叛徒と戦災者
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三月二七日。
花々が咲き乱れ、人々は足を止め、その美しさにため息を吐くのが例年の慣しだ。
満開に咲いた江戸の桜は特に美しかった。
晴れていればさぞ見応えもあったであろうが、今日は朝から鉛色の空模様だった。湿度が高い。昼頃には空が泣き出し、懸命に咲き乱れている桜の花を散らすだろう。
天狗面も足を止め、桜の木々を見上げる。一枚、二枚と花びらが舞い散っていた。天狗面は、なぜ桜の木を見上げたのか自分でも理解できなかった。その上、はたと桜が咲いていることに初めて気がついたのだ。
桜の季節なのか……。
ことを起こしたときには、まだ芽吹いてすらいなかった桜が咲き乱れていた。そして、それに気がつく余裕が自身から失われていたことに驚いた。
ひらひらと舞い散る桜の花びらを呆けたように眺めていた天狗面は、自身が泣いていることに気がつく。天狗の面をずらし、頬を伝う涙を拭う。
「涙? なぜ?」
天狗面は呟いた。
なぜ私は泣いているのだろうか? わからない。
涙で濡れた掌に散り落ちた桜の花びらが乗る。天狗の面を被りなおし、花びらを懐紙に挟み大切そうに胸元へしまった。
また、桜を見上げようとしたとき、悲鳴が聞こえる。
「またか……」
うんざりだといったように吐き捨てると、腰に帯びた刀の鯉口を切り、駆ける。枯草と若草の混じった草を踏み、声のしたほうへ向かって真っすぐ進んでいった。
ずいぶんと道から外れた、見通しの悪いくさむらに刀を持った男がいる。その男の前には、腰を抜かした少年、その少年を庇うように覆いかぶさったヒゲ面の老人がいた。
「何をしている!」
天狗面は怒鳴り、刀を抜く。天狗面に気が付いた老人がしわがれた声で助けを求めた。
小刀を持った男は、天狗面の姿を認めると小刀を捨て、わき目をふることなく一目散に逃亡する。思いのほか足が速く、迷いなく逃げる男。天狗面は少し男を追いかけたが逃げ切られてしまった。
仕方なく刀を鞘に納め、老人と少年のもとへ戻る。
「大丈夫か?」
「あたしを庇って、じい様が足を切られました」
小汚いかっこうをした少年が泣きながら天狗面に伝えた。ヒゲ面の老人は苦しそうに息を切らしている。足を見てみると深い切り傷が付いていた。骨まで達しているようだったので、天狗面は指輪状の歌石を指にはめた。
「な、なにをするので?」
少年が訊ねる。その言葉を無視して天狗面は歌った。舞い散る桜の花びらが粉雪に変わったかのように錯覚する、背筋が伸びるような凛とした歌声であったが、人によっては冷たいと思うだろう。心がないと。
ヒゲ面の老人の足の傷がゆっくりと治り、ついに完治する。
「傷が……治った! ありがとうごぜえます」
ヒゲ面の老人は呟き、深々と天狗面に頭を下げる。
「気にするな。それより、なぜ襲われていたのだ?」
「孫娘が……犯されそうになっていたんで……」
「……ん? 娘?」
天狗面は小汚い少年だと思っていた、少女に視線を向けて訊ねた。少女は不服そうだが頷いた。天狗面は少女の胸をむんずと掴む。
「ひゃ⁉︎」
胸が無かったので男だと思ったが、膨らみ始めた胸の柔らかさを掌に感じた。
少女の顔をチラリと見る。顔は土や炭、垢などで汚れているが、目元などは整っており、綺麗に着飾らせてやればそれなりに化けるのではなかろうか。
「そうか。間違えてしまった。すまない」
「い……いえ」
「ここは戦場から近い。なぜ、ここにいるのだ?」
「あっしらは、政府のお偉いさんに家を徴発され、あてどなくさ迷っておりましたら……」
ヒゲ面の老人はうな垂れて言った。天狗面は「金は支払われなかったのか?」と聞く。今度は少女が口を開いた。
「もらっていません! 疎開していないのは自己責任。速やかに家から出て行くか、叛徒として処刑されるかを選べって!」
涙を浮かべ、心底悔しそうに震えていた。
和国には徴発令というものがある。軍需品を満たすために和国臣民に課せられた義務だ。
ただし、軍は徴発した物品を賠償する責任があるはずだった。つまり、二人には金か軍票が払われるはずだが、着の身着のまま追い出されたようである。
目の前の二人は、軍による掠奪と自身が起こした戦災の被害者のようだった。
「そうか。……少々むさ苦しいが家を用意しよう」
「え? よろしいので?」
「反乱を起こした責任が私にはある……。強制はしない」
天狗面は二人の顔を交互に見た後、続ける。
「嫌なら、ひとつ山を超えたところに村があり、戦災から逃れている者の集落がある。途中までだが護衛をしよう」
少女と老人は何事か話し合いを始めた。天狗面は意見の一致をみるまでは何も言うまいと、二人から少し離れた場所に腰を下ろす。
辰治を首謀者として反乱が始まり、三週間が経過した。小さな反乱の炎は大火となり江戸を焼き続けている。
軍事施設を襲い物資は潤沢にあり、叛徒の首脳部は辰治が良くまとめていた。憂は少ない。
ただ、反乱の主目的である野口知事は姿をいち早くくらましたため、反乱は終わりの見えない泥沼の様相を呈し始めていた。
拳の落としどころが無いのである。
また、時間の経過とともに、規律が乱れ始めた。物資の憂は無いが、一方で精神の摩耗は激しい。
特に女不足から強姦が増えているのが、天狗面の悩みだった。
江戸という地は元々、男性の人数に比べて女性が少ない。圧倒的に男が多いのだ。ただ、暗黙の了解と法により女性は守られていたが、今はそれらが機能していない。
いつ死ぬかわからないのだ、その恐怖心を紛らわせるため、女を犯しに走る男どもが多かった。
血の匂いをまとう天狗面ですら欲情し理性を失った男からすれば、良い獲物であり、寝込みを襲われ何度か撃退する羽目ことになったのだ。
天狗面をはじめとした皇夜教会の導士が、少ない人員を割き警らに出て、被害を件数を少なくしているが、全てに対応することはできないでいるのが現状である。
……あんな少年か少女かわからん子にまで手を出し始めるとはな。辰治に現状を伝えるべきだろうか?
天狗面はため息をつき、竹製の水筒を外套から取り出し、お茶を一口だけ口に含む。目蓋を閉じると、じんわりと瞳が痛い。
少しだけ疲れた……。
「あの……」
天狗面はハッと顔を上げる。少女が心配そうな顔をしていた。どうやら座りながら眠っていたようだ。自身の未熟さを恥じながら、悟られないように返事をした。
「じい様と話し合って、天狗面様の用意した家へ行くことにします」
「そうか。うん」
天狗面は頷くと立ち上がり、「ついてこい」と二人を辰治の村へ案内することにした。
「二人とも名は何という? 私は天狗とも導士とでも呼べばいい」
「はぁ。あっしは友之といいます。孫は冬香と」
友之がしわがれた声でボソボソっと答え、頭を下げた。天狗面は「冬香」と呟き、鼻を鳴らす。
「何か?」
「懐かしい響きだと思ってな」
冬香は不審げに聞き返し、天狗面はひどく優しい声で答えた。まるで子供に言い聞かせるように優しく慈愛の含んだ声だった。