夜のひととき
「私は、弱いのかな?」
春香は気弱そうに尋ねてきた。左近は「ん?」と声を漏らす。最初は冗談か何かかと思ったが、春香のひどく弱々しい声と瞳の揺れに左近は気付いた。
これは、薬が効きすぎたか?
左近は長靴を脱ぐ手を止めた。
ここで適当にあしらってしまうと、春香は再起不能になってしまうだろう。それはきっと、この世界にとって大きな損害だ。そして、それを知っていて見逃すのは、世界に対する大罪だ。
左近は廊下に腰掛けると、ゆっくりと話し始めた。
「そうさなぁ。俺が過度に傷を修復すると眠くなるって話……覚えているか?」
「え? うん」
「実はな、俺はさっきまで練兵場で寝ていたんだ」
左近は悪さが見つかった子供のように、気恥ずかしそうに春香へ言った。
京の街で迷ったなんて真っ赤な嘘だ。前後不覚になるほどの睡魔によって、練兵場にて深い眠りについていた。
「死にかけるくらいじゃ一日中寝ることはない。今日ほどの傷を受けたのは、戦国の世、最後の戦以来だ」
「……そうなの?」
「うむ。春香がどう考えているか、俺はわからない。だが、お前は強い。自信を持て! 誰がなんと言おうと、俺は認めるぞ。お前は強い!」
いつの間にか座っていた春香の背中を左近は叩いた。春香の瞳から迷いの揺れは消えていた。ここで調子に乗るのが春香の悪い癖なのも、短い付き合いであるが左近は知っている。
「ただ、攻撃が歌魔法に偏りすぎだ。歌魔法に頼らない、体術の訓練はしておけ」
「う……。わかった」
春香は心底嫌そうな声色で答えた。左近は笑う。
長靴がようやく脱げ、さっさと自室へ行こうとすると、春香が付いてきた。まだ、何か用があるのだろうか? 訝しげに思い、後ろにいる春香へ左近は尋ねた。
「なんだ? まだ何か用があるのか?」
「賭け、負けたから」
賭け? 何か賭け事をしたかしら? と考え、そういえば春香を奮起させるために賭けをしたことを思い出す。敗者は勝者の命令をひとつ聞くというものだ。
春香を奮起させるための口八丁であり、特別何かしら春香にしてもらいたいことなどなかった。
「賭けかぁ。ふーむ、すっかり忘れておったわ」
「ムー。黙っていればよかった! で、命令は何よ? いやらしい命令は嫌だからな! 私は御家のために結婚をしなければならない身なんだから!」
「お前みたいな、女っ気のない嫁をもらう殿方が哀れで仕方ない」
「あぁあん! ふっざけんなよ! 私が少し本気を出せば、左近なんかイチコロだからな!」
春香はどたどたと足音を立てて左近の行くてに回り込んできた。左近は面倒臭そうな顔をして、春香を見下ろしていると、春香は廊下に座ると三つ指をついて深々と頭を下げた。
「旦那様、お帰りなさいませ。晩ご飯にいたしますか? お風呂にいたしますか?」
いつもの春香の溌剌とした声色より、低く落ち着いた声色で、少しだけゆっくりと話し始める。
一瞬で声色を変えたことにも驚いたが、落ち着いた大人の女性を思い浮かばせる、そんな声色と話し方だった。
「む……」
「うふふ。どういたしました、旦那様? 鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔ですよ。御加減が悪いのですか。春香は、心配です」
「むむむ」
「先程から唸ってばっかり。ふふ、変な旦那様だわ」
「うぬぬぬぬ」
「どうですか、私が少し本気を出せばこのようなものです」
春香は着物の袖口で口元を隠し、お淑やかな笑った。いつもは子供と侮っていた春香が大人びて見える。このような表情もできるのかと、左近は感心した。
見た目は春香なのだが、中身を別の誰かにしたような変な感覚でもあった。
そのせいか、自身に起きた異変に気がつき、左近は思わず声を上げる。
「見ろ、春香!」
「なんですか、旦那様」
「鳥肌が立ってきた」
「なんでよぉ!」
左近は自身を抱くようにして、二の腕をさする。その姿を見た春香は顔を真っ赤にして怒り始めた。声色もいつもの溌剌としたそれに戻る。
なんだか安心してしまい、左近は気の抜けた笑顔を浮かべた。
「無理に大人の女性ぶるよりはそのままの方が良い」
「なにさ! 馬鹿にしているの?」
「いやいや、自然体の方がらしいと言っていおるのだ」
「でも、未来の旦那様の前ではお淑やかにしなさいって、母様と姉さんが……」
春香は手をモジモジさせ、口ごもりながら答えた。左近は鼻で笑う。そして、子供に言い聞かせるように言った。
「そんなものは、すぐにボロが出るだろう?」
「うん。まぁ……」
「いいか春香。自然体の春香が一番可愛いのだ。無理に自分を偽ることはせんことだ」
春香は少しだけ頬を朱色に染めて「お、おう」と呟く。左近は頷いた。春香は黒々とした髪を撫でながら照れ笑いをしているようである。
「ありがとう」
「うん? 気にするな。賭けの命令は忘れた頃に使ってやるさ」
「むー。バカ左近! 変な願いはダメだからな!」
春香は悪戯っ子のように舌を出すと、さっさと廊下を歩き自室のほうへ去って行く。左近は小さくため息をついた。
「あ、そうだ」
春香はひときは大きな声をあげ、足を止めた。そして振り返る。
「うん? なんだ」
「練兵場では左近が少し怖かったけど、今の左近はすごく好きだぞ」
「あ……はい」
「ふふ。おやすみ」
「うむ……おやすみ」