉だしなぁ。突飛なものをくれる可能性も否定できない。変なものをもらっても困るんだよなぁ。
屋敷の中に夏樹の部屋はいくつかある。今日の部屋は図書室のようだ。春香が扉をコンコンと叩く。扉越しに眠そうな声が漏れた。
春香は扉を開ける。隙間から甘い香りとカビの臭いが混じった不思議な匂いが漂い鼻孔をくすぐる。その部屋は、本棚と散らばった本の山で足の踏み場がない。黒檀の大きな机と長椅子以外はすべて本といってもよいだろう。
その部屋の女主人は、長椅子を寝台の代わりにして、夢うつつの表情だった。夏樹はすこぶる朝が弱いらしい。基本的に朝は眠たそうにしていて、不機嫌だ。螺子が二、三本抜けているといってよいだろう。
夏樹はぼんやりした調子で長椅子から起き上がる。浴衣から豊かな胸がこぼれ落ちそうで、左近は表情には出さないが喜ぶ。
もう少し……あちょっと……で……見える……などと冷静に考えていた。口元が自然とほころぶ。
目ざとく使用人の女が左近の視界を防ぐような進路をとり、夏樹へ近づく。さっさと彼女の浴衣の乱れを整える。左近の視線に気がついた春香が、彼のスネに蹴りを入れた。
……ッチ。
「すみません。お恥ずかしいところをおみせしました」
使用人から受け取った蒸し手ぬぐいで顔を拭き、まだ本調子ではないが、夏樹は恥ずかしそうに頬を朱色に染める。
「いえいえ~」
「朝から申し訳ありません。左近殿に渡したいものがあるのです。受け取ってください。紅葉さん、お願いします」
夏樹は使用人の紅葉になにがしかを頼む。紅葉が用意のために部屋を出て行くと、夏樹は微笑む。
左近と春香は顔を見合わせて首を傾げた。
かちゃかちゃと音を立てて、紅葉が一着の服と鋭剣を持ってきた。
「軍衣か」
「はい。大尉の階級もおつけいたします。いかがですか?」
「な!?」
夏樹の言葉に、春香は絶句した。一瞬、左近は浮かない顔をしたが、すぐに表情を消す。
「大尉っちゃどのくらいの階級だい?」
「私より偉い階級……」
春香は頬を膨らませて答えた。
ふむ。悪くない。